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■12430 / inTopicNo.13)  おくたがわさんへ Re[23]: 知性と判断
  
□投稿者/ pipit -(2021/05/05(Wed) 23:58:01)
    2021/05/06(Thu) 00:21:33 編集(投稿者)

    No12391に返信
    > ****
    > 現段階での自分の理解
    > 「分割できる」という高次の概念は、様々な概念や像に適用できるが、「すべての物体は分割できる」という判断では「物体」という概念に適用されている。また物体という概念は、リンゴ・UFO・パソコンなど様々な対象に適用できるが、これらは最終的に個々のリンゴ・パソコンなど我々が直接に経験できる(UFO?)対象に結びつく。「すべての物体は分割できる」という判断によって、(個々の)リンゴ・UFOなどが分割できるということも間接的に示される。
    >
    > (高次)「分割できるもの」⊃「物体」⊃「リンゴ」∋このリンゴ(最終的に対象と直接かかわる像)
    >
    > 『(判断に含まれる概念は)対象と直接にかかわるような一つの与えられた像を含んでいる』の部分(中山さん『像が含まれている』)、含むという言葉を使っているのは上記の包含関係を示しているのでは。
    > 英文において「判断が像を含む」ではなく「概念が像を含む」となっているため、このように解釈しています。<

    カントは、論理学の講義もしてたようですから、おくたがわさんのおっしゃるような発想をしてたかもしれませんね。



    > 「クジラは哺乳類である」という判断ならば
    > 哺乳類⊃クジラ⊃シロナガス∋目の前のシロナガス
    >
    > 『それによって多数の可能な認識が一つにまとめられる』『この高次の像において、ほかのさまざまな可能的な認識が、一つにまとめられる。』は、おそらくですが
    > クジラについて「海にいる」「大きい」「食べられる」「食べてはいけない」「分割できる」などなど様々な概念による可能的認識を考え得るが、その中で、「クジラは哺乳類である」という判断においては「哺乳類」という概念を適用してまとめている。<

    この判断(クジラは哺乳類である。)のまとめ型は、全称判断であり、肯定判断であり、断言判断であり、でいいのでしょうか?


    > ここは、感性による直観は受容的だが、概念による認識・思考は自発的という件と関係するかも。
    > 対象から触発されて受容的に発生する像とは違って、どのような概念を当てはめるかによって判断の内容が変わってくる(非受容的)
    > 「リンゴ」に対して「果物」「食べられる」を適用するか「落ちる」を適用するか。<

    『概念の営みは、思考の自発性に根拠づけられているのである。』
    『純粋理性批判2』カント、中山元先生訳、光文社古典新訳文庫p50より引用

    とありますもんね。

    非・受容的、というおくたがわさんの表現がおもしろかったです。
    論理ですね〜、人間の思考はおもしろいですね、人間すごいなー
    でも、ワンくんも、非◯◯という考え方、してるかもですもんね。

    生命はいろいろ不思議 !



引用返信/返信 削除キー/
■12429 / inTopicNo.14)  おくたがわさんへ
□投稿者/ pipit -(2021/05/05(Wed) 23:35:54)
    こんばんは!
    No.12391

    >すなわち、直接の像に代わって、その像や他の様々な像を含むより高次の像が、我々が対象を認識するために利用され、それによって多数の可能な認識が一つにまとめられるのである。/拙訳ここまで/

    //中山元さんの『まず対象と直接にかかわる像が存在し、その上位に〜』の部分がかなり違いますが、英文ではそう読めず、原文がそうなのか元さんの意訳なのか(意訳としては適切かも)<

    原文、気になったので調べてみました。
    https://www.gutenberg.org/cache/epub/6343/pg6343.html.utf8
    The Project Gutenberg EBook of Kritik der reinen Vernunft (2nd Edition) by Immanuel Kantによると、

    (カントの原文)※ドイツ語の記号?は入力できてません。
    『Alle Urteile sind demnach Funktionen der Einheit unter unseren Vorstellungen, da namlich statt einer unmittelbaren Vorstellung eine hohere, die diese und mehrere unter sich begreift, zur Erkenntnis des Gegenstandes gebraucht, und viel mogliche Erkenntnisse dadurch in einer zusammengezogen werden. 』
    みたいです。

