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■11534 / inTopicNo.49)  Re[48]: ふと
  
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/03/23(Tue) 20:29:40)
    「我思う」には、わたし興味ある。
    「我」をどのようなものとして見るかは別として。

    ん〜ん、「私はこう思う」っていうのかな?

    ん〜ん、「他者はこう言ってる」それについて「私はこう理解(解釈)する」って言うんじゃなくて、「他者はこう言ってる」けど「私はこう思う」っていうことかな?

    あ、これ、あくまでもわたしの好みの問題だから、どうでもいいよね、だから書いてる。

    『善悪の彼岸』を読み返して見るなかで、彼は他者のことを言ってるだけの物語りにしか見えないんだけど。What do I want to do?が見えてこない気がするん。どうなのかしらね。

    ん?客観的であれ!っていうカントの指示に従属しての、なのかな?



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■11532 / inTopicNo.50)  Re[47]: 心理学の
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/03/23(Tue) 19:32:01)
    わたし現象学を〈私の生の意識(精神)についてのフィロソフィア〉ってわたし見てる。
    メルポンは心理学についても話題してる。で、わたし前に心理学についていろいろ調べたことがあるのね。
    心理学は、哲学から分科した科学。乳幼の頃について心理学ではどう見ているのかな。小児の発達について、運動・感覚・情緒・社会性・知的機能・言語・思考などと分けて書かれていたけど、(MP-3)に関すると思われるところを簡単にまとめてみたのを書いて見ます。

    生後1年間(0歳)
    新生児の脳は成人の23%。脳の脳幹はほぼ完成している。
    (a)進化の過程で獲得してきた古い脳の記憶を思いだす期間
    (b)脳に自分の身体の使い方を覚えさせてゆく
    (c)脳は自分がこれから生きてゆくことになる外界を確かめる
    (d)脳に外界との関係をインプットしてゆく(こうすればこうなる、という関係の発見)
    (5か月) 視・聴・嗅・味覚の完成

    生後2年目(1歳)
    (1歳1か月〜6か月)
      自力で立って歩けるようになる。
      「マンマ」「ママ」など一語文
       (e)カテゴリー化始まる。時間的順番の理解。
       (f)語の理解(語の生産より3か月先行)
       (g)物の分類から命名へ
    (1歳6か月〜12カ月)
       (h)ものに名前があることを知り単語が増える。名詞・動詞・形容詞の区別が
        できる。
      「ママブーブー」「パパイス」語の組み合わせ

    生後3年目(2歳)
       (i)過去・現在・未来の区別。
      文章は単文
      助詞の使用で主文と従属文を語る。「寒いから火にあたるの」
      「コレなに?」「ナンデソウスルノ?」という疑問形を手がかりに語彙を自ら
       増加する。
      「おもちゃかったよ」一応の日本語
       (j)言語の獲得と出来事の記憶成立

    生後4年目(3歳)
      話し言葉として一応完成する。
      エピソード記憶始まる。
      (3歳8か月〜)
       (k)「心の理論」の形成
         直接には目に見えない他者の心の状態(信念・欲求)を推測
         他者の行動を予測し理解する能力
         相手の気持ちがわかり、他者と心を共有する
       過去の経験について語れる

    ちなみに、脳は10歳ごろ99%、14歳で完成するとのことです。

    一般的な子どもの発達について心理学では、だいたいこんな感じのようです。
    おそらく子育てした人はすでに経験して知ってることだと思うけど、わたしにはまだない。

    じっさい、わたしこの頃のことよく覚えてない。生まれてから3年間の間にすでにいろんなことが“自然と”出来てたみたい。アプリオリ(生まれつき備わっているもの)的ね。これってすごいことだとあらためて思う。

    ん〜ん、メルポンがこれに「哲学的資格を与える」って言ってるの、なんかうなづける感じ。

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■11520 / inTopicNo.51)  Re[46]: 自明性
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/03/22(Mon) 18:51:57)
    【自明なこと】
    FD訳注
    〔フッサールは『論理学研究』においてもこう述べていた。「哲学者はまさに《自明なこと》の背後に最も困難な諸問題が隠れていることをも当然承知していなければなるまい。逆説的ではあるが、しかし深い意味をこめて、哲学とは平凡な事柄についての学であるとさえ言えるほどである」と。〕

    「自明なこのと」って言うのわたし〈あたりまえになっていること〉って見てる。こういうのって、二つある気がしてる。一つはNo11518のような原初的なもの。もう一つはいろいろ勉強して知り得たもの。
    前者をアプリオリなもの、後者をアポステリオリなもの、って言ってもいいかな?
    いまここで見てゆこうとしてるのは前者の方ね。

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■11518 / inTopicNo.52)  Re[45]: 言葉のざわめきの下
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/03/22(Mon) 18:41:04)
    な〜か現象学というフィロソフィア、雰囲気的にわたしに見えてきたかな?

