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■555 / inTopicNo.85)  Re[16]: 〈私〉はなぜ存在しないのか
  
□投稿者/ パニチェ -(2018/07/24(Tue) 22:40:48)
    もの凄く興味深くて面白い返信です。
    なんかワクワクするようなレスです。
    特に頭に浮かべた時点で対象化しているのか、していないのかは、今まで考えもしなかった、もの凄い宿題です。
    答えが出せるかどうか分かりませんが、久々に強烈な知的刺激を受けました。
    じっくり考えて返信したいので、今度の土曜か日曜になります。
    ありがとう!^^
引用返信/返信 削除キー/
■554 / inTopicNo.86)  Re[15]: 〈私〉はなぜ存在しないのか
□投稿者/ Danza Espanola -(2018/07/24(Tue) 20:50:18)
    こんばんは!


    >>>>「先言の〈私〉」の〈私〉はこの文章に於いては対象化されていることに間違いはなく、〈私〉を「A」や「これ」に替えたり、言葉を使わなくても自分を指さすことや頭の中で指し示すことでも、いずれも対象化されます。

    > >>上記はその通りです。

    「〈私〉を「A」や「これ」に替えたり、言葉を使わなくても自分を指すことや頭の中で指し示すことでも、いずれも対象化されます」

    ということに同意されているのですから、


    > 「対象化し変質した〈私〉の存在など無い」は合意ですが、そもそもの〈私〉は在ります。

    上記での「そもそもの〈私〉は在ります」という文言で、何かが「在る」の前には必ず「その何か」の対象化がなければならない。〈私〉を記述する以前に、パニチェさんの頭の中で対象化が行われているのです。

    ですから、

    「対象化し変質した〈私〉の存在など無い」に合意であるのならば、既に対象化し変質した、〈私〉という表記以前の何かの存在は既に変質しており、「〈私〉の存在など無い」に合意できるのではありませんか?

    もしくは、「対象化で変質」を撤回し、「言語化で変質」にしますか?

    (こちらの方はロジックとして間違っていないのは自明です)



    > 了解しましたが、ここ平行線になりそうな予感もあります。^^

    > ここ聞いておいて申し訳ないのですが、(正直に言います)今回の返信からすると、やはり〈私〉については同じ対象(厳密には同じではありえないのですが)について話してないと思います。
    > ダンザさんがパニチェが言うから仮に「在るとしよう」としたところの仮の〈私〉のような気がしています。この段階で明確に言えることは、それは〈私〉ではないということです。

    パニチェさんの感覚上の〈私〉ではないと断言されているので、この掲示板に記述するのは無意味と判断し小論を書くのはやめることにします。

    とりあえずチャートは20枚ほど準備しておりましたが、約2万文字程度を予定していた試論は取り掛かっていませんでしたので、そう仰っていただき助かりました。

    私がイメージしていた〈私〉は哲学者が色々なところで「私」と書いていますが、下記に好例がありますので引用し、その下に小論の概観だけ記述しておきますね。


    ********************

    デカルトもパスカルも「私」の視点から世界を見ることを一度は発見した。ところが、神的(視点忘却的)視点から世界を見る存在観が残っていると、この存在観に舞い戻ってしまう。これを防ぐのが、世界の存在に対する「判断中止」(エポケー)である。世界があらかじめ存在している、「私」もその一部として存在している、という信念にコミットせず、宙吊りにしておくのである。

    この存在論的問題を踏まえたうえで、フッサールは続けて言う。「哲学者にとって・・・・・・「客観としての世界の中の主観性」であると同時に、「世界に対する意識主観」であるということの相互関係のうちにこそ、それがいかにして可能かということを理解すべき必然的な理論的問題が存しているのである。」

    (中公クラシックス版 『フッサール デカルト的省察』前書きより)

