| > ただ、信仰のみなのか、それとも行いによるものなのか、というところから、
信仰のみか、行いか、という貧しすぎる抽象論など役に立ちません。行いによってのみ救われれるカトリックというのは、藁人形論法の最たるもの。
先に紹介したベンシャピロとの対談で、カトリックはフェイスbasedやアクト(行い)based、というより、love(愛)basedだと、バロン司教は明言しています。これが彼の一番いいたかったことでしょう。
後半では、まず神のグレイスがあって、それに人間が応答する。その応答面を重視するといっていましたが、応答というのはlovebasedの応答という意味です。 ただいえることは、信仰のみでも愛の応答がなければまったく救われない可能性を認めるのがカトリックだとはいえるかも知れない。
> バロン司教の無神論でも救われるというのが納得できなかっただけです。
can be savedといっているんです。無神論者が自動的に全員救われるとはいっていません。逆に、人間への愛に溢れた無神論者が救われる可能性はありえないが、信仰だけで人間への愛の乏しすぎても、クリスチャンであるだけで自動的に救われるとなったら、違和感を覚える人がいても不思議ではありません。
無神論者が救われる可能性がないとなったら、しかもプロテスタント教会で信仰告白しない人でなきゃだめとなったら、日本人のほとんどは救われません。
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