    現象学的還元――遡ってそこからそのうちで――という手法手続きによってメルポンが遡っているのは、

    No11365の(MP-3)、【言葉のざわめきの下の原初的な沈黙を再発見しない限り、そしてこの沈黙をやぶる身振りを描き出さない限り、われわれの人間考察はいつまでたっても表面的なものにとどまるであろう。】だとわたし見てる。
    〈言葉のざわめきの下の原初的な沈黙を再発見すること、この沈黙をやぶる身振りを描き出すこと〉
    っていうことかな。

    (MP-3)は、精神(意識)において〈赤ちゃんのころから、言葉を喋るようになるころを描き出すこと〉しかも〈そのうちにおいて(外からそれを見るんじゃなくて)〉ってわたし見てる。生まれてから4,5歳ぐらいまでかな。この時期を〈乳幼の頃〉って呼ぶことにする。

    私と世界との関係において、世界における(への)存在である私という見方で、私の生の意識という問題について、の始まりを乳幼の頃に遡って、そのうちで、見ようとすること。
    この手法によって、
    No11345の【匿名的に行われてる】【隠れた働き】【根源的な働き】へ、No11411の(MP-5)【世界との、この素朴な触れあい】へ、精神の根源・起源へ、原初的世界へ、一般的にすでに大人になった私が自明なこととしてしまっているものへ、と。

    うん、そう、〈自明なこと〉、〈あたりまえ〉となっているもの、こういうのって実はもうそれについてわざわざ問う必要ないのね。一般的には問題とならないから、関心が湧かないのも当然のこと。もしこのようなことが問題となるとすれば“ではない”という事態が生じているときかな。

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■11508 / inTopicNo.53)  Re[44]: What do you(I) want to do?
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/03/21(Sun) 17:27:06)
    いろんなひとがいろんなことを言ってる。
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■11477 / inTopicNo.54)  Re[43]: 善悪の彼岸 80
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/03/20(Sat) 17:32:24)
    【解明された事柄は、われわれの関心を惹(ひ)くことを熄(や)める。――「汝自らを知れ!*」と勧めたあの神は、どういうつもりでそう言ったのであろうか。恐らくは、「関心を持つことを熄(や)めよ!客観的になれ!」という意味だったのかもしれない。――そこで、ソークラテースはどうか。――また「学問的な人間」はどうか。】
    *デルフォイのアポローンの神殿に掲げられた語で、ソークラテースがその行動の指標としたもの。

    「客観的になれ」はカントのかな?ソクラテースのは「無知の知」かな?とを関係づけて皮肉って言ってるようにも見えるね。ニーチェはもうすでに「汝自らを知れ」は解明された事柄であって関心がない、っていうことでもなさそうだけど〜、よくわか〜んない。

    この箴言でわたしが感じたのは、ほかの哲学者のことを言ってるだけで、ニーチェのはな〜んも見えてこなかった、っていうこと。

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■11474 / inTopicNo.55)  Re[42]: フッサールフッサールの還元
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/03/20(Sat) 17:14:09)
    フッサールの場合

    フッサールにおいては(FD)の結語の最後に、
    【‥‥こうして、「汝自身を知れ」(7)というデルポイの神殿の言葉は、新しい意味を得たことになる。実証的な学問は、世界を喪失した学問である。世界を普遍的な自己観察において取りもどすために、まず世界を判断停止(エポケー)によって失わねばならない。アウグスティヌスはつぎのように言っている。「外に行こうとしないで、汝自身のうちに帰れ。真理は人の内部に宿っている。」(8)と。】(FD-5)ってある。

    訳注(7)
    〔古代ギリシア、デルポイの神殿の玄関の柱に刻まれていたという言葉で、(神が人間に向って)「身のほどを知れ」(自分が死すべき存在であることを忘れるな)という意味の格言と解かれていた。しかし、(プラトンの描く)ソクラテスは、それを「自分の無知を知」り、「自分の魂を配慮」し、いかに生きるべきかを考察することを命じる要求と捉えた。いまそれをフッサールは、普遍的な自己認識の道こそが哲学の道である、という意味と解しよとしている。〕