    ***** 以上引用終わり *****

    同書の翻訳は船橋弘氏ですが、前書きについては、哲学者の谷徹氏が39ページに渡っての長文で「フッサールの問いは終わらない」というタイトルで述べています。(※翻訳は岩波文庫版 浜渦辰二訳『デカルト的省察』の方が断然読みやすいので、これから読んでみようという方には岩波版のほうをお勧めします。)

    以上の、デカルト、パスカル、フッサール、(おそらくウィトゲンシュタインも)によって発見された「私」の視点ですが、裏を返せば、上記の哲学者以外は気づかなかった可能性があります。なぜ頭脳明晰な西洋哲学者たちが気づけなかったのかについては後述します。

    そしてフッサールはその「私」の視座世界に現象学のすべてを還元しようとした。しかしその視座では「私」は存在しないし一切の言及ができない。(ウィトゲンシュタインが「『私の見た世界』という本があるなら「私」には言及できない」と述べていたとおりです。

    上記の4名が語るに語れない「私」というのが、私の〈私〉観念です。

    彼らが、その視座では「私」が使えない、しかし存在論上では「私」は在る、という矛盾状態の「私」のことを、私は〈私〉としています。


    上記のとおりフッサール現象学では存在論上の「私」の視点をエポケーするのですが、私はエポケーせず、上記視座の私は存在しない、存在論視座の実在の私は確かに存在する、またもう一つの観念論的視座(パニチェさんが〈私〉と世界を俯瞰した視座です)の「私」は変質した言語になっているが私の存在を許容する、という立場をとり、三視座の矛盾をそのままにどこまでも純化します。

    その上で三視座の上から見下ろす第四の主観視座によって、その三視座構造が作りだす三つの関係性を吟味、省察し、その上で上記の一つの視座へ還元します。

    この三関係性においては、通常、三視座の統合を目指す同一性がはたらいており、その同一性は、実在視座と観念視座の認識による価値に根源をなし、上記の私が存在しない視座に還元され価値に対する欲求となり意志となる。

    この同一性は無意識下にはたらいているため、人は「自分は一つの視座で世界を見ている」と感覚しています。三視座に気づきません。哲学者でさえ、この三視座のダイナミズムの自覚なく、存在論や認識論を著述している部分があると私は考えています。

    「自分の中の三視座におけるロジックの整合性をとりたい」と無意識の中で同一性をはたらかせるのは人間に於いて当然であり、私のように、それぞれを純化して、「自己内矛盾大いにけっこう、第四の主観視座でまとめる方が良い」と考える変人は少ないのかもしれませんね。


    今の私は〈私〉については上記と認識していますので、次の段階として、この同一性を力動的観点、発生的観点から捉え直すことの考察が中盤に差し掛かっているという段階にあります。

    作成したチャートに関してはニーチェクラブでは掲載しないことに決めましたが、いずれ私の個人サイトで使うことが出来ますし、ビジネスとしてもコンサルティングにに活用できるので、作成についてはお気遣いなさらないようお願いいたします。要請されたわけでもなく、祝意として今週末を目指し勝手に作成していただけですので。


    >>「愛してる」と「愛している」の語感の違いを説明できますか?
    >
    > 感覚的には「愛してる」は無自性で、「愛している」は自性を伴うような感じはします。
    > 「痛い」と「痛みがある」との違いに近いかな。。。

    こうして「愛してる」と「愛している」の違いを感覚でき説明を試みることが出来るのは何故でしょうか。英語訳では I love you フランス語訳では Je t'aime としか書けない。それは「愛している」のほうです。

    「愛してる」という語感表現は、インド・ヨーロッパ言語圏では表現できません。

    ウィトゲンシュタインが限界としたところがなぜ私には限界ではなかったかというのは簡単な理由で、ウラル・アルタイ語圏の日本文化に育った日本人だったからというだけです。


