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■12787 / inTopicNo.13)  Re[31]: キリストを食べる者
  
□投稿者/ knowing itself -(2021/05/17(Mon) 19:08:07)
    愛満開さん こんばんは
    > knowing itselfさん、ヨハネの福音書 6:53〜58で、イエス様は、
    >
    > 「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。」
    >
    > と言われたというのは、いったい何を語られたのでしょうか。
    >
    > キリストを食べるなんて何かとても醜悪なことのように感じますが、なぜ、イエス様は、このような事をおっしゃったのでしょうか。

    カニバリズム的に食べるという意味は全くないと思います。誰がそんなこといっているのでしょうか。カトリックでいわれるのは、キリストのリアルプレゼンスということです。フィジカルボディではなくサクラメンタルボディだとも言われます。サクラメンタルボディとは、復活して昇天したキリストの神秘の体、それと寸分も変わらない神秘の体というようなことです。

    > パンと葡萄酒での聖餐式となったこのことは、そうした儀式としての形を求められたのではなく、そこまでして神様は、罪人である人類のために、十字架上で肉を裂き血を流され救済されたと言う事を、どれ程、真摯に個人的に受け止められるかにかかっているように思います。
    >
    > そこから、当然、三位一体の神への感謝も生まれてくる訳で、この受け止めが無いと救済もないように感じるのですが、如何でしょうか。

    それはそう思いますが、儀式としての形だけを重視するというのは、カトリックにもないですね。キリストの神秘体のリアルプレゼンスが真理だから、それにふさわしい姿勢で臨もうというのだと思います。

    キリストのリアルプレゼンスとは、最後の審判の先取りという意味もあるんです。
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■12755 / inTopicNo.14)  キリストを食べる者
□投稿者/ 愛満開 -(2021/05/16(Sun) 20:36:13)
    knowing itselfさん、ヨハネの福音書 6:53〜58で、イエス様は、

    「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。」

    と言われたというのは、いったい何を語られたのでしょうか。

    キリストを食べるなんて何かとても醜悪なことのように感じますが、なぜ、イエス様は、このような事をおっしゃったのでしょうか。

    パンと葡萄酒での聖餐式となったこのことは、そうした儀式としての形を求められたのではなく、そこまでして神様は、罪人である人類のために、十字架上で肉を裂き血を流され救済されたと言う事を、どれ程、真摯に個人的に受け止められるかにかかっているように思います。

    そこから、当然、三位一体の神への感謝も生まれてくる訳で、この受け止めが無いと救済もないように感じるのですが、如何でしょうか。



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■12750 / inTopicNo.15)  Re[31]: 「意識と本質」井筒俊彦
□投稿者/ 愛満開 -(2021/05/16(Sun) 18:55:41)
    knowing itselfさん、またまた面白いエピソードありがとうございます

    >>つまり、三位一体の神は、人間の意識やこうした現象界からは超越した者であり、何れの普遍的本質(マーヒーヤ)とも異なるのかなと思いました。
    >
    > 非常に難しく奥の深いテーマなので、単純化は困難だと思いますが、三位一体の神の受肉は、マーヒーヤとフウィーヤを架橋する立場ではないかと考えています。フウィーヤにある人間の生をそのまま三位一体の中に接続しうるというか。

    なるほど、そう言う見方も出来ますね。
    それほど、イエス様の受肉、贖罪そして恩寵、聖霊降臨が人智を超えて奥深いと言う事なのでしょうね。

    > フッサール哲学については、現代のカトリックに親近性があるともいわれ、彼の弟子からはカトリックへの改宗者が続出していますね。

    へえーっ、そうなんですか。
    早速、Googleで調べてみたらフッサールのアシスタントでユダヤ商人出でカトリック教会に改宗し殉教したエーディト・シュタイン聖女の記載がありました。
    トマス・アクィナスと‎フッサールとを結合させるべく「有限と永遠の存在」を執筆したのだとか。とても、残念でもったいないことをしたなあと思いました。‎





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■12741 / inTopicNo.16)  Re[30]: 「意識と本質」井筒俊彦
□投稿者/ knowing itself -(2021/05/16(Sun) 16:42:41)
    愛満開さん レスありがとうございます