    Google翻訳にかけた結果は
    (Google翻訳の日本語訳)
    『したがって、すべての判断は私たちの表現間の統一の機能です。なぜなら、直接的な表現の代わりに、これらといくつかを理解するより高いものがオブジェクトを認識するために使用され、それによって多くの可能な認識が1つにまとめられるからです。』
    (Google翻訳の英語訳)
    『Accordingly, all judgments are functions of the unity among our representations, since instead of a direct representation a higher one, which understands these and several among themselves, is used to cognize the object, and many possible cognitions are thereby brought together into one.』

    でした。
    翻訳結果から推測するに、中山先生の日本語訳は、中山先生による説明が補足的に入った、意訳、なのかな?と思いました。
引用返信/返信 削除キー/
■12416 / inTopicNo.15)  Re[25]: おくたがわさんへ
□投稿者/ pipit -(2021/05/05(Wed) 18:09:01)
    難問!!!

    ちょっと考えてみます〜

    きちんと考えるキッカケを作ってもらって、ほんとに嬉しいです。ありがとうございます!

    とりあえず、夕食テイクアウトなのだ〜うふふふ〜(サボり)
    いってきま〜ふ(^o^)/
引用返信/返信 削除キー/
■12411 / inTopicNo.16)  おくたがわさんへ
□投稿者/ pipit -(2021/05/05(Wed) 17:33:28)
    おくたがわさん、こんばんは!
    書き込みありがとうございます(^_^)

    No12391に返信(おくたがわさんの記事)

    > //中山元さんの『まず対象と直接にかかわる像が存在し、その上位に〜』の部分がかなり違いますが、英文ではそう読めず、原文がそうなのか元さんの意訳なのか(意訳としては適切かも)<

    わたしもはっきりとはわからないのですが、
    中山先生訳の102前半で出てくる、カントが概念を生む知性の機能について述べる文章で、

    『わたしがこの〈機能〉という語で意味しているものは、心に思い描かれたさまざまな像を一つの共通な像のもとに秩序づける行為の統一的な作用のことである。』
    『純粋理性批判2』カント、中山元訳、光文社古典新訳文庫、p50より引用

    とあって、

    J. M. D. Meiklejohnさんが、

    『By the word function I understand the unity of the act of arranging diverse representations under one common representation.』

    と訳されてますね。
    https://www.gutenberg.org/files/4280/4280-h/4280-h.htm#chap33
    『The Critique of Pure Reason
    By Immanuel Kant

    Translated by J. M. D. Meiklejohn』より引用


    【under】one common representation.
    と訳されてるので、もしかしたら、カント自身も、上下をイメージする言葉を、別の箇所で使っている可能性もあるのかな、と、妄想しました。
    もちろん、おっしゃるように中山先生の意訳かもしれませんね。
    原文を、し、し、調べた方がいい時は、おっしゃってくださあ〜い _(┐「ε:)_

    ここまでをいったん投稿します〜
引用返信/返信 削除キー/
■12395 / inTopicNo.17)  おくたがわさん、うましかさんへ
□投稿者/ pipit -(2021/05/05(Wed) 11:13:11)
    こんにちは、書き込みありがとうございます!

    また後ほど、楽しみにゆっくり読ませていただきますね。嬉しいなぁ♪

    今日はもともとの休みで、休日楽しんでまーす。
    読みたい本や、見たいYouTubeはいっぱいあるけど、あっという間に時間過ぎるなぁ(^^;

    おつかれさまです、みんなそれぞれによい一日になりますように☆彡
引用返信/返信 削除キー/
■12394 / inTopicNo.18)  Re[22]: 超越論的認識
□投稿者/ pipit -(2021/05/05(Wed) 11:05:10)
    No.12363
    おくたがわさん、こんにちは、書き込みありがとうございます!

