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■11445 / inTopicNo.61)  Re[36]: エポケー
  
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/03/18(Thu) 20:19:51)
    「現象学事典」に書いてあるのを書き写して見ます。短いので全部。

    エポケー [(独)Epoche](Epocheの最後のeの上の[´]は省略してます)
    〔フッサールがその思想的生涯において幾度となく主題化した現象学の根幹にかかわる反省的方法概念。エポケーには多様な形容詞が冠せられるが、大別すれば、現象学的エポケーと普遍的エポケーが重要。前者は、とくに『イデーンT』で論じられたもので、意識と対象との相関的結びつきを考察するために、意識が対象と素朴に関わる「自然的態度」を「遮断」し、それを根本的に変更する方法的懐疑の操作を意味する。その操作においては、自然的態度における一般定立が排除されて括弧に入られ、定立がストップされる。この「括弧入れ」の操作を通じて、現象学的に固有の新たな存在領域としての純粋意識が開示される。後者は、1920年代中頃以降に『現象学的心理学』や『第一哲学』などで力説され始めたもので、そこにおいては、主観性と世界との関係に焦点が当てられる。すなわち、現象学的エポケーによる自然的態度から反省的態度への転換の際に暗黙のうちに前提されていた自我の内世界化的自己統覚が疑問に付され、世界はそれを構成する超越論的主観との相関関係において主題化されるのである。以上の二種類のエポケーによって、その遂行者としての「傍観者」に、自然的意識のあらゆる存在定立や世界が、反省的に把握可能な自我の構成的意識現象として与えられる。このようにして開示された現象に依拠しつつ、本質直観にもとづく現象学的記述が進められるのである。〕
    な〜んか難しい。〔自然的態度の遮断〕とでもしときましょうか? ん?

    「エポケー」っていうの、ここに書いてあるように「遮断」とか「括弧入れ」みたい。ほかに「判断停止」とか「判断保留」とか言われてるみたい。

    わたしのばあい「括弧に入れる」っていうのがいいかな。

    たとえば、「我考える、ゆえに、我存在す」っていう判断があったとするよね。そしてこれを括弧に入れると、
    (「我考える、ゆえに、我存在す」)ってなる。括弧内は無くなったわけでもなく、肯定も否定もない状態になってる、っていうこと。ん〜ん、ある判断の私の判断を一時停止して置く、っていうことかな。ん〜ん、その判断を鵜呑みにして(前提として)そこから思考を進展してゆくんじゃなくて、その判断を批判(鵜呑みにせずよく吟味すること)して見て、考え、それから判断する、っていうことかな?
    このまま括弧の中に入れたままにしておいてもいいんだけど、もし括弧内の判断を私が判断しようとするとき、私の思考は「我」「考える」「存在」ってなあに?っていう方向に向かう、っていうことなのかな?

    わたしの「エポケー」の意味、ひとまずこ〜んな感じのにしておく。

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■11444 / inTopicNo.62)  Re[35]: ふたたび、現象学ってなあに?
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/03/18(Thu) 20:17:14)
    っていうことで、ここ見る人なしっていうことで、どんどんこかかな。

    「現象学」っていうの、No11209にあるように「おのれを示す当のものを、そのものがおのれをおのれ自身のほうから示すとおりに、おのれ自身の方から見えるようにさせること」。わたしもうちょっと短くしちゃって〈そのもののおのれを示す当のものを、おのれ自身の方から見えるようにさせること〉ってして置くことにする。ハイデガーは「存在者の存在」っていう言い方をしてる。で、これをお借りして、〈存在者の現象〉っていう言い方も短くていいかな、って。

    「己を示す当のもの」って、なんか本質とか根源とか起源とかっていうふうにも見れる。

    じゃ、そのような存在者の現象をおのれ自身のほうから見えるようにさせる、にはどうしたらいいの?
    っていうことになるんだけど。

    No11258(HS)に、【「現象学」はその研究対象を名指しているのでもなければ、また、現象学というこの名称はその研究の事象内容を性格づけているのでもない。現象学というこの語は、この学において論ぜられるべき当のものを、いかに提示し取り扱うかということに関して解明するだけである。】とか【現象学は、存在論の主題になるべき当のものへと近づく通路の様式であり、また、その当のものを証示しつつ規定する様式である。】ってあった。