    ********************

    ウラル・アルタイ言語圏(そこでは主語概念がいちじるしく未発達である)の哲学者たちがインド・ゲルマン族や回教徒たちとは異なった風に「世界を」眺め、異なった道を歩きつつあるというのは、大いにありうることであろう。

    (ニーチェ『線悪の彼岸』20番)

    ***** 以上引用終わり *****

    主語概念が未発達な地域はともかく、日本の場合は武士の「拙者」や「われ」「わ」という主語は発達しており、この間接主観的一人称を省略するのではなく、禁じて表現する場面があり、一方で一人称を使用する場面(こちらは省略有)と使い分けてきたということです。

    『善悪の彼岸』では他にも、30番や54番など(他にもあったかと)でニーチェが自分の言語圏では捉えられない「視座」について触れている箇所があります。今更ながらその慧眼ぶりには脱帽です。

    ※「 I 」を無くすことのできない文化のなかで、ミードは I(主我)について、「新生児は自己の周囲の社会的対象すなわち他者とのコミュニケーションを通して、次第に未組織な主我を組織化していき、ここに主体性としての主我が成り立つ。共同体の態度・期待・役割を内在化させた自我の部分を客我(me)とよぶ。主我は絶えずみずからを対象化(客我化)していく。」と述べています。


    以上が私の〈私〉ロジックに対する概観であり、「それは〈私〉ではない」と拒否されているのですから今後は上述の小論について当掲示板で触れることはありません。同意、反論、共感、理解、不理解の別、などは必要としません。パニチェさんとは異なったことは残念ですが、もし参考にできるところがあって、今後のパニチェさん固有の「〈私〉論」に生かしていただけるのなら望外の幸せです。

    詳細について省くため、存在論と認識論の手段化についても省きます。



引用返信/返信 削除キー/
■548 / inTopicNo.87)  Re[14]: 〈私〉はなぜ存在しないのか
□投稿者/ パニチェ -(2018/07/22(Sun) 13:12:14)
    こんにちは

    No539に返信(Danza Espanolaさんの記事)
    > 今や感覚だけでなくロジックとしても〈私〉は在りません。もちろん「私」もありません。世界の知覚は鮮明に在り、純粋認識ではなく、意味も価値も色づけられた世界が一面に広がっています。はっきり断言します。〈私〉は存在しない。

    〈私〉が存在しないのに世界の知覚は鮮明に在り、純粋認識ではなく、意味も価値も色づけられた世界が一面に在るということでしょうか?
    もしそうであるとすれば、ここは共有できないですね。
    私的には〈私〉が存在しないのであれば、世界の知覚や純粋認識ではなく、意味も価値も色づけられた世界が一面に在るなんてことはあり得ないというのが私の確信だからです。

    > マルクス・ガブリエルは『世界はなぜ存在しないのか』という著書で一躍有名になりましたが(今年の初めに読みました)、私は、『私はなぜ存在しないのか』というロジックを一冊分くらいの量で説明できます。有名になりたくないので書きませんが(苦笑)

    全く合意はできませんが、買って読んでみたい本ではありますね。^^

    > そもそも、「〈私〉を対象化すれば〈私〉は変質する」と頑強なまでに主張し私に教えてくれたのはパニチェさんではありませんか。「〈私〉は在る」というのは特に強い〈私〉の対象化(実在化)に他なりません。パニチェさんも以下のように同意してくださっております。
    > >>「先言の〈私〉」の〈私〉はこの文章に於いては対象化されていることに間違いはなく、〈私〉を「A」や「これ」に替えたり、言葉を使わなくても自分を指さすことや頭の中で指し示すことでも、いずれも対象化されます。
    >>上記はその通りです。
    > いまや立場は逆転し、私の方がパニチェさんに「〈私〉を対象化してはならない」「対象化し変質した〈私〉の存在など無い」と言わなければならなくなっているのも面白い現象です。