    訳注(8)
    〔ラテン教父アウグスティヌスの『真なる宗教」から引用。しかし、本書でたびたび現れてきたように、「外」と「内」という言い方は、誤解を招く恐れがある。フッサール自身、『論理学研究』で理念的なもののありかを「意識の外」に求めるのも、「意識の内」に求めるのも退け、まさにそのような議論のなかから、「意識の志向性」という思想を確立してきた。そして、それを近代的な「外」か「内」かという誤った問題の立て方を退けて、問題を正しく立てるためにこそ、現象学的還元が必要なのであった。その点では付け加えておくべきこととして、アウグスティヌスは、ここで引用された文に続けて、次のように述べていた。「そしてもし汝の本性が可変的であるものを見いだすなら、汝自身をも超越せよ」と。アウグスティヌスは自己の「内部」に止まるのではなく、そこから自己を超越する道を探る。フッサールも本来ならむしろ、この部分まで引用することによって、自らの超越論的なものの探究をそれに喩えるべきだったであろう。〕

    フッサールは古代ギリシアに遡ってる。
    「汝自身を知れ」で、No11447の(MP-6)にあるような【フッサールが自分自身を理解するのに長い時間を要した問題はない】かな。

    ここに出てくる【デルポイの神殿の言葉】や【アウグスティヌス】の、についてメルポンもなんか言ってるけど、これについたは後でね。

    それとね最近気づいたんだけど、ニーチェも『善悪の彼岸』でこれに触れてた。

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■11472 / inTopicNo.56)  Re[41]: ハイデガーの還元
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/03/20(Sat) 17:04:56)
    現象学者はどこまで遡ってるのかしら。

    ハイデガーの場合

    前に(HS)の抜粋の箇所のように、ハイデガーは【ギリシア語ファイノメノン】から始めてるし、また、『存在と時間』は、【「‥‥トウノハ、君タチガ『存在する』トイウ言葉ヲツカウトキ、イッタイ君タチハ何ヲ意味スルツモリナノカ、ソレヲ君タチガトウノ昔カラ熟知シテイルノハ、明ラカナコトダカラダ。ダガワレワレハ、以前ニハソレヲワカッテイルト信ジテイタノニ、イマデハ困惑ニオチイッテイルノダ。・・・。」(1)〔訳注(1):プラトン『ソフィステース』244a〕いったいわれわれは、「存在する」という言葉で何を意味するつもりなのか、この問いに対して、われわれは今日なんらかの答えをもっているのであろうか。断じて否。だからこそ、存在の意味への問をあらためて設定することが、肝要なのである。それではわれわれは、今日、「存在」という言葉を了解できない困惑にだけでもおちいっているのであろうか。断じて否。だからこそ、あらかじめ必要なのは、この問いの意味を明らかにするなんらかの了解を、まずもってふたたびめざめさせることである。「存在」の意味への問いを具体的に仕上げることが、以下の論述の意図である。あらゆる存在了解一般を可能にする地平として時間を学的に解釈することが、以下の論述の差しあたっての目標なのである。そうした目標をねらうこと、そうしたもくろみのうちに含まれていて、このもくろみによって要求されている諸研究、およびこの目標へいたる方途、これらのことは、序論の役目を果たす解明を必要としている。…】というように、プラトンに遡ってそこから。

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■11469 / inTopicNo.57)  Re[40]: etre au monde
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/03/20(Sat) 14:33:38)
    「世界における(への)存在」etre au mondeについてちょっと書いときます。
    [etre]の最初の[e]の上の[^]は省略してます。

    (MP)で、
    【…人間は世界においてあり(訳注2)、ほかならぬ世界のうちで自己を知るのである。‥‥】(MP-8)
    (訳注2)
    〔原文はI’homme est au monde.これは12項に出現する本書の基本概念「世界における(への)存在」(etre au monde)を先取りするものであるが、この基本概念がハイデガーの「世界内存在」(In-der-Welt-Sein)、サルトルのetre -dans-le-mondeに対応するものであることは、いうまでもない。問題はmondeの前の前置詞auの訳し方だが、独訳(Rudolf Boehem,1966)ではzu、英訳(Colin Smith,1961)ではinとなっている。つまりetre-au-mondeを独訳者はZu-Welt-Sein、英訳者はBeing in the worldと訳す。但し英訳では文脈によってはbeing to the worldとも訳している。要するにêtre au mondeとは世界に属しつつ世界に臨む人間のあり方を表す言葉で、翻訳書では述語的に使われていると思われるところでは、カギ括弧でくくり、更に「世界における存在」と「世界への存在」を共に示すため「世界における(への)存在とした。」

