TOP HELP 新着記事 ツリー表示 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

No36644 の記事


■36644 / )  認識とか定義とか日記_φ(・_・
□投稿者/ pipit -(2024/02/25(Sun) 00:23:38)
    2024/02/25(Sun) 00:39:52 編集(投稿者)

    悪魔ちゃんの書き込みをきっかけに、カント的『認識』について幾つか再読しました。
    一部を引用します。

    御子柴先生の解説として
    『まず、「人間の理性(die menschliche Vernunft)」とはどのような能力でしょうか。ここではまだなにも書かれていません。ともあれ、『純粋理性批判』という書名が含む「理性(Vernunft)」も「人間の理性」です。カントは、一八世紀になって現れた、あくまで人間の側から哲学しようとする哲学者の一人です。人間とはなにか、ここでそれを規定することなどできません。それこそ哲学の究極の問いだからです。しかし、当面、自分が創ったわけではない地上に産み落とされ、さまざまなものを体験・教育・研究などを介して徐々に知っていくことしかできない存在として押さえておきましょう。このさまざまなものを知っていく中で客観的な知を得る働きが「認識」であり、その能力の一つが理性なのです。』
    (『カント純粋理性批判』角川選書、p28)


    同じく御子柴先生の解説です。
    『なお、§1の末尾でカントは、いずれもア・プリオリな認識である、「純粋数学」の認識と「純粋な哲学的認識」とには相違があることを示唆している。ここで論じられている形而上学的認識は後者に相当する。『純粋理性批判』によれば、前者は「概念の構成に基づく認識」であり、後者は「概念に基づく認識」である。概念の「構成」とは描き出すことであり、たとえば、三角形という図形を描き出すことである。私たちが小中学生のころ、図形を描いては補助線を引くなどして、何らかの証明をしたことを思い出せばよい。他方、哲学的認識はそうした手続きをもたず、もっぱら概念だけを頼りに行われる。このとき、頼りになる概念とはどのような概念なのか、これもまた形而上学の成否にかかわる大問題である。』
    (『カント哲学の核心『プロレゴーメナ』から読み解く』御子柴善之先生、p50より引用)


    定義についてのカントの記述を見つけました。けっこうページ数を使って記述されていますが、抜粋引用します。
    『哲学においては、数学の真似をして最初に定義を示すようなことをしてはならない(たんに試みてみる場合を除いて。)[哲学における]定義は、与えられた概念を分解することにすぎないのだから、[定義よりも]前に示されるのは(たとえ混乱したものであっても)概念なのである。(略)
    要するに哲学においては適切な明晰さをそなえた定義は、仕事を始めるための前提ではないのであり、定義がえられれば、そこで仕事を終えねばならない(注)。
    これにたいして数学では、定義する前にはいかなる概念も存在しない。定義によって初めて概念が示されるのである。だから数学ではつねに、定義から仕事を始めねばならないのであり、つねにそこから仕事を始めることができるのである。』
    (『純粋理性批判 7』中山元先生訳、p52-.B758)
    『数学の[総合的な]定義においては、誤るということがありえない。まず定義が概念を示すのであるから、概念には、定義においてその概念によって考えられたものしか含まない。(略)
    これにたいして[哲学の]分析的な定義では、さまざまな形で誤謬を犯すことがありうる。その概念には実際には含まれていない特徴を定義に持ち込んだり、定義の本質である〈詳細さ〉に欠けたりすることで、誤るのである。概念の分析が詳細に行われたかどうかについては、わたしたちは完全に確実であることはできない。
    だからこそ、定義にかんする数学的な方法を、哲学においては真似ることができないのである。』
    同本p54.55、B759.760

    以上です(^ ^)
    おやすみなさいー
    (( _ _ ))..zzzZZ
返信/引用返信 削除キー/


Mode/  Pass/

TOP HELP 新着記事 ツリー表示 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

- Child Tree -