    「対象化し変質した〈私〉の存在など無い」は合意ですが、そもそもの〈私〉は在ります。
    存在は何よりも確実なものとして在るが言葉にすると変質してしまい、もともとの〈私〉ではなくなるという話です。

    > 徹底しているのでカニッツアの三角形でさえ対象化になります。
    > この方向へ私を意識付けしてくれたのはパニチェさんであり、本当に大感謝しているところです。

    カニッツァの三角形は図形としては無いでしょう。でもその存在は図形ではないものが在るということです。
    〈私〉に話を戻すと、言葉できないという理由で無いとは言えないのが〈私〉です。

    > 言語をもたない猫や犬も知恵を使うことができ、言語が理解できず表現もできない知的障碍者の方々も(言語を使える人々に比べたら少ないですが)知恵を使うことができると私は認識しています。また言語習得以前の生後0歳児も、言語に寄らずに世界の意味付けと価値付けを始め、思考し少しの知恵を使って活動を始めていると、これも私の認識ですが、パニチェさんとは異なるようです。他者と認識が異なっても私的には全く問題ないのですが、パニチェさんの論拠が普遍性をもたないことの主張だけはしておきたいと思います。デカルトの「われ」については異論というか異解釈が私にあります(これは試論で触れます)。

    〈私〉自体が普遍性を持ちません。もちろん〈私〉を説明したどのような表現や言葉や言語も普遍性を持ちません。
    普遍性を持たないのが〈私〉の比類なさです。言葉自体が対象を一般化してしまう、それは普遍化と同じことであり、だから変質してしまうということです。

    > 上記等の枝葉の議論が終わり次第、明快に説明しようと思います。

    了解しましたが、ここ平行線になりそうな予感もあります。^^

    > ニーチェの「自分の認識を伝えるやいなや、人はもはやそれを十分に愛さなくなる」との訓戒に従い、未だ一語のメモもアウトプットしていない状況です。もう少し愛する時間をください。一つの小さな試論を書きますので。

    了解です。

    >>比類がないのは先言だから、先言だから比類がないってことになると、後者を主たるテーマにしていることになるんでしょうか。自分でもよく分かりませんが、感覚的には「比類なき」と「先言」は私の場合は同等です。
    > この点も枝なのですが、「比類がないから先言だ」にはならないと思うのです。ゆえにパニチェさんは「先言」を土台にしていると私は解釈しました。価値の同等については了解しました。

    先言を土台にしているというところがピンときません。
    土台はあくまでも〈私〉の存在です。

    > 腑に落ちたプロセスとしては、まず、睡眠中かもしくは起きたその場での閃きです。その閃きによって、この三週間ほど学んできた、デカルトの言説、カントの言説、フッサールの言説、大森荘蔵の言説、竹田青嗣の言説、岩波哲学思想事典の数々の知見、その他さまざまな無意識内においた情報がパラパラと組み合わさり一挙に構造化されたイメージです。閃き自体は、閃きとしか言いようがありません。

    ここ聞いておいて申し訳ないのですが、(正直に言います)今回の返信からすると、やはり〈私〉については同じ対象(厳密には同じではありえないのですが)について話してないと思います。
    ダンザさんがパニチェが言うから仮に「在るとしよう」としたところの仮の〈私〉のような気がしています。この段階で明確に言えることは、それは〈私〉ではないということです。

    > その構造化されたものに手直しを加えながら、ある大哲学者がどう言っているのか確認をとったところ(たぶん彼はどこかに書いているだろうと思い)、案の定言及しており、私の認識の前を歩いていました。圧倒的に敵いませんね。
    > パニチェルームにあるウィトゲンシュタインの言説についても、ウィトゲンシュタインが言語の限界は世界の限界だとした箇所で、なぜウィトゲンシュタインが限界としたことを、私は限界とはしなかったのかについても明快に説明できると思います。(論拠の資料はとれますが、それは大量の労力と時間がかかりそうなので今は現実的ではありません)。しかし概略で、おそらくパニチェさんもロジックに納得してくれるのではないかと推測しています。

    ロジックには興味ありますが、納得できるかどうかは現段階では何とも言えません。^^

    > 「愛してる」と「愛している」の語感の違いを説明できますか?