    わたしこれをお借りして、〈世界における(への)存在である私〉として見ることにしちゃってる。

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■11467 / inTopicNo.58)  Re[39]: 永遠の初心者
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/03/20(Sat) 14:20:20)
    メルポンによると、

    【‥‥フッサールの末刊の手稿なかで、哲学者は永遠の初心者であるともいわれている。すなわち、哲学者は世人や科学者たちが知っていると信ずるものを、何によらず、既知のこととは見なさない。哲学がかつて真理をいいえたにせよ、かかる真理おいても、哲学は自己の知識を既知のものと考えるべきではない。哲学とは哲学自身の出発点に立ち帰って、繰り返しこれを体験し直すことである。哲学のすべてはこの端緒を記述することに存する。そして結局、根本的な反省とは、非反省的な生に対する、反省自身の依存性を自覚することなのだ。非反省的な生こそ、反省の出発状況であり、恒常的な状況でもあり、終局の状況でもある。先のフッサールの言葉は、以上のようなことを意味しているのだ。一般に考えられたように、現象学的還元は、観念論的哲学の定式であるどころか、実存哲学の定式なのである。――ハイデガーの「世界―内−存在」(In-der-Welt-Sein)は、現象学的還元を基礎として、初めて出現しえたのである。‥‥】(MP-7)

    ほかの哲学者はどうか知らないけど、現象学においては、【哲学者は永遠の初心者である】って見てるよう。
    メルポンは(MP)で、【現象学はながい間、初歩的な状態にとどまり、問題性と願望の域を出なかった】とか【いつも最初からやり直す】とも言ってる。

    ここに【反省】っていうのあるけど、これデカルトのに絡まってくる。これは後で。
    あと【ハイデガーの「世界―内−存在」(In-der-Welt-Sein)】っていうのあるけど、これ〈私と世界との関係〉においてメルポンの重要な基本的な見方となってる気がしてる。

引用返信/返信 削除キー/
■11447 / inTopicNo.59)  Re[38]: 結びづけ
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/03/18(Thu) 20:27:39)
    「エポケー」とか「現象学的還元」、わたしのを見えるようにしたところで、No No11426を見て見るね。

    (MP-5)で、【さしあたり科学の否認である。】って言ってる。「否認」って言ってるんで、「否定」とは言ってないよね。これって、エポケー的だと思う。

    (MP-5)では、メルポンの「私」と「科学」との関係について言ってるんだと思う。

    そして【私は絶対的な根源である】って言ってる。これを独我主義(真に実在するのは自我とその所産だけであり、他我やその他すべてのものは自己の意識内容にすぎないとする立場)って見るのは違うと思う。どうしてかっていうと現象学は独我論じゃないから。このへんのとこは後で見て見るね。メルポンのは、哲学で出てくる自我論(自我についての研究・学問)っていうこっちの方だとわたし思ってる。
    で、わたしも「私は絶対的な根源である」っていう判断を括弧に入れて(「私は絶対的な根源である」)。ここからわたしの思考が向かうのは、「私」「根源」ってなあに?って。

    「私」で思い出したんだけ、メルポンは、ほかのところで、
    【以上のことからして、かの有名な現象学的還元の真の意味が、明らかとなる。たしかにこの問題についてほど、フッサールが自分自身を理解するのに長い時間を要した問題はない、――また、この問題ほど彼が繰り返し繰り返し問い直した問題もない。というのも、「還元の問題性」はフッサールの未完の文献のなかでも重要な場所を占めているのだから。ながい間、それも最も新しいテキストにおいてもなお、還元は超越論的意識の還帰として提示されている。世界はこの超越論的意識の前では完全に透明なものとして展開され、一連の統覚によってすみずみまで生気づけられている。そして哲学者は、これらの統覚の成果から遡って統覚を再構成する、という仕事を課せられることになろう。…】(MP-6)
    って言ってる。