    > knowing itselfさん、それにしても「意識と本質」は、とても良い本ですね。

    > 現象学のフッサールは、数学的世界を「発見」したガリレオは同時に生世界を「隠蔽」したとして普遍的本質(マーヒーヤ)が生む非現実でよそよそしさを解決するため現象学的還元を提唱し、日常的な生世界の個体的本質(フウィーヤ)の感覚的で直接的な探求をし、それが実存哲学へと発展していったのは承知のことです。

    > つまり、三位一体の神は、人間の意識やこうした現象界からは超越した者であり、何れの普遍的本質(マーヒーヤ)とも異なるのかなと思いました。

    非常に難しく奥の深いテーマなので、単純化は困難だと思いますが、三位一体の神の受肉は、マーヒーヤとフウィーヤを架橋する立場ではないかと考えています。フウィーヤにある人間の生をそのまま三位一体の中に接続しうるというか。

    フッサール哲学については、現代のカトリックに親近性があるともいわれ、彼の弟子からはカトリックへの改宗者が続出していますね。
引用返信/返信 削除キー/
■12733 / inTopicNo.17)  Re[29]: 井筒俊彦とキリスト教
□投稿者/ 愛満開 -(2021/05/16(Sun) 14:17:12)
    knowing itselfさん面白いエピソードありがとうございます。

    > 井筒俊彦と言えばイスラムというイメージが流布しているようで、キリスト教についてはどちらかというと冷淡なのではという印象をもつ人が多いかもしれませんが、ちょっと違うようです。井筒俊彦の家に住み込んだほど、学問と生活両面で最も近い関係にあった言語学者の鈴木孝夫さんが紹介したエピソードがあります。以下引用します。
    >
    > 【鈴木】井筒先生に、「先生、イスラームとキリスト教と、もし本当に自分が信徒になるとしたらどちらですか?」と言ったら、「それはキリスト教だね」と。・・・・カトリックが一番、自分の精神的な性に合うと。それは、「なぜイスラームに改宗しないか」という文脈で聞いたわけ。先生は、カトリックが一番合うと。カトリック教徒には、自分はならないけれども。強いて言えば、非常にカトリック的な世界が近いとね。(鈴木孝夫・松原秀一「井筒俊彦の本質直観」)
    >
    > 引用終わり。
    >
    > 井筒俊彦の場合、特定宗教に入信するより、東西に通底する普遍的な宗教性と開かれていく方が重要だったのかと思います。

    ああ、やはり、イスラーム教よりカトリックのキリスト教ですか。
    それは、学問の探究者として導き出した結論なのだと思いますが、信仰として、やはり、三位一体のキリスト教でしょうと私も言いたいです。
引用返信/返信 削除キー/
■12732 / inTopicNo.18)  井筒俊彦とキリスト教
□投稿者/ knowing itself -(2021/05/16(Sun) 14:11:55)
    愛満開さん レスありがとうございます。

    > >井筒俊彦の東洋思想の共時的構造化については、岩波文庫の「意識と本質」がズバリそのことを論じていましたね。
    >
    > 今、再度「意識と本質」を再度読み終えましたが、やはり、凄い内容ですね。
    > 何か曖昧模糊としていた仏教と儒教とが、はっきりと表舞台に現れた感じで、さらにイスラームを介してあまり記述はなかったのですが改めてキリスト教の三位一体も考えさせられました。

    井筒俊彦と言えばイスラムというイメージが流布しているようで、キリスト教についてはどちらかというと冷淡なのではという印象をもつ人が多いかもしれませんが、ちょっと違うようです。井筒俊彦の家に住み込んだほど、学問と生活両面で最も近い関係にあった言語学者の鈴木孝夫さんが紹介したエピソードがあります。以下引用します。

    【鈴木】井筒先生に、「先生、イスラームとキリスト教と、もし本当に自分が信徒になるとしたらどちらですか?」と言ったら、「それはキリスト教だね」と。・・・・カトリックが一番、自分の精神的な性に合うと。それは、「なぜイスラームに改宗しないか」という文脈で聞いたわけ。先生は、カトリックが一番合うと。カトリック教徒には、自分はならないけれども。強いて言えば、非常にカトリック的な世界が近いとね。(鈴木孝夫・松原秀一「井筒俊彦の本質直観」)