    中山先生本の088の箇所を、御子柴善之先生が、『シリーズ 世界の思想/ カント 純粋理性批判』角川選書、という解説本のp113で訳されてますので、まず引用しますね。

    (カント原文の御子柴善之先生による訳)
    『ここでひとつ注意をしておこう。この注意は、以下に続くすべての考察に影響を及ぼすものであり、しっかり念頭に置かれねばならないものである。
    あらゆるア・プリオリな認識を超越論的と呼んではならない。
    超越論的(すなわち、ア・プリオリな認識の可能性あるいはア・プリオリな認識の使用)と呼ばれねばならないのは、
    なんらかの表象(直観あるいは概念)がもっぱらア・プリオリに適用されること、またいかにして適用されるか、
    あるいはその表象がア・プリオリに適用可能であること、またいかにして適用可能であるかを、それによって私たちが認識するア・プリオリな認識である。(A56/B80)』
    引用終了



    > J. M. D. Meiklejohn訳 Kant, Immanuel. The Critique of Pure Reason . Kindle 版.
    >
    > 『〜 not every cognition a priori, but only those through which we cognize that and how certain representations(intuitions or conceptions) are applied or are possible only a priori; that is to say, the a priori possibility of cognition and the a priori use of it are transcendental.』
    >
    > 拙訳
    > 「アプリオリな認識の全てが超越論的なのではなく、そのアプリオリな認識によって、特定の像(直観や概念)がアプリオリにのみ利用されたり可能となることやその仕組みを、我々が認識できる、そのようなアプリオリな認識のみが超越論的なのだ。すなわち認識のアプリオリな可能性や利用が超越論的なのである。」
    >
    > 中山元さんの構文を一部利用すると
    > 「超越論的な認識とは、アプリオリな認識全てを言うのではなく、そのアプリオリな認識によって、特定の像(直観や概念)がアプリオリにのみ利用されたり可能となることやその仕組みを、我々が認識できる、そのようなアプリオリな認識のみを指すのだ。言い換えれば、認識のアプリオリな可能性や利用に関するものが超越論的な認識なのである。」<

    わたしには、とても区別がわかりやすい、おくたがわさんの訳に思えます!!(*^o^*)
    頼もしいなぁ〜


    > 超越論的認識自体がアプリオリだし、そして、その(超越論的)認識によって、直感や概念のアプリオリな利用について考察できるのでもある。<

    はい、直観や概念のアプリオリな利用についての考察を可能とする認識、が、超越論的認識、ってことですよね、
    とわたしは今のところ理解しています。



    > これについては以前 pipitさんと話したことがあったのを思い出して探したらばっちり引用いただいた文章がありました。
    > No10919
    > >>pipitさんの投稿から引用
    > (カントの文章の中山元先生訳)
    > 『わたしは、対象そのものを認識するのではなく、アプリオリに可能なかぎりで、わたしたちが対象を認識する方法そのものについて考察するすべての認識を、超越論的な認識と呼ぶ。』
    > 『純粋理性批判1』中山元先生訳、光文社古典新訳文庫p57より引用
    >
    > ********
    >
    > この箇所を御子柴善之先生が解説された文章を引用します。
    >
    > (御子柴善之先生の解説文章)
    > 『認識はなにかの認識ですから、認識には対象があります。そうした対象そのものではなく、対象認識の仕方を対象とした認識、それもア・プリオリな認識仕方を認識するのが「超越論的」な認識です。
    > ここで言及される「仕方」という表現に注意するなら、「超越論的」と呼ばれる認識は、認識の対象ではなく認識の主観に向けられていることが分かります。
    > なお、私たちにとっての問題はすでに「いかにしてア・プリオリな総合判断は可能か」という問いにまとめられていますが、この問いに答えようとするとき、私たちが採用する哲学的態度が「超越論的」と呼ばれるのです。』
    > 『カント純粋理性批判』御子柴善之先生著、p77.78より引用
    >  pipitさんの投稿から引用終わり <<
    >
    > 自分の訳、けっこう良い線行ってない?<

    はい!!私に判断できるのかという問題はありますが、、、


    > 「超越論的な認識とは、アプリオリな認識全てを言うのではなく、そのアプリオリな認識によって、特定の像(直観や概念)がアプリオリにのみ利用されたり可能となることやその仕組みを、我々が認識できる、そのようなアプリオリな認識のみを指すのだ。言い換えれば、認識のアプリオリな可能性や利用に関するものが超越論的な認識なのである。」<

    わたしは、おくたがわさんは、とてもわかりやすく訳されていると思います!
    (わかりにくいと言われるかもしれない数々の点は、カント先生本人に帰するもの、と、わたしは思っています!)

