□投稿者/ おくたがわ -(2021/05/04(Tue) 09:26:04)
| 2021/05/04(Tue) 09:39:10 編集(投稿者)
おはようございます。
中山元「純粋理性批判巻2」p.25-26辺り(電子本から換算しているので1,2ページずれがあるかもしれません) 088 アプリオリな認識と超越論的な認識の区別
元さんの訳がピンと来なかったので英文を見てみた。
J. M. D. Meiklejohn訳 Kant, Immanuel. The Critique of Pure Reason . Kindle 版.
『〜 not every cognition a priori, but only those through which we cognize that and how certain representations(intuitions or conceptions) are applied or are possible only a priori; that is to say, the a priori possibility of cognition and the a priori use of it are transcendental.』
拙訳 「アプリオリな認識の全てが超越論的なのではなく、そのアプリオリな認識によって、特定の像(直観や概念)がアプリオリにのみ利用されたり可能となることやその仕組みを、我々が認識できる、そのようなアプリオリな認識のみが超越論的なのだ。すなわち認識のアプリオリな可能性や利用が超越論的なのである。」
中山元さんの構文を一部利用すると 「超越論的な認識とは、アプリオリな認識全てを言うのではなく、そのアプリオリな認識によって、特定の像(直観や概念)がアプリオリにのみ利用されたり可能となることやその仕組みを、我々が認識できる、そのようなアプリオリな認識のみを指すのだ。言い換えれば、認識のアプリオリな可能性や利用に関するものが超越論的な認識なのである。」
超越論的認識自体がアプリオリだし、そして、その(超越論的)認識によって、直感や概念のアプリオリな利用について考察できるのでもある。
これについては以前 pipitさんと話したことがあったのを思い出して探したらばっちり引用いただいた文章がありました。 No10919 >>pipitさんの投稿から引用 (カントの文章の中山元先生訳) 『わたしは、対象そのものを認識するのではなく、アプリオリに可能なかぎりで、わたしたちが対象を認識する方法そのものについて考察するすべての認識を、超越論的な認識と呼ぶ。』 『純粋理性批判1』中山元先生訳、光文社古典新訳文庫p57より引用
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この箇所を御子柴善之先生が解説された文章を引用します。
(御子柴善之先生の解説文章) 『認識はなにかの認識ですから、認識には対象があります。そうした対象そのものではなく、対象認識の仕方を対象とした認識、それもア・プリオリな認識仕方を認識するのが「超越論的」な認識です。 ここで言及される「仕方」という表現に注意するなら、「超越論的」と呼ばれる認識は、認識の対象ではなく認識の主観に向けられていることが分かります。 なお、私たちにとっての問題はすでに「いかにしてア・プリオリな総合判断は可能か」という問いにまとめられていますが、この問いに答えようとするとき、私たちが採用する哲学的態度が「超越論的」と呼ばれるのです。』 『カント純粋理性批判』御子柴善之先生著、p77.78より引用 pipitさんの投稿から引用終わり <<
自分の訳、けっこう良い線行ってない?
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