    引用終わり。

    井筒俊彦の場合、特定宗教に入信するより、東西に通底する普遍的な宗教性と開かれていく方が重要だったのかと思います。
引用返信/返信 削除キー/
■12731 / inTopicNo.19)  Re[29]: 「意識と本質」井筒俊彦
□投稿者/ 愛満開 -(2021/05/16(Sun) 14:11:46)
    knowing itselfさん、それにしても「意識と本質」は、とても良い本ですね。

    現象学のフッサールは、数学的世界を「発見」したガリレオは同時に生世界を「隠蔽」したとして普遍的本質(マーヒーヤ)が生む非現実でよそよそしさを解決するため現象学的還元を提唱し、日常的な生世界の個体的本質(フウィーヤ)の感覚的で直接的な探求をし、それが実存哲学へと発展していったのは承知のことです。

    この「意識と本質」の中では、個体的本質(フウィーヤ)と普遍的本質(マーヒーヤ)とが解説されていますが、特に日本的な直接的で情緒的なものとして本居宣長の具体的な個体から直接に与えられる「もののあわれ」が面白く、儒教の深層心理から発する「格物窮理」等の抽象的な普遍的本質(マーヒーヤ)と比較する箇所がありました。

    それは、個物各々の実在性に直接触れて「本質」を感知するもので意識による分節化される前の個物の実在的本質の把握であり、孔子やプラトンのイデアのように表層意識がとらえる普遍的本質(マーヒーヤ)とは別の概念でした。

    対する仏教哲学は、縁起や空などの本質を否定する見方ですが、個人的には、現象界は、本来、仏教の空論のように本質や実体のないもので、意識によるプラトンの「イデア」や非日常的な意識による普遍的本質(マーヒーヤ)肯定論の朱子学の「格物窮理」、ユングのような、より深層意識の中に「元型」として普遍的本質が実在するとする立場は、実は、有り得ないのではないのかなと思っています。

    つまり、三位一体の神は、人間の意識やこうした現象界からは超越した者であり、何れの普遍的本質(マーヒーヤ)とも異なるのかなと思いました。
引用返信/返信 削除キー/
■12685 / inTopicNo.20)  Re[28]: 「意識と本質」井筒俊彦
□投稿者/ 愛満開 -(2021/05/15(Sat) 21:13:52)
    それから、イスラーム哲学は、「本質」を二つの区別をしているというところがアリストテレスとプラトンとの対決のようで面白かったです。

    イデア的な本質を示す「マーヒーヤ」と、アリストテレス的な個別的本質の「これであること」を指す「フウィーヤ」の区別なのですが、当時のイスラームは、ある意味、カトリックよりも進んでいたのだと思いました。

    そして、私の好きな詩人リルケのことも「フウィーヤ」だと説明されていて、よくわかっていらっしゃると思いました。 


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■12683 / inTopicNo.21)  Re[27]: 「コーランを読む」井筒俊彦
□投稿者/ 愛満開 -(2021/05/15(Sat) 20:59:35)
    knowing itselfさんこんばんは
    いつも、篤い信仰の糧を戴き大変感謝申し上げます。

    >井筒俊彦の東洋思想の共時的構造化については、岩波文庫の「意識と本質」がズバリそのことを論じていましたね。

    今、再度「意識と本質」を再度読み終えましたが、やはり、凄い内容ですね。
    何か曖昧模糊としていた仏教と儒教とが、はっきりと表舞台に現れた感じで、さらにイスラームを介してあまり記述はなかったのですが改めてキリスト教の三位一体も考えさせられました。

    とにかく、これまでの自分の施策の成果がはっきり書かれている感じがして、とてもよかったですし、このまま読み進めたいと思います。

    特に、仏教は、華厳経の網目のような感じがして良かったし、朱子学の格物窮理も大変、参考になりました。

    出来れば、書き下ろしのものであれば尚さら良かったかなと思いました。




引用返信/返信 削除キー/
■12642 / inTopicNo.22)  Re[27]: すばらしいハンドルネーム
□投稿者/ 愛満開 -(2021/05/14(Fri) 21:14:52)
    No12640に返信(knowing itselfさんの記事)
    > 愛満開というハンドルネームに感心しているんですが、偶像崇拝や罪は、愛満開でないときに生まれると思います。それ自身において、完全に満たされ、充満し、欠けがまったくなく、しかも一切閉じることなく完全に開かれている。こそこそが三位一体の神でしょう。罪や偶像崇拝は、三位一体の神から離れるとき必然的に生じる。逆にいうと、罪や偶像崇拝から解放されるには、三位一体の神に戻るしかないというのがキリスト教の世界観ですね。