    おくたがわさんには、響くのではないかと私が勝手に想像する、御子柴善之先生の解説文を、同本から引用します。

    (御子柴善之先生の解説文)
    『超越論的認識とは、そうしたア・プリオリな認識が可能であること、またいかにして可能であるかを認識させるような、ア・プリオリな認識なのです。したがって、超越論的という形容詞が用いられるのは、認識の対象についてではなく、私たちのこころの表象についてなのです。私たちはやがて「超越論的対象」や「超越論的理念」という表現に出会うでしょうが、このことを忘れないことが大切です。』
    『カント 純粋理性批判』角川選書、御子柴善之先生著、p113.114より引用。

    私たちのこころの表象についての認識、という見方を離れない努力をする超越論的哲学。
    理性による理性批判。
    人間による見解だから、おかしなところはあちこちあって当たり前と思うけど、
    それでも、カント以外でも、様々な人たちが、人間の理性能力を信じ、行おうとする態度に、感動します。
    もちろん、イコール、傲慢さと紙一重、ウラオモテ、の関係になりがちかもですけどね。

    にしても、カント、細かすぎですよね〜
    おつかれさまです!

    あ、あと、これ今回初めて知りましたけど、便利ですよね〜
    カントオタ、、、カント愛の強い方、まだ多そうだなぁと思いました(o^^o)

    読みたい箇所を探しやすい、プロジェクト・グーテンベルク内にあるカント本のインデックス↓
    https://www.gutenberg.org/files/59023/59023-h/59023-h.htm



引用返信/返信 削除キー/
■12393 / inTopicNo.19)  pipitさんへ
□投稿者/ うましか -(2021/05/05(Wed) 10:57:25)
    >ゆっくりですが、中山先生の解説も何回か読んで、理解していきたいと思っています。

    すばらしい!
    私のほうは動画での学習をなんとかやりきることができました。
    バラバラでカオスな思考に、ところどころ流れが生じてきた感じがします。気のせいかもしれませんが。

    今後、資料もコツコツそろえていこうとおもいます。

    >ゴールデンウィーク用のおやすみ、もらえなくて〜( ; ; )

    おつかれさまです!(´;ω;`)
    私はゴールデン、、とまではいきませんでしたが、おやすみはいただけました。
    ありがたいことです。

    >お互い楽しみながら理解進むと嬉しいですね、おつかれさまです!

    そうですね! おつかれさまです!



    それでは〜

引用返信/返信 削除キー/
■12392 / inTopicNo.20)  Re[21]:動画でおべんきょう終了!
□投稿者/ うましか -(2021/05/05(Wed) 10:37:19)
    おはようございます。pipitさん。
    おじゃまします。

    *******

    今回は、超越論的原理論>超越論的論理論>超越論弁証論

    『純粋理性批判』
    序論 ← 済
     超越論的原理論
         超越論的感性論 ← 済
         超越論的論理論
             超越論的分析論
                 概念の分析論 ← 済
                 原則の分析論 ← 前回済
             超越論的弁証論 ← 今回
     超越論的方法論

    これまで人間の認識の仕組みとして感性と悟性が説明された。しかしあとひとつ理性がのこっている。帰ってきたロシュフコーさんの説明によれば、理性とは「悟性の判断を総合的に関係づける推理の能力」である。たとえば三段論法がそれである。

    続く説明には、さきの純粋悟性概念を、帰ってきたロシュフコーさん曰く「添加物ゼロみたいなノリで、経験的なものがゼロで、こねくり回してできた」とされる、「純粋理性概念」(簡単には「理念」とも)が登場する。

    今回とりあげたパート、「超越論的弁証論」は、この純粋理性概念がどんな知識をもたらすかという議論。

    さて知識は経験によって得られる。だが経験を超えたことがら、たとえば神とか世界とかについてはどうなのか?先に結論をいえば、純粋理性概念によってもこれらは知ることはできない。なぜか?理性の推論の能力を用いてこれらを知ろうとしてもアンチノミー(二律背反)に陥ってしまうからである。

    アンチノミーとは、たとえば「世界に始まりがある」と「世界に始まりはない」という、相反する命題のどちらもが言えてしまう状態。カントによれば純粋理性概念は以下の4つのアンチノミーを生み出す。これらは片方の命題からもう片方の命題が証明できるが、そうすると両方の命題が証明できることとなり、よって両方の命題が否定されることになる。