    現象学っていうの、見方や方法を提示している、ってわたし見てる。
    現象学で、「エポケー」とか「現象学的還元」って言うの出てくる。これ根源・起源みたいなのを探究するための手法なんだと思う。


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■11443 / inTopicNo.63)  Re[34]: What do you(I) want to do?
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/03/18(Thu) 20:09:53)
    おそらく、「現象学」に興味ある、っていってても実際〈to do〉っていう人はここにはいないみたい。たとえば現象学の訳本を読んで見るっていう行動にでないとかね。
    わたしのいう「What to you(I) want?」っていう「want」が通じてないっていうの、普通だし。
    こういう意味で、逆に、わたしここでは書きやすいよ。勝手気ままでいいんだもの。
    そうね、自由意志のをね。

    あらてめて、ありがと、パニさん、この場を作ってくれて。
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■11441 / inTopicNo.64)  Re[33]: What do you(I) want to do?
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/03/18(Thu) 19:43:27)
    わたしいったいここでなにをしようとしてたのかしら?
    現象学の、タイピングしたとこいろいろ書き写して見てるんだけど。
    ちょっと最初の方に戻って見よっと。

    わたしのしたいは、No10927で、〈私の生の意識(精神)のフィロソフィア〉。No11053で、〈私の意識(精神)におけるアプリオリな総合はどのようにして行われるの?〉だった。
    これって、現象学のと相互主観的にわたしに思われたもの。

    あ、そうだった。わたしここで、わたしに思われたものを、表現することによって、わたしに見えるようすることだったんだ。

    でもまだなんか、あっちいったり、こっちいったりな感じ。でも「現象学」を知ろうとすること、その書物を読んでわたしに思われたものを見えるようすることが中心になってるのは確かね。

    ここでは現象学なんだけど、
    「What do you want to do?」は、「What do I want to do?」と両義だってわたし言った(No10625)けど、これにはもうちょっと意味あるよね。「do you (I)want?」と「to do?」。「あなた(私)は何を欲しているの?」からで、「あなた(私)はどうするの?」っていう二つの問いが含まれていたっていうこと。こういうのって、現象学に限ったことじゃないと思う。

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■11426 / inTopicNo.65)  Re[32]: What do I want to do?
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/03/16(Tue) 20:16:42)
    この場をパニさんが作ってくれたので、わたしの物語り、ちょっと書いてるんだけど。ん〜ん、そうねメルポンのね。