    (MP-6)で、フッサールは、ってあって、【自分自身】っていうの出てきてるけど、わたし「自分自身」を「私」ってしてる。フッサールはどうやら「私とはなにか?」っていっぱい考えていたんじゃないかしら。

    (MP-6)で、「統覚」っていうの出てきてる。フッサールにおいてNo11366の(FD-3)、No11393の(FD-4)のなかにも「統覚」出てきてる。わたしNo11393で、「統覚」を〈知覚に接近・隣接・接着してるもの〉ってした。――なんか、「知覚」の話題に近づいてきてる?
    No11366(P60)

    (MP-5)に戻って、【まず第一に世界についてのあの経験を呼びまさなくてはならないのである】っていうのは【森林や草原や河川がどのようなものであるかをわれわれに最初に教えた風景】のことだと思う。

    こう言うのって、フッサールのNo11366にあるように、子どものころに遡って見る、というのと、No11365の(MP-3)の【言葉のざわめきの下の原初的な沈黙を再発見しない限り、そしてこの沈黙をやぶる身振りを描き出さない限り、われわれの人間考察はいつまでたっても表面的なものにとどまるであろう。】に結びつく。
    これ、わたし赤ちゃんのころから三歳ころのこと、って見てる。これがメルポンの言う【起源に遡って】なんだと思う。

    こういうのって、No11411の(MP-4-2)の【世界との、この素朴な触れあいを再発見する】にも結びつく。
    そう、メルポンはこのような世界と私との関係――ん〜ん、わたしこれを〈原初的世界〉って呼ぶことにしてる――に【哲学的資格を与えることに、あらゆる努力を傾注する】ってしてるんじゃないかしら。

    なんか、連関、見えてきた感じ。

    きょうはこのへんでおわりにするね。

引用返信/返信 削除キー/
■11446 / inTopicNo.60)  Re[37]: 現象学的還元
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/03/18(Thu) 20:20:48)
    「現象学的還元」なんだけど、「現象学事典」ではいっぱい書いてあるけど、こういうのかな〜ってわたしが思ったところを抜粋して見ます。

    〔‥‥現象学的還元とは、さしあたりまず、『イデーンT』の言い方をかりれば、「自然的態度の一般的定立の徹底的変更」のことである。私たちが普通自然的態度において生きているときには、私たちは諸事物や世界が向こう側に現に存在していると素朴に信じている。こうした「定立」の働きを「作用の外において」「遮断」(Ausschaltung)し、したがってまたその定立によって成り立つ諸対象や世界を「括弧に入れて」(Einklammern ;それゆえにまた当然ながら、その自然的態度の上に成立する「事実学」や「本質学」をも「遮断」し)、こうして素朴で無造作な定立に「エポケー」(判断停止)を加えてそれを「停止」することが、「現象学的還元」ということにほかならない。・・・・「遮断」とはむしろ「連れ戻し」だったのである。もともと「遮断」とは、通常「スイッチを切って電流回路を中断する」という意味であるが、それは一瞬の停止であり、事実上電流回路はいぜん動きうる状態にあり、決して消滅してはいない。エポケーとは、素朴無造作な関与を一瞬停止して、反省的に問いなおす態度の表明にほかならない。・・・・意識と世界との志向的かかわりを問うて初めて、およそ個別的事実であれ非実在的本質であれ、存在するものの「意味」が樹立されてきうる。いっさいの実在を「意味」の統一として明らかにするのが現象学の抱負である。この「意味」の湧出する根源的源泉へと眼を向け換える方法手続きが、現象学的還元である。‥‥〕

    エポケーと絡めて書かれてるみおたいだけど、やっぱな〜んか難しい。
    〔根源的源泉へと眼を向け換える方法手続きが、現象学的還元である〕っていうところだけはそうしときましょ。

    (FD)の訳注では、
    Reduction:この箇所にも見られるように、「還元」とはもとものへと連れ戻すという意味であって、自然科学において使われるように、何かを切り詰めるという意味ではない。

    んで、わたしにわかりやすくして、「現象学的還元」っていう手法は、〈遡って、そこから、そのうちで〉ってして見た。〈そのうちで〉ってしたのは、〈外から見て〉じゃなくて、っていう意味ね。

    どこまで遡るか、っていうのもあるけど、メルポンの場合、赤ちゃんのころまで遡って、かな?

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