    アンチノミー@ 
      世界には時間空間的に始まりがある × 世界には時間空間的に始まりはない
    アンチノミーA 
      世界にあるものはすべて単純なものからなる × 世界にあるものはすべて複合的である
    アンチノミーB 
      世界には自由による原因性がある × 世界には自然法則がある
    アンチノミーC 
      神という必然的存在がある × 神は存在せず、世界は偶然的である

    こうして神とか世界とか自由とかいう形而上学的なことについては純粋理性を用いても知りえないことがわかった。理性の能力を駆使してもアンチノミーという壁にぶちあたるため、人間がその外なる「世界の本体(物自体)」の正しい認識に達することはない。これがカントが『純粋理性批判』でしめした人間の知性の限界である。

    おしまい〜\(^^)/
    壁にぶちあたった理性の別の使い道は『実践理性批判』にて!

    <付記>
    帰ってきたロシュフコーさん、ありがとうございました!m(__)m
    動画を視ながら楽しく学習できました。
    私のメモ・まとめは、帰ってきたロシュフコーさんの動画を視聴し参考にしながら私が作成したものなので誤りがふくまれていても動画のせいではありません。あしからず。

    *******

    私はこの動画で学んでいます。
    https://www.youtube.com/watch?v=YE7d-fFT72c

引用返信/返信 削除キー/
■12391 / inTopicNo.21)  知性と判断
□投稿者/ おくたがわ -(2021/05/05(Wed) 10:22:06)
    おはようございます。
    中山元訳「純粋理性批判巻2」で、「ちょっと何言ってるかわからない」状態だった部分がやっと解読できた(つもり)ので報告します。

    第一節 知性一般の論理的な利用について p83あたり
    102 知性と判断
    中山元訳
    『ところでどのような判断のうちにも概念が一つは含まれているが、こうした概念はほかの多数の概念にも通用するものである。そしてこれらの多数の概念のうちには、一つの与えられた像が、そして対象と直接にかかわるような像が含まれている。たとえば「すべての物体は分割できる」という判断を考えてみよう。この「分割できる」という概念は、ほかのさまざまな概念とも関係する。しかし「[他のさまざまな概念のうちでも]分割できるという概念がここでは物体という概念に関連付けられている。そしてこの物体という概念は、わたしたちが経験するさまざまな現象と関連付けられる。だからこれらの[さまざまな現象の]諸対象は、「分割できる」という概念によって、間接的に思い浮かべられるのである。
     このようにすべての判断は、わたしたちのさまざまな像を統一する働きをする。まず対象と直接にかかわる像が存在し、その上位に、その像と[それに関連付けられた]そのほかのさまざまな像を含む高次の像が[概念として]あり、これが対象を認識する[判断の]ために利用される。この高次の像において、ほかのさまざまな可能的な認識が、一つにまとめられる。』

    次に、
    J. M. D. Meiklejohn訳(The Critique of Pure Reason . Kindle 版). にもとづく拙訳 
    『Of defined above use of understanding ingeneral』 (1254)
    「In every judgement there is a conception which applies to,〜」からの部分。
    /拙訳
    全ての判断は概念を含んでいるが、この概念は他の多数の概念に対しても適用可能なものである。そしてこの概念は、それら多数の概念のうち、最終的に対象と直接にかかわるような一つの与えられた像を含んでいる。
    例えば「すべての物体は分割できる」という判断において、「分割できる」という概念は他の様々な概念に適用しうる。しかし、それらの中で、ここでは特に物体という概念に適用されている。そしてこの物体という概念は、我々が経験する明確な諸現象に結びつく。それゆえ、これらの対象(諸現象)は「分割できる」という概念によって間接的に表すことができる。このように、すべての判断は我々の様々な像を統一する機能を持っている。すなわち、直接の像に代わって、その像や他の様々な像を含むより高次の像が、我々が対象を認識するために利用され、それによって多数の可能な認識が一つにまとめられるのである。/拙訳ここまで/

    //中山元さんの『まず対象と直接にかかわる像が存在し、その上位に〜』の部分がかなり違いますが、英文ではそう読めず、原文がそうなのか元さんの意訳なのか(意訳としては適切かも)