    メルポンの、
    【記述することが肝心なのであって、説明したり、分析することではない。フッサールが初期の現象学に与えた命令、つまり「記述的心理学」であれ、もしくは「事象そのものに」帰れという命令は、さしあたり科学の否認である。私は、私の身体あるいは私の「精神現象」を規定する多様な因果性の結果でも交錯でもない。私は自分を、世界の一部として、生物学、心理学、ならびに社会学お単なる対象として考えることはできないし、一般に科学の考える世界のなかに私を閉じ込めることはできない。世界についての私の知識は、たとえ科学による知識であろうと、どれもこれも、世界に関する私自身の観察、もしくは経験からして得られるのであって、このような経験がなければ、科学の記号には何の意味もないであろう。科学の宇宙の全体は、生きられた世界の上に打ち建てられており、もしわれわれが科学そのものを厳格に考え、正確にその意義と有効範囲とを測ろうと欲するならば、まず第一に世界についてのあの経験を呼びまさなくてはならないのである。科学はこの経験の二次的は表現なのだ。科学は知覚された世界と比肩しうる存在意義を決してもってはいなし、また将来ももつことはないであろう。その理由は簡単である。すなわち、科学は知覚世界の一つの規定、もしくは一つの説明だからである。動物学、社会解剖学、それに帰納的心理学は、「生物」とか「人間」とか、「意識」といったような、自然もしくは歴史の産物に、さまざまな特徴を認めるが、私はこうした特徴のすべてをそなえた「生物」ではないし、このような意味では、「人間」や「意識」ですらない。――私は絶対的な根源である。私の実存は、私の経歴、私の自然的・社会的環境から由来するのではない。私の実存はこれらに向かってゆき、これらを支える。なぜなら、ある特定の伝統や地平線を私にとってある(それゆえ、また「ある」という言葉が私に対してもちうる唯一の意味において、ある)ようにさせるのは、ほかならぬこの私だからであり、この伝統に立ち戻ることを選択するのも私だからである。また私がそこにいて、私とあの地平線との間の距離を眼でたどらないとしたならば、もともとそれは固有な性質として地平線に属しているわけではないおだから。地平性腺の私に対する距離は、もろくも崩れさるだろう。私を世界の一つの契機と見なす科学的な見方は、いずれも幼稚で欺瞞的である。というのは、これらの見方は、もう一つの見方、すなわち、意識によって初めて一つの世界が私のまわりに配置され、私に対して存在しはじめるという、意識の見方をいつもひそかに前提しながら、はっきりとはいわないからである。事象そのものに帰るということは、認識に先だつ世界に帰ることである。認識はつねにこの世界について語るのであり、これに対してはいかなる科学的規定も、抽象的、記号的、依存的である。これは、森林や草原や河川がどのようなものであるかをわれわれに最初に教えた風景に対して、地理学が抽象的、記号的、依存的であるのと同様である。】
    (MP-5)

    わたしのは後でね。
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■11423 / inTopicNo.66)  Re[31]: What do you want to do?
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/03/15(Mon) 21:29:28)
    キリストっていう人、ほかの人に、”みずから考えること”を禁ずる。

    ゴータマ=シッダルタっていう人はどうなのかしら?
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■11411 / inTopicNo.67)  Re[30]: What do I want to do?
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/03/14(Sun) 13:29:31)
    またなんか話が細かいところへ進んじゃってる〜、
    ちょっとNo11345あたりまで戻ります。

    メルポンの、
    【現象学とは何か。フッサールの最初の諸著作が世に出てからもう半世紀もたつのに、今なおこんな問いをたてなければならないことは、一見、奇妙なことと思われるかも知れない。しかしこの問いはまだ解決されていはいない。現象学とは本質の研究である。現象学によれば、あらゆる問題は、もろもろの本質、例えば知覚の本質、意識本質などを定義することによって解決されるはずである。しかし現象学とは、また、本質を実存のなかに戻し、人間と世界とを理解するには、それらの「事実性」から出発するほかないと考える哲学でもある。それは自然的態度から生ずるさまざまな主張を理解するために、かえってこれらの主張を保留する超越論的な哲学ではあるが、しかしまた、世界がつねに反省に先だって、廃棄されえない現存として、「すでにそこに」あることを認める哲学でもある。そして世界との、この素朴な触れあいを再発見し、結局はそれに哲学的な資格を与えることに、あらゆる努力を傾注するのである。現象学は、「厳密学」たろうとする哲学の野心であるが、またそれと同時に、「生きられた」空間、世界についての報告でもある。それは、われわれの経験の心理学的な発生や、科学者、歴史家、もしくは社会学者が提供しうるような、その因果的な説明を願慮せずに、経験をあるがままに、直接、記述しようという試みである。だがフッサールは、晩年の諸著作のなかで「発生的現象学」、いや「構成的現象学」にまで言及している。こうした矛盾は、フッサールの現象学とハイデガーのそれを区別することによって、解決されるだろうか。しかし『存在と時間』はすみずみまで、フッサールの指示に由来するものであって、要するにこれは、フッサールが、その生涯の終わりに臨んで、現象学の最も主要なテーマとして提起した「自然的世界概念」あるは「生活世界」の、一つの解明にすぎないのだ。‥‥】(MP-4)

