| 愛満開さん こんばんは
>>仏壇が偶像崇拝になるとは、考えたこともないですね。仏壇が指し示す、仏教の真理や釈迦、菩薩、あるいは衆生に意識が向かうのであれば、宗教として何ら問題はないと思います。 >> >>キリスト教における、絵画や彫刻などの視覚的な表象が、旧約聖書的な偶像崇拝にあたらないとされる理由もほぼ同じですね。その上、キリスト教の要諦中の要諦が、神が人間になったという受肉なので、感覚的な対象としての人間は愛を振り向けるべき最大の対象になる。隣人愛。 > > モーセの十戒には、「あなたはいかなる像も作ってはならない。」と記されていますが、本当は、絵画も含まれるのですよね。 > それは、偶像を認めることによって、信仰の対象が本来の神ではなく人が作った像に移ってしまうからダメなのでしょう。 > > なので、初期のキリスト教では絵画も禁止して記号で描いていたそうです。 > でも、当時のヨーロッパの識字率はとても低くて僧侶以外は、聖書など読む人は限られた人しかいなかったので、布教のために絵画で民衆に示さないといけない必要性から絵画や彫刻が許されてきたようです。 > > それは、像そのものを信仰対象にしているのではなく、その背後にある神を崇拝しているのだから問題ないのだと、そういうロジックなのですね。
そうだと思います。ただ、偶像崇拝というのは人間にとって非常に根深い問題で、絵画などの芸術についての偶像崇拝なんて大したことではないと思います。例えばスマホ中毒などは、現代的な偶像崇拝の一つのあり方でしょう。スマホ中毒にあたるようなことを、人間は別のあり方でずっとやり続けてきたと思います。偶像崇拝があるところ、罪があり、罪があるところ偶像崇拝がある。人間はありとあらゆる対象に偶像崇拝的に関わってしまう生き物なのかと。
仏教的には、貪瞋痴は偶像崇拝に相当すると考えます。
井筒俊彦の東洋思想の共時的構造化については、岩波文庫の「意識と本質」がズバリそのことを論じていましたね。
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