    ****
    現段階での自分の理解
    「分割できる」という高次の概念は、様々な概念や像に適用できるが、「すべての物体は分割できる」という判断では「物体」という概念に適用されている。また物体という概念は、リンゴ・UFO・パソコンなど様々な対象に適用できるが、これらは最終的に個々のリンゴ・パソコンなど我々が直接に経験できる(UFO?)対象に結びつく。「すべての物体は分割できる」という判断によって、(個々の)リンゴ・UFOなどが分割できるということも間接的に示される。

    (高次)「分割できるもの」⊃「物体」⊃「リンゴ」∋このリンゴ(最終的に対象と直接かかわる像)

    『(判断に含まれる概念は)対象と直接にかかわるような一つの与えられた像を含んでいる』の部分(中山さん『像が含まれている』)、含むという言葉を使っているのは上記の包含関係を示しているのでは。
    英文において「判断が像を含む」ではなく「概念が像を含む」となっているため、このように解釈しています。

    「クジラは哺乳類である」という判断ならば
    哺乳類⊃クジラ⊃シロナガス∋目の前のシロナガス

    『それによって多数の可能な認識が一つにまとめられる』『この高次の像において、ほかのさまざまな可能的な認識が、一つにまとめられる。』は、おそらくですが
    クジラについて「海にいる」「大きい」「食べられる」「食べてはいけない」「分割できる」などなど様々な概念による可能的認識を考え得るが、その中で、「クジラは哺乳類である」という判断においては「哺乳類」という概念を適用してまとめている。

    ここは、感性による直観は受容的だが、概念による認識・思考は自発的という件と関係するかも。
    対象から触発されて受容的に発生する像とは違って、どのような概念を当てはめるかによって判断の内容が変わってくる(非受容的)
    「リンゴ」に対して「果物」「食べられる」を適用するか「落ちる」を適用するか。
引用返信/返信 削除キー/
■12389 / inTopicNo.22)  うましかさんへ
□投稿者/ pipit -(2021/05/05(Wed) 08:57:36)
    No.12361
    うましかさん、こんにちは、あともう一息で、全体の把握が終わりますね!
    おつかれさまです(#^.^#)

    うましかさんに提示していただいた、形而上学的根拠づけ、と、超越論的根拠づけについての箇所、わたしにとっては、めちゃめちゃヒントになりそうな予感してます。
    とても嬉しいです、ありがとうです!

    ゆっくりですが、中山先生の解説も何回か読んで、理解していきたいと思っています。

    ゴールデンウィーク用のおやすみ、もらえなくて〜( ; ; )
    でも、明日は有給もらっちゃえました(^^)v
    今の状況の私にとっては、お仕事あるのは本当にありがたいことなんですけど(^^;
    (ですね♪ と自分に諭すぅ〜)

    お互い楽しみながら理解進むと嬉しいですね、おつかれさまです!

引用返信/返信 削除キー/
■12363 / inTopicNo.23)  超越論的認識
□投稿者/ おくたがわ -(2021/05/04(Tue) 09:26:04)
    2021/05/04(Tue) 09:39:10 編集(投稿者)

    おはようございます。

    中山元「純粋理性批判巻2」p.25-26辺り(電子本から換算しているので1,2ページずれがあるかもしれません)
    088 アプリオリな認識と超越論的な認識の区別

    元さんの訳がピンと来なかったので英文を見てみた。

    J. M. D. Meiklejohn訳 Kant, Immanuel. The Critique of Pure Reason . Kindle 版.

    『〜 not every cognition a priori, but only those through which we cognize that and how certain representations(intuitions or conceptions) are applied or are possible only a priori; that is to say, the a priori possibility of cognition and the a priori use of it are transcendental.』

    拙訳
    「アプリオリな認識の全てが超越論的なのではなく、そのアプリオリな認識によって、特定の像(直観や概念)がアプリオリにのみ利用されたり可能となることやその仕組みを、我々が認識できる、そのようなアプリオリな認識のみが超越論的なのだ。すなわち認識のアプリオリな可能性や利用が超越論的なのである。」

    中山元さんの構文を一部利用すると
    「超越論的な認識とは、アプリオリな認識全てを言うのではなく、そのアプリオリな認識によって、特定の像(直観や概念)がアプリオリにのみ利用されたり可能となることやその仕組みを、我々が認識できる、そのようなアプリオリな認識のみを指すのだ。言い換えれば、認識のアプリオリな可能性や利用に関するものが超越論的な認識なのである。」


