| 前に書いたと思うけど、中島義道さんの「現象と表象」より、 〔また、現象については、しばしば「表象」という概念との異同が問題となる。その使われ方は混乱しており、現象が表象と同義であったり、また、表象が特に単なる主観的妥当性しかもたないような現象を意味することもある。日本語では区別がはっきりしないが、ドイツ語の“Erscheinung”(現象)と“Vorstellung”(表象)との区別は明確であり、前者は何ものかの現れという自動詞の名詞化であるが、後者は私が私の前に何ものかを立てるという他動詞の名詞化である。前者は物理現象とも心理現象とも言うように語自体に存在論的な限定はないが、後者は私が私の前に立てるものであり、その操作の限り「ある」という主観的存在の色合いが濃厚になる。ショーペンハウアーは『意志と表象としての世界』の冒頭で「世界は私の表象である」と宣言するが、こう語ることによって彼は、世界は何ものかの「現れ」であると言いたかったのではなく、私が私の前に立てるものにすぎない、したがって私を離れて無かもしれない、と言いたかったのである。 カントにおいては、表象は物自体との対比で図式的に使用されている。私に現れる世界(現象)はそれ自体として存在するもの(物自体)ではなく、私の思考と直観との協同によって構築したもの(表象)だ、というのがカントにおける両概念の基本的な使用法である。つまり、表象は特に物自体の絶対的実在性というあり方に対する「超越論的観念性」というあり方を強調するときに使われる。〕
このように哲学者によって用語の意味が異なっている感じ。まったく困ったもんだわ。あ、日訳もね。
わたし現象学が好みなので、 現象学における「現象」はphenomenonで〈おのれを示す当のもの、露わなもの〉ってわたししてるけど、現象学でErscheinungは「現出」って訳されていて、〈おのれ自身を示さずに間接的に告げるもの、ないしは、おのれを告げつつ隠れた他のものを暗示するもの〉(「現象学事典」)ということにわたしすることにしてる。
で、「表象」[(独)vorstellung ,(英)representation]なんだけど、
どうしようかな〜って思ったんだけど。わたし英語で見ることにした。 re-は再び、presentationは提示。 だから、representation「表象」は〈再び提示〉ってなる。 わたし「表象」を、意識(精神)において、〈再び提示(表わ)されたもの〉(再び提示する)と〈再び提示(表わ)したもの〉(再び提示する)という二つの意味をもつものとしとく。前者は受動的な、後者は能動的なっていう感じかな。
「表象」を〔私が私の前に何ものかを立てる〕って見るときには、〈再び提示する〉(能動)の方だと思う。〈再び提示される〉じゃなくて。
いづれにしてもこのような見方からピン止めしとくのが〈再び〉っていうとこ。〈再び〉ってうの、“すでに経験してあるものが再び”なんだろうから、“初めて見る”事物に関しては表象という語は使われないことになる。あ、これあくまでもわたしのね。
ちなみにカントの?〔私に現れる世界はそれ自体として存在するもの(物自体)ではなく、構築したものだ〕っていうところはわたし受け入れてるところ。〔(現象)〕とか〔(表象)〕とか〔私の思考と直観との協同によって〕っていうところはエポケーしてね。あ、でも〔構築〕っていうと能動的な感じするから、「構成」に書き換えて、〈わたしに現れる世界は、物そのものではなくて、私の意識(精神)のうちで、構成されたもの〉。カントのこういう見方はわたし受け入れる、っていうことになるのかな。
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