HOME HELP 新着記事 ツリー表示 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

ログ内検索
・キーワードを複数指定する場合は 半角スペース で区切ってください。
・検索条件は、(AND)=[A かつ B] (OR)=[A または B] となっています。
・[返信]をクリックすると返信ページへ移動します。 (*過去ログは表示されません)
・過去ログから探す場合は検索範囲から過去ログを選択。

キーワード/ 検索条件 /
検索範囲/ 強調表示/ ON (自動リンクOFF)
結果表示件数/ 記事No検索/ ON
大文字と小文字を区別する

No.23091 の関連記事表示

<< 0 >>
■23091  超越論的感性論 第七項:[−1
□投稿者/ うましか -(2022/05/05(Thu) 17:29:11)
    2022/05/05(Thu) 19:07:49 編集(投稿者)

    pipitさん、こんばんはー

    世間の三連休もあとわずか(;´・ω・)

    連休後のコロナ感染者数、どうなるのかなー

    No.23053 、ありがとうございました。
     物と物自体との区別の説明分かりやすいです。「感官経由に与えられたデータから作られた」対象を「物」とするということですね。後、最近「集合」に関心がおありだとか。pipitさんの記述から的外れかもしれませんがヴントの心理学〜ゲシュタルト心理学を想起しました。
     そうそう、マールブランシュ、興味ありました(でも今は気が散らないよう抑えていますけど…(;´Д`A ```)以前話題にした山口裕之『語源から哲学がわかる事典』に頻出する人物なんですが、分からないのでとりあえず(;´・ω・)木田直人『ものはなぜ見えるのか − マルブランシェの自然的判断理論』を買ってあります、、、まだ読んでないけど…( ノД`)シクシク…


    とにかく時間があるうちに、カント沼で水浴び(/・ω・)/パシャパシャ


    *******

    T 超越論的原理論
    第一部門 超越論的感性論

    第二節 時間について
     第六項 これらの概念からの結論  

    ◆ したがって、私たちの主張が教えるのは、時間の経験的実在性≠ナあり、言い換えれば、いつかは私たちの感官に与えられるかもしれない、全ての対象に関する客観的な妥当性である。そして、私たちの直観はいつでも感性的であるから、経験においては、私たちには時間の条件のもとに属さない対象は決して与えられない。これに反して、私たちは時間に絶対的な実在性に対する全ての要求を否認する。というのも、つまり、それでは実在性は、私たちの感性的直観の形式を顧慮しなくても、端的に諸物に条件ないしは固有性として結びついていることになってしまうからである。諸物自体に帰属するそうした固有性は、私たちには感官を通じては決して与えられない。それゆえ、この点に時間の超越論的観念性≠ェあるのであって、この超越論的観念性に従えば、時間は、感性的直観の主観的な諸条件が捨象される時には全然何ものでもなく、諸対象自体そのものには(私たちの直観との諸対象の関係無しでは)基本的なものとしても、内属的なものとしても、帰せられることはできない。それでもこの観念性は、空間のそれと同様、感覚のすり替えと比較されてはならない。というのも、感覚のすり替えの際には、このすり替えに基づく諸述語がそこに内属している現象自身については、その現象が客観的実在性を持っていることが前提とされているのに、時間の超越論的観念性の場合には、そのような客観的実在性は、この実在性が単に経験的である限りの他は、言い換えれば、その対象自身を単に現象とみなす限りの他は、全面的に抜け落ちているからである。この点については、第一節の前述の注意を参照されたい。

    (以上、 No.23032 より)

    *******

     第七項 解明 〔§7. Erlaeuterung 〕

    ◇ 時間に、経験的実在性は承認するが、絶対的かつ超越論的実在性は否認する、この理論に対して、私は洞察力の優れた人々が異口同音に一つの異議を唱えるのを耳にしたので、このことから私は、その異議を、このような考察に不慣れなあらゆる読者のところでも当然みられるに違いないと推測している。その異議とは、次のようなものである。すなわち、変化は現実的に存在する。このことはたとえ人が全ての外的現象をその変化と共に否認しようとするとしても、私たち自身の表象の転変が証明する。ところで変化は時間の内でのみ可能である。従って時間は、何か現実的なものであるというのが、それである。

    ◇ これに対する解答はなんら困難ではない。私はその全論拠を認める。時間はもちろん何か現実的なもの、すなわち、内的な直観の現実的形式である。それゆえ、時間は、内的経験に関する主観的実在性を持っている。言い換えれば、私は時間とその中での私の諸規定についての表象を現実的に持っている。それゆえ、時間が現実的とみなされ得るのは、客観としてではなく、客観としての私自身を表象するその表象様式としてである。

    ◇ しかし、もし私自身が、或いは他の存在者が、感性のこの条件無しで、私を直観し得るなら、私たちが今変化として表象しているのとまさに同一の規定は、時間の〔表象が〕、従ってまた変化の表象が、そこでは全然現れない一つの認識を与えるだろう〔*1〕。それゆえ残るのは、あらゆる私たちの経験の条件としての時間の経験的実在性である。今述べたところに従って、絶対的実在性だけは時間に認められることはできない。

     *1 石川文康訳ではこうなる。「しかし、仮に私自身、あるいは他の存在者が、この感性の条件なしに私を認識することができるとすれば、われわれが今変化として思い浮かべているまさに同一の規定がもたらす認識は、時間の観念をも、したがって変化の観念をもまったくともなわないものとなってしまうであろう。」(上巻p.92)

    ◇ 時間は、私たちの内的直観の形式以外の何ものでもない。もし人が時間から私たちの感性の特殊な条件を除き去るならば、時間という概念も消滅し、だから時間は、諸対象自身に結びついているのではなく、それらの諸対象を直観する主観〔*2〕に結びついているに過ぎない。

     *2 石川文康訳では、「主体」と訳されている。

    † 原佑訳上巻、p.167〜p.168参照。他に、石川文康訳上巻を参照。
    †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。
    † 翻訳は参照しますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。
    † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。
    † ◆〜は原典における段落とします。

    *******
    [−1 No.23091
    Z−4 No.22690、Z−5 No.23032
    Z−1 No.21262、Z−2 No.21969、Z−3 No.22067
    Y−1 No.20986
    X−4 No.20772
    X−1 No.20568、X−2 No.20578、X−3 No.20699
    W−10 No.20434
    W−7 No.19817、W−8 No.20105、W−9 No.20168
    W−4 No.19542、W−5 No.19668、W−6 No.19682
    W−1 No.18802、W−2 No.19157、W−3 No.19216
    V−7 No.18378、V−8 No.18764
    V−4 No.17945、V−5 No.18058、V−6 No.18323
    V−1 No.17515、V−2 No.17588、V−3 No.17841
    U−1 No.16741、U−2 No.16783
    T−1 No.16440、T−2 No.16454、T−3 No.16495

    *******

    第一項 No.16440,16454,16495,16741,16783
    第二項 No.17515,17588,17841,17945,18058,18323,18378,18764
    第三項 No.18802,19157,19216,19542,19668,19682,19817,20105,20168,20434
    第四項 No.20568,20578,20699,20772
    第五項 No.20986
    第六項 No.21262,21969,22067,22690,23032
    第七項 No.23091
記事No.22479 のレス /過去ログ3より / 関連記事表示
削除チェック/



<< 0 >>

パスワード/

HOME HELP 新着記事 ツリー表示 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

- Child Tree -