□投稿者/ 勿忘草 -(2021/04/22(Thu) 21:14:47)
| パニチェさんこんばんは。
>>ただ、もし、救われているのなら、それにふさわしい行いをするはずだと >>予定説を信じると、こうした焦燥感にかられて、まじめな生活を送るはずなので、仕事に精を出すと言う事になり、それが資本主義の原動力にもなると言う事のようです。 > > 全くそうは思いませんし、もの凄い違和感があります。 > 例えば目の前に落ちているゴミを拾うのに天国や神の国、最後の審判や予定説なんて必要ありません。 > > むしろ何らかの見返りや脅迫観念、あるいは打算ありきの行為は煩悩の汚れのある行為であり純真無垢ではありえないってのが仏教的な教説ですし、ニーチェ的には自らの意志で自らを律する君主道徳の対極にある奴隷道徳です。
生命力と自由意思を重視したニーチェから見たらそうかもしれません。
ただ、私は、ウィトゲンシュタインの論理哲学論考により推察していくと
「2.011 事態の構成要素になりうることは、ものにとって本質的である。
これは、次の命題2.012と関わる内容です。
2.012 論理においては何ひとつ偶然ではない。あるものがある事態のうちに現れるならば、その事態の可能性はすでにそのものにおいて先取りされていなければならない。」
とあり、論理空間を要素命題に分析し要素命題が二つならば論理式で命題を表すとしたときに、排中律でトートロジーと矛盾が成り立つ訳ですから、予定説とは、先取りされた論理であると考えられると思い予定説にこだわっているところです。
ただ、人間の認識と自由意思のみが不幸からの脱却につながると思ってはいます。
自由意思が無かったら神を信仰も出来ない訳ですから。
それから、「自由意志」は存在する(ただし、ほんの0.2秒間だけ)というサイトが ありましたので上げておきます。
https://wired.jp/2016/06/13/free-will-research/
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