| No37392 で、第50,51,52節からわたしが抜粋したところの、わたしの見方でのが書けたんだけど、
なんかちょっと、わたし何を分かろうとしてるのか? なんか分かんなくなってきた感じ。 今回の物語りの、わたしの、知りたい、の始まりね。 いま、【フッサール著『デカルト的省察』1931浜渦辰二訳岩波書店2001】の第五省察の第50、51,52節を読み返してもう一度考えて見てるんだけど、そうすることになった、きっかけね。 ほら、お喋りいっぱいしてて、ふと、“あれ?何からこの話になったんだっけ?”っていうこと、たまにあるよね。そんな感じの。 でね、 振り返って見て、たぶん、 No37109の(3)の中の、 …‥‥‥‥‥‥‥ はじめに 他者経験の解明にあたり、フッサールが他者に対置されるべき「私」をどのように理解していたのかを明らかにし、他者経験の問題を受動的総合の問題として再提起し直すこと、それが本論の目的である。 周知のように超越論的相互主観性を構成するために、フッサールは他者経験そのものの現象学的解明を重視し、『デカルト的省察』(1931)(以下『省察』)の第五省察においてその課題に取り組んでいる。しかしフッサールによる他者経験の解明は、K・ヘルトに顕著に代表されるように、まず自己移入による類比化的統覚の理論として、その妥当性について批判される。このフッサールの他我構成論に対する批判には、妥当な面が少なからず認められよう。だがそこで指摘される批判以前に、他我構成論においては、そもそも他者に対置されるべき「私」あるいは「自我」の位置づけが、曖昧なままになっている。この曖昧さは、フッサールの他我構成論全体を貫いており、第五省察の理解にとって重要な焦点となっていると言える。‥‥ …‥‥‥‥‥‥‥ から、だったような気がする。 わたし前に『デカルト的省察』読んだから、それを、わたしので捉えるのに参考になりそう、って思ったのからかも。
このような始まりからの始まりは、 No37314のところのような気がする。
後でその部分をも一度書き出して見るね。
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