    『知覚の現象学』で、メルポンの現象学はこのようなことから始まってる。
    上の中からわたしにとくに関心があるところを抜粋して見ます。

    【しかし現象学とは、また、本質を実存のなかに戻し、人間と世界とを理解するには、それらの「事実性」から出発するほかないと考える哲学でもある】(MP-4-1)

    【しかしまた、世界がつねに反省に先だって、廃棄されえない現存として、「すでにそこに」あることを認める哲学でもある。そして世界との、この素朴な触れあいを再発見し、結局はそれに哲学的な資格を与えることに、あらゆる努力を傾注するのである】(MP-4-2)

    【またそれと同時に、「生きられた」空間、世界についての報告でもある】(MP-4-3)

    【現象学の最も主要なテーマとして提起した「自然的世界概念」あるは「生活世界」の、一つの解明にすぎないのだ】(MP-4-4)

    〈生活世界のフィロソフィア〉かな?
    ようするに、わたしのようにふつう?に、この世界で生活しているひとに、哲学的な資格を与えようとする、って言ってるのよね。
    なんかわけわかんない言葉で語る学者さんのを理解しようとすることより、このようなフィロソフィアを知ろうとすることの方がわたしのwant。

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■11396 / inTopicNo.68)  Re[29]: 「統覚」という語の意味
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/03/13(Sat) 19:44:18)
    No11393のBには、
    〔‥‥なお〈統覚〉の語はカントと深く関わる。カントは「純粋統覚」(根源的統覚)を「我思考するという表象を産み出すところの自己意識」だとしている。これによって、直観に与えられる多様な諸表象が、一つの自己意識に属することが可能となる。‥‥〕っていうのも書いてありまた。

    これによると、「我」「自己意識」「思考」「表象」「直観」などが結びつけられてるようだけど、わたし、よくわかんない。ここ、カントのじゃないからこれには深入りしないけど、ひとまず書き写して置きました。

    「直観」っていうのも、@と絡まって、この語の意味をどうして置きましょうか、っていうのもあるんだけど、後で。

引用返信/返信 削除キー/
■11393 / inTopicNo.69)  Re[28]: 「統覚」という語の意味
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/03/13(Sat) 17:52:36)
    「統覚」の意味ね。

    @フッサールは、
    【・・・すでに物が見えている子供は、例えばハサミの使い方を初めて理解した後では、一目で直ちにハサミをハサミとして見るようになる。しかし、それはもちろん顕在的な再生産や比較によってでもなければ、或る推論を行うことによってでもない。とは言いながら、では、どのようにして統覚が生じるのか、さらに、どのようにして統覚はその意味と意味の地平を通じてそれ自身でその発生を志向的に遡って指示しているのか、については非常に多様である。対象的意味の段階形成には、統覚の段階形成が対応している。結局、私たちはいつも二種類の統覚の根本的な区別に戻ってくることになる。一つには、その発生からして純粋に原初的領分に属するような統覚と、もう一つには他我という意味とともに現れ、より高次の発生のおかげで、この意味のうえに新しい意味を積み重ねるような統覚、という二つの統覚の区別である。・・・】(FD-4)
    って言ってる。

    フッサールは、統覚には二種類ある、って見ているよう。〈原初的領分に属する統覚〉と〈より高次における統覚〉。フッサールは〈原初的〉っていうのを〈低次の〉とも言ってるから、〈低次の統覚〉と〈より高次の統覚〉っていう二種類の「統覚」を見てる、ってする。

    A(FD)の訳注には、
    〔Apperzeption:Perzeption(もとはラテン語perceptioで、「知覚」の意)に前つづりAd-(「方向・接近・隣接・接着」の意)が付け加えられたもの。もとはライプニッツが、対象を判明に知覚するとき、その知覚作用自体にもわれわれは気づく、このことを「統覚」と呼んで哲学的概念として定着させた。その後、カントは、感性的直観の多様が悟性により結合される場合の、統一を形成する主観の根源的働きを「統覚」と呼んだ。フッサールは、カントの用法を踏まえながらも、或るものの端的な把握としての「知覚」と区別して、さまざまな把握を取りまとめて統一的に知覚することを「統覚」と呼んでいる。〕