    超越論的認識自体がアプリオリだし、そして、その(超越論的)認識によって、直感や概念のアプリオリな利用について考察できるのでもある。

    これについては以前 pipitさんと話したことがあったのを思い出して探したらばっちり引用いただいた文章がありました。
    No10919
    >>pipitさんの投稿から引用
    (カントの文章の中山元先生訳)
    『わたしは、対象そのものを認識するのではなく、アプリオリに可能なかぎりで、わたしたちが対象を認識する方法そのものについて考察するすべての認識を、超越論的な認識と呼ぶ。』
    『純粋理性批判1』中山元先生訳、光文社古典新訳文庫p57より引用

    ********

    この箇所を御子柴善之先生が解説された文章を引用します。

    (御子柴善之先生の解説文章)
    『認識はなにかの認識ですから、認識には対象があります。そうした対象そのものではなく、対象認識の仕方を対象とした認識、それもア・プリオリな認識仕方を認識するのが「超越論的」な認識です。
    ここで言及される「仕方」という表現に注意するなら、「超越論的」と呼ばれる認識は、認識の対象ではなく認識の主観に向けられていることが分かります。
    なお、私たちにとっての問題はすでに「いかにしてア・プリオリな総合判断は可能か」という問いにまとめられていますが、この問いに答えようとするとき、私たちが採用する哲学的態度が「超越論的」と呼ばれるのです。』
    『カント純粋理性批判』御子柴善之先生著、p77.78より引用
     pipitさんの投稿から引用終わり <<

    自分の訳、けっこう良い線行ってない?
引用返信/返信 削除キー/
■12361 / inTopicNo.24)  動画メモ再開
□投稿者/ うましか -(2021/05/04(Tue) 06:02:58)
    おはようございます。pipitさん。
    おじゃまします。

    *******

    今回は、超越論的原理論>超越論的論理論>超越論的分析論>「原則の分析論」。

    『純粋理性批判』
    序論 ← 済
     超越論的原理論
         超越論的感性論 ← 済
         超越論的論理論
             超越論的分析論
                 概念の分析論 ← 前回済
                 原則の分析論 ← 今回
             超越論的弁証論
     超越論的方法論


    ここまでをまとめると、人間の認識は、物自体からの刺激を感性が受け取り、それが直観となり、悟性によってバラバラな直観をまとめるのに概念、つまり12個のカテゴリーである純粋悟性概念が適用されて成立する。そのさいバラバラな直観を私の経験とするのが超越論的統覚。

    ところで直観に純粋悟性概念が適用できるのはなぜか?カントによれば両者を媒介する役割のものが存在する。それを「超越論的図式」、別名「超越論的時間規定」とよぶ。感性から得られた直観が時間の中でどう現れるか、それにみあうカテゴリー(純粋悟性概念)を当てはめようというルールブックが超越論的図式(超越論的時間規定)。

    たとえばカテゴリー「実在性」。時間の中で何かしらの感覚が現れたら、それは実在しているとして純粋悟性概念の「実在性」を当てはめる。また、たとえばカテゴリー「原因性」。時間の中である感覚が現れたすぐ後に別の感覚が現れたから先に現れたほうを原因としようというかたちで「原因性」を当てはめるといった次第。

    さてここまでの議論によりカントの認識論がそれまでの常識を変える「コペルニクス的転回」だという所以が理解できる。私たちの認識を超えた物自体の世界の側に何かしらの実在性や因果性があり、それが認識される(合理論、経験論)のではなく、物自体から感性を通して直観を受け取り、それらに私たちの純粋悟性概念をあてはめて、「〇〇は実在する」とか「〇〇は因果関係にある」と認識しているとカントは考えた。

    カント認識論にしたがうならば、かりに太陽が西から昇りそれまでの「太陽は東から昇る」という経験が覆され否定されることがあっても、それは因果性、つまり私たちの純粋悟性概念のうちの原因性のカテゴリーが否定されたことにはならない。カテゴリーは人間にとっては真理なのだ。カントはこうしてヒューム経験論(因果性の否定)を乗り越えた。


    あと3分ほどか〜 


    *******

    私はこの動画で学んでいます。
    https://www.youtube.com/watch?v=YE7d-fFT72c
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