    感覚的には「愛してる」は無自性で、「愛している」は自性を伴うような感じはします。
    「痛い」と「痛みがある」との違いに近いかな。。。

    > いいですね!
    > 手順を踏んで、できるだけテーマを分散化しないように気をつけて挑みたいと考えております。個人的にはまず、哲学の双璧である存在論と認識論を手段化します。

    楽しみです。
    存在論と認識論は〈私〉でもって合体し、ともに終焉してるんですけどね、今のところの私の中では。。。

    > 「意識」関連のテーマについては別の論議としてやりましょう!

    了解しました。

    > この程度の変換は朝飯前でなんの障害にもなりません!
    > 参考記事:『間違いを消さない教育で身に付くものとは?』
    > ttps://toyokeizai.net/articles/-/178596

    おおきに♪

引用返信/返信 削除キー/
■539 / inTopicNo.88)  〈私〉はなぜ存在しないのか
□投稿者/ Danza Espanola -(2018/07/16(Mon) 21:37:14)
    こんばんは!


    > ここ聞きたいんですが、〈私〉は在るがゼロ並ぶあ、何か在りますか?それとも何にもないですか?
    > 何にもなければ世界を知覚あるいは認識している主体もなくなり、世界もなくなりませんか?

    今や感覚だけでなくロジックとしても〈私〉は在りません。もちろん「私」もありません。世界の知覚は鮮明に在り、純粋認識ではなく、意味も価値も色づけられた世界が一面に広がっています。はっきり断言します。〈私〉は存在しない。

    マルクス・ガブリエルは『世界はなぜ存在しないのか』という著書で一躍有名になりましたが(今年の初めに読みました)、私は、『私はなぜ存在しないのか』というロジックを一冊分くらいの量で説明できます。有名になりたくないので書きませんが(苦笑)

    そもそも、「〈私〉を対象化すれば〈私〉は変質する」と頑強なまでに主張し私に教えてくれたのはパニチェさんではありませんか。「〈私〉は在る」というのは特に強い〈私〉の対象化(実在化)に他なりません。パニチェさんも以下のように同意してくださっております。

    >>「先言の〈私〉」の〈私〉はこの文章に於いては対象化されていることに間違いはなく、〈私〉を「A」や「これ」に替えたり、言葉を使わなくても自分を指さすことや頭の中で指し示すことでも、いずれも対象化されます。
    >
    > 上記はその通りです。


    いまや立場は逆転し、私の方がパニチェさんに「〈私〉を対象化してはならない」「対象化し変質した〈私〉の存在など無い」と言わなければならなくなっているのも面白い現象です。

    徹底しているのでカニッツアの三角形でさえ対象化になります。
    この方向へ私を意識付けしてくれたのはパニチェさんであり、本当に大感謝しているところです。


    > 「われ思う故にわれあり」の“われ”は言語によって成立する“われ”だと思うのです。所謂“物心”がついた以降。
    > でも言語学習を可能とする主体は言語に先んじて在るわけで、不特定多数の“われ”が言語によって〈私〉になることはありえない。何故、ありえないかは言語では説明できそうにありません。

    言語をもたない猫や犬も知恵を使うことができ、言語が理解できず表現もできない知的障碍者の方々も(言語を使える人々に比べたら少ないですが)知恵を使うことができると私は認識しています。また言語習得以前の生後0歳児も、言語に寄らずに世界の意味付けと価値付けを始め、思考し少しの知恵を使って活動を始めていると、これも私の認識ですが、パニチェさんとは異なるようです。他者と認識が異なっても私的には全く問題ないのですが、パニチェさんの論拠が普遍性をもたないことの主張だけはしておきたいと思います。デカルトの「われ」については異論というか異解釈が私にあります(これは試論で触れます)。