    なるほど、体感的にも、そういえるかなと思います。
    自分自身では、三位一体の神に祈るたびに神の愛で心が温かく変えられる気がします。これからも、深く信仰を続けていきたいと思います。 

引用返信/返信 削除キー/
■12641 / inTopicNo.23)  Re[26]: 「コーランを読む」井筒俊彦
□投稿者/ 愛満開 -(2021/05/14(Fri) 21:11:15)
    knowing itselfさんこんばんは

    毎回、深遠な書き込みで自身の信仰が、より深まっていくのを覚えて感謝いたします。

    > >>仏壇が偶像崇拝になるとは、考えたこともないですね。仏壇が指し示す、仏教の真理や釈迦、菩薩、あるいは衆生に意識が向かうのであれば、宗教として何ら問題はないと思います。
    > >>
    > >>キリスト教における、絵画や彫刻などの視覚的な表象が、旧約聖書的な偶像崇拝にあたらないとされる理由もほぼ同じですね。その上、キリスト教の要諦中の要諦が、神が人間になったという受肉なので、感覚的な対象としての人間は愛を振り向けるべき最大の対象になる。隣人愛。
    >>
    >>モーセの十戒には、「あなたはいかなる像も作ってはならない。」と記されていますが、本当は、絵画も含まれるのですよね。
    >>それは、偶像を認めることによって、信仰の対象が本来の神ではなく人が作った像に移ってしまうからダメなのでしょう。
    >>
    >>なので、初期のキリスト教では絵画も禁止して記号で描いていたそうです。
    >>でも、当時のヨーロッパの識字率はとても低くて僧侶以外は、聖書など読む人は限られた人しかいなかったので、布教のために絵画で民衆に示さないといけない必要性から絵画や彫刻が許されてきたようです。
    >>
    >>それは、像そのものを信仰対象にしているのではなく、その背後にある神を崇拝しているのだから問題ないのだと、そういうロジックなのですね。
    >
    > そうだと思います。ただ、偶像崇拝というのは人間にとって非常に根深い問題で、絵画などの芸術についての偶像崇拝なんて大したことではないと思います。例えばスマホ中毒などは、現代的な偶像崇拝の一つのあり方でしょう。スマホ中毒にあたるようなことを、人間は別のあり方でずっとやり続けてきたと思います。偶像崇拝があるところ、罪があり、罪があるところ偶像崇拝がある。人間はありとあらゆる対象に偶像崇拝的に関わってしまう生き物なのかと。

    そうですね。スマホも気を付けたいと思います。
    神との交流を断って他のものに依存するのなら偶像になるのでしょうね。

    > 仏教的には、貪瞋痴は偶像崇拝に相当すると考えます。

    なんか分かる気がします。
    それが、実は、苦しみに繋がっているのに分からない。
    休みにコロナの自粛をせずに街中に飲みに出歩くと、ピノキオで遊び惚けて
    ロバに変えられ売り飛ばされる子供たちのような恐怖を感じます。

    > 井筒俊彦の東洋思想の共時的構造化については、岩波文庫の「意識と本質」がズバリそのことを論じていましたね。

    何か現象学的な視点で書かれていたような気がしますが、もう一度しっかり読んでみたいと思います。
引用返信/返信 削除キー/
■12640 / inTopicNo.24)  すばらしいハンドルネーム
□投稿者/ knowing itself -(2021/05/14(Fri) 19:44:46)
    愛満開というハンドルネームに感心しているんですが、偶像崇拝や罪は、愛満開でないときに生まれると思います。それ自身において、完全に満たされ、充満し、欠けがまったくなく、しかも一切閉じることなく完全に開かれている。こそこそが三位一体の神でしょう。罪や偶像崇拝は、三位一体の神から離れるとき必然的に生じる。逆にいうと、罪や偶像崇拝から解放されるには、三位一体の神に戻るしかないというのがキリスト教の世界観ですね。
引用返信/返信 削除キー/

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