| knowing itselfさんこんばんは。
福音書では、イエス様がパンとワインを、自分の体と血として飲食せよとあり、 それは、ユダヤの過越祭の最中の出来事であり、最後の晩餐は過越の祭りの食事だったと考えられるみたいですね。
この過越祭は、イスラエルがエジプト脱出を記念して祝われた祭りであり、各家族がいけにえの小羊をエルサレム神殿で捧げ、その後、ともにそれを食する神の前での神聖な儀式的食事だったようです。
しかも、この小羊は、贖罪の犠牲として捧げられ、特にその血は罪の赦しを与える契約の血であり、この過越の食事は、贖罪のために捧げられた聖なる供え物を共に食することで人々と神との交わりがもたらされると考えられたようです。
イエス様は、自分自身を過越祭の犠牲の小羊と対比させ、自分の死が人類に贖罪と救済をもたらす犠牲であることを語っています。
さらに、パンとワインを、自分の体と血として弟子たちに飲食させることには、 自分の死によってもたらされる贖罪と救済に彼らを与らせ、神との交わりに参入させようという意図を読み取ることができます。
これは、私達が、パンとワインを飲食する度に、イエスの死の意味を心に刻み、その都度新たに救いの力にあずかるようにという意味ではないかと思います。
聖別されたパンはリアルな意味でキリストの体であり、パンの形態のもとに神人キリストが真に現存することを意味しているのだと思います。
> シンボルであることを否定する立場がなぜ多いかというと、天国のキリストは単なるシンボルでいいのか?最後の審判のキリストは単なるシンボルでいいのか?死後に出会うキリストがシンボルでいいのか?そもそも現世で出会っているキリストも単なるシンボル?などもその理由。シンボルでいいなら、なぜキリスト教を信仰しているのか、意味がわからんということです。
仰る通りだと思います。 私たちに求められているのは、如何にイエス様が、パンとワインという肉と血のシンボルだけではなく現存しているのかを認識できるのかだと思います。
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