    > 「〈私〉が在る」が得心できているなら、私が言わんとしていることとズレていることが理解できるというのであれば分かるのですが、ダンザさんの場合は亘時〈私〉が在るはゼロにもかかわらず理解できると言えるのか、ここのところも不思議です。言葉で説明できそうなら、ここのところをもう少し詳しくお願いします。

    上記等の枝葉の議論が終わり次第、明快に説明しようと思います。
    ニーチェの「自分の認識を伝えるやいなや、人はもはやそれを十分に愛さなくなる」との訓戒に従い、未だ一語のメモもアウトプットしていない状況です。もう少し愛する時間をください。一つの小さな試論を書きますので。


    > 比類がないのは先言だから、先言だから比類がないってことになると、後者を主たるテーマにしていることになるんでしょうか。自分でもよく分かりませんが、感覚的には「比類なき」と「先言」は私の場合は同等です。

    この点も枝なのですが、「比類がないから先言だ」にはならないと思うのです。ゆえにパニチェさんは「先言」を土台にしていると私は解釈しました。価値の同等については了解しました。


    > 腑に落ちたきっかけというか、どういうプロセスを経て腑に落ちたかよかったら、教えて下さい。

    腑に落ちたプロセスとしては、まず、睡眠中かもしくは起きたその場での閃きです。その閃きによって、この三週間ほど学んできた、デカルトの言説、カントの言説、フッサールの言説、大森荘蔵の言説、竹田青嗣の言説、岩波哲学思想事典の数々の知見、その他さまざまな無意識内においた情報がパラパラと組み合わさり一挙に構造化されたイメージです。閃き自体は、閃きとしか言いようがありません。

    その構造化されたものに手直しを加えながら、ある大哲学者がどう言っているのか確認をとったところ(たぶん彼はどこかに書いているだろうと思い)、案の定言及しており、私の認識の前を歩いていました。圧倒的に敵いませんね。

    パニチェルームにあるウィトゲンシュタインの言説についても、ウィトゲンシュタインが言語の限界は世界の限界だとした箇所で、なぜウィトゲンシュタインが限界としたことを、私は限界とはしなかったのかについても明快に説明できると思います。(論拠の資料はとれますが、それは大量の労力と時間がかかりそうなので今は現実的ではありません)。しかし概略で、おそらくパニチェさんもロジックに納得してくれるのではないかと推測しています。

    「愛してる」と「愛している」の語感の違いを説明できますか?


    > はい、何か大上段に構えた物言いになるので普段は控えてはいるのですが、正直に言うと。。。
    > 「あらゆる論」「思想哲学」「脳科学も含めた科学的知見」「宗教」は大事の前の小事だと思います。

    いいですね!
    手順を踏んで、できるだけテーマを分散化しないように気をつけて挑みたいと考えております。個人的にはまず、哲学の双璧である存在論と認識論を手段化します。


    > ほぉ〜。やっぱそうなんですかねえ〜。私は懐疑的です。^^

    「意識」関連のテーマについては別の論議としてやりましょう!


    > 空中をすっ飛んで遥か先にワープするのはダンザさんの魅力です。同じならむしろ先に進みにくいでしょう。
    > 美学に関して除くことは私も同じですし、よろしくお願いします。

    私の変な思考のしかたと変な性格をご理解くださり恐縮です。
    こちらこそよろしくお願いします。


    > PS.誤字が多くてすんまそん♪^^

    気にせずこのままいきましょう!

    >〈私〉は在るがゼロ並ぶあ、→ 〈私〉は在るがゼロならば、

    この程度の変換は朝飯前でなんの障害にもなりません!

    参考記事:『間違いを消さない教育で身に付くものとは?』
    ttps://toyokeizai.net/articles/-/178596



引