    B「現象学事典」では、
    〔〈統覚(Apperzeption)〉は基本的には〈統握〉と同義である。『論理学研究』Uでは、しばしば〈統覚〉と〈統握〉は並置され言い換られている。この並置は、ApperzeptionがPerzeptionとの伝統的な対比によって(高次の知覚だという)誤解を生むのを避けるためである。‥‥このように〈統覚〉は〈統握〉と基本的に同義であるが、しかし、後者に比べ、前者は何かと何かの〈結びつき〉という意味を、より強く与えられていると言える。…〕

    Cコトバンクでは、
    〔哲学,心理学用語。対象がよく理解され明瞭に意識される知覚の最高段階,あるいは個々の知覚内容を統合する精神機能をさす。 G.ライプニッツが初めて用い,のちにカントによって対象を認識する前提としての意識の統一をさして用いられた。また W.ブントはこれを能動的な意味でとらえ,統覚心理学を展開した。〕

    んで、わたしのどうしようかな〜って思ったのね。
    Aで〔perzeption(もとはラテン語perceptioで、「知覚」の意)に前つづりAd-(「方向・接近・隣接・接着」の意)が付け加えられたもの〕ってあるから、apperception(統覚)っていうのを〈perception(知覚)に接近・隣接・接着した〉ものってする。@でフッサールは二種類の統覚――〈原初的領分における(低次の)統覚〉と〈より高次の統覚〉――を見ている。じゃこの二つの統覚を語で区別しなくちゃ、って思って、Bで「統握」っていうのでてくる。そこで、〈原初的領分における(低次の)統覚〉(知覚に接近・隣接・接着したものとしての覚)を「統覚」ってして、〈より高次の統覚〉を「統握」ってして語でも区別することにした。

    ちなみに「統握」は(独)Auffassung 。 ネットの「ドイツ語−日本語 辞書」で調べて見たら「概念・見解・解釈・考え・思想・意見・見方・立場…」って訳されてた。

    メルポンは【われわれは言葉が制定されている世界のなかに生きている。日常的なあらゆる言葉に対して、われわれ自身のうちに出来合いの意義が用意されている。】(No11365,MP-2)っていう「すでにある出来合いの意味」からズレてくるのかもしれないけど、現象学のと間(相互)主観的にわたしに、っていうことでこうしちゃった。

    これでひとまずわたしの「表象」「統覚」の意味を見えるようにできたかも。

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■11391 / inTopicNo.70)  Re[27]: 「表象」という語の意味
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/03/13(Sat) 15:31:37)
    前に書いたと思うけど、中島義道さんの「現象と表象」より、 
      
    〔また、現象については、しばしば「表象」という概念との異同が問題となる。その使われ方は混乱しており、現象が表象と同義であったり、また、表象が特に単なる主観的妥当性しかもたないような現象を意味することもある。日本語では区別がはっきりしないが、ドイツ語の“Erscheinung”(現象)と“Vorstellung”(表象)との区別は明確であり、前者は何ものかの現れという自動詞の名詞化であるが、後者は私が私の前に何ものかを立てるという他動詞の名詞化である。前者は物理現象とも心理現象とも言うように語自体に存在論的な限定はないが、後者は私が私の前に立てるものであり、その操作の限り「ある」という主観的存在の色合いが濃厚になる。ショーペンハウアーは『意志と表象としての世界』の冒頭で「世界は私の表象である」と宣言するが、こう語ることによって彼は、世界は何ものかの「現れ」であると言いたかったのではなく、私が私の前に立てるものにすぎない、したがって私を離れて無かもしれない、と言いたかったのである。
    カントにおいては、表象は物自体との対比で図式的に使用されている。私に現れる世界(現象)はそれ自体として存在するもの(物自体)ではなく、私の思考と直観との協同によって構築したもの(表象)だ、というのがカントにおける両概念の基本的な使用法である。つまり、表象は特に物自体の絶対的実在性というあり方に対する「超越論的観念性」というあり方を強調するときに使われる。〕

    このように哲学者によって用語の意味が異なっている感じ。まったく困ったもんだわ。あ、日訳もね。

    わたし現象学が好みなので、
    現象学における「現象」はphenomenonで〈おのれを示す当のもの、露わなもの〉ってわたししてるけど、現象学でErscheinungは「現出」って訳されていて、〈おのれ自身を示さずに間接的に告げるもの、ないしは、おのれを告げつつ隠れた他のものを暗示するもの〉(「現象学事典」)ということにわたしすることにしてる。

    で、「表象」[(独)vorstellung ,(英)representation]なんだけど、

    どうしようかな〜って思ったんだけど。わたし英語で見ることにした。
    re-は再び、presentationは提示。
    だから、representation「表象」は〈再び提示〉ってなる。
    わたし「表象」を、意識(精神)において、〈再び提示(表わ)されたもの〉(再び提示する)と〈再び提示(表わ)したもの〉(再び提示する)という二つの意味をもつものとしとく。前者は受動的な、後者は能動的なっていう感じかな。

    「表象」を〔私が私の前に何ものかを立てる〕って見るときには、〈再び提示する〉(能動)の方だと思う。〈再び提示される〉じゃなくて。

    いづれにしてもこのような見方からピン止めしとくのが〈再び〉っていうとこ。〈再び〉ってうの、“すでに経験してあるものが再び”なんだろうから、“初めて見る”事物に関しては表象という語は使われないことになる。あ、これあくまでもわたしのね。

    ちなみにカントの?〔私に現れる世界はそれ自体として存在するもの(物自体)ではなく、構築したものだ〕っていうところはわたし受け入れてるところ。〔(現象)〕とか〔(表象)〕とか〔私の思考と直観との協同によって〕っていうところはエポケーしてね。あ、でも〔構築〕っていうと能動的な感じするから、「構成」に書き換えて、〈わたしに現れる世界は、物そのものではなくて、私の意識(精神)のうちで、構成されたもの〉。カントのこういう見方はわたし受け入れる、っていうことになるのかな。

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■11390 / inTopicNo.71)  Re[26]: 語の意味
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/03/13(Sat) 14:40:04)
    No11366の(FD-3)のなかに「表象」とか「統覚」っていうのある。
    哲学ではその用語の意味、けっこう哲学者によって違ってること多いみたい。
    pipitさまとお話ししててやっぱそう思う。
    どうしてそうなのかな〜、っていうのも考えてるんだけど、後で。

    でね、わたしのをちょっと見えるようにして見ようかな、って。
    少し長くなっちゃうから、分けて。

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■11366 / inTopicNo.72)  Re[25]: 子どものころ
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/03/10(Wed) 20:25:25)
    No11365の(MP-3)に絡まって、フッサールのね。

    【人間の世界と動物の世界には、精神〔心理〕物理学的起源、生理学的起源、心理学的起源という、よく知られた自然科学的問題群が登場してくる。そこには、心的な発生という問題も含まれている。この問題は、子供の発達を通じて私たちが思いつくものであるが、それと言うのも、どんな子供もその発達のなかで自分なりに世界の表象をつくり上げていかなければならないからである。子供にとって世界が現実的および可能的な経験の領土としてそこにあり、つねにあらかじめ与えられているのは、統覚から成る体系においてであるが、この体系は、子供の心の発達のなかでまず構成されなければならない。子供は、客観的に見れば、「世界へとやって来る」。しかし、子供の心的な生活は、どのようにして「始まる」ことになるのであろうか。‥‥】(FD-3)

    「起源」の探究って哲学的だと思う。別の言葉で「根源」とか「発生」とか「原初的」。

    ここに登場するすべてのひとたち(当然わたしを含めてね)、子どものころ、あったよね。

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