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■36853 / inTopicNo.97)  純粋理性批判B 176
  
□投稿者/ pipit -(2024/03/18(Mon) 18:30:25)
    みなさまこんにちは!続きですー

    But pure conceptions of the understanding, when compared with empirical intuitions, or even with sensuous intuitions in general, are quite heterogeneous, and never can be discovered in any intuition.

    しかし、純粋な悟性概念は、経験的直観、あるいは一般的な感覚的直観とすら比べると、まったく異質なものであり、どのような直観においても決して発見することはできない。

    (pipit感想)
    包摂、、、
    純粋直観に構成した純粋な幾何学的円と、皿の感覚的形象(丸さ)の形の近さから、円の下に皿を位置付ける作業が可能になる。
    直観された皿の丸さの中に、純粋な幾何学的円を見ることが可能ということ。

    でも今から探索しようとする、純粋悟性概念と現象の包摂関係がどのように成立するか、を考えたとき、現象の中に純粋悟性概念と同種のものは見えない、とカントは考える。
    『原因』という概念が直観上に名札つけて表現されるわけではない。
    純粋悟性概念(カテゴリー)と感覚的直観は異種だとカントは考える。

    この異種を仲介するものについての考察が、今から読む『図式論』かな?ととりあえず思いました。


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■36854 / inTopicNo.98)  日記
□投稿者/ pipit -(2024/03/18(Mon) 18:42:55)
    2024/03/18(Mon) 18:53:49 編集(投稿者)

    No36853
    > (pipit感想)
    > 包摂、、、
    > 純粋直観に構成した純粋な幾何学的円と、皿の感覚的形象(丸さ)の形の近さから、円の下に皿を位置付ける作業が可能になる。
    > 直観された皿の丸さの中に、純粋な幾何学的円を見ることが可能ということ。

    No 36750の図で言うと、右から2番目の感性由来の純粋概念が幾何学的円の居場所かな?と。感性由来なので、描き出すことで概念が形象を持てるのかな?と。その形象によりて概念と経験的直観の包摂関係を築けるのかな?と。全く勘違いかもですが(T . T)

    No36644 でカントの数学への考え方について述べている箇所があったので再投稿します。

    >定義についてのカントの記述を見つけました。けっこうページ数を使って記述されていますが、抜粋引用します。
    『哲学においては、数学の真似をして最初に定義を示すようなことをしてはならない(たんに試みてみる場合を除いて。)[哲学における]定義は、与えられた概念を分解することにすぎないのだから、[定義よりも]前に示されるのは(たとえ混乱したものであっても)概念なのである。(略)
    要するに哲学においては適切な明晰さをそなえた定義は、仕事を始めるための前提ではないのであり、定義がえられれば、そこで仕事を終えねばならない(注)。
    これにたいして数学では、定義する前にはいかなる概念も存在しない。定義によって初めて概念が示されるのである。だから数学ではつねに、定義から仕事を始めねばならないのであり、つねにそこから仕事を始めることができるのである。』
    (『純粋理性批判 7』中山元先生訳、p52-.B758)
    『数学の[総合的な]定義においては、誤るということがありえない。まず定義が概念を示すのであるから、概念には、定義においてその概念によって考えられたものしか含まない。(略)
    これにたいして[哲学の]分析的な定義では、さまざまな形で誤謬を犯すことがありうる。その概念には実際には含まれていない特徴を定義に持ち込んだり、定義の本質である〈詳細さ〉に欠けたりすることで、誤るのである。概念の分析が詳細に行われたかどうかについては、わたしたちは完全に確実であることはできない。
    だからこそ、定義にかんする数学的な方法を、哲学においては真似ることができないのである。』
    同本p54.55、B759.760<
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■36869 / inTopicNo.99)  純粋理性批判B 176、177
□投稿者/ pipit -(2024/03/20(Wed) 10:59:13)
    みなさまこんにちは!続きですー  J. M. D. Meiklejohnさんの英訳のpipit意訳・日訳です。

    (英訳略・後で投稿します。)
    https://www.gutenberg.org/cache/epub/4280/pg4280-images.html#linknote-26

    では、後者(直観)を前者(純粋な悟性の概念)の下に包摂すること、つまりカテゴリーを現象に適用することは、どのようにして可能になるのか?
    (というのも例えば、「因果性は感覚を通して直観することができ、現象に含まれている」と言うことは不可能なのだから)

    この自然で重要な疑問が、判断力に関する超越論的な理説が必要であることの真の原因を形成している。
    すなわち、純粋な悟性の概念がどのように現象に適用できるかを示すという目的で。

    https://www.gutenberg.org/cache/epub/4280/pg4280-images.html#linknote-26
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■36870 / inTopicNo.100)  純粋理性批判B 176、177 英訳
□投稿者/ pipit -(2024/03/20(Wed) 11:00:07)
    2024/03/20(Wed) 11:01:30 編集(投稿者)

    No36869
    How then is the subsumption of the latter under the former, and consequently the application of the categories to phenomena, possible?

    -For it is impossible to say, for example: “Causality can be intuited through the senses and is contained in the phenomenon.”-


    This natural and important question forms the real cause of the necessity of a transcendental doctrine of the faculty of judgement,

    with the purpose, to wit, of showing how pure conceptions of the understanding can be applied to phenomena.

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■36872 / inTopicNo.101)  純粋理性批判B177
□投稿者/ pipit -(2024/03/20(Wed) 14:34:39)
    2024/03/20(Wed) 18:07:09 編集(投稿者)

    みなさまこんにちはー 続きです。
    いつも通り自信ありませんが先に進みます_(┐「ε:)_

    In all other sciences,
    where the conceptions
    by which the object is thought in the general
    are not so different
    and heterogeneous from those which represent the object in concreto - as it is given, it is quite unnecessary to institute any special inquiries concerning the application of the former to the latter.

    他のすべての学(超越論的論理学以外の学)では、そこにおいて対象が一般的に考えられている概念と、与えられたものとしての対象を具体的に表現している概念とがそれほど異なっておらず、異質でもない。
    前者(対象の一般的概念)の後者(対象の具体像)への適用について、特別な追求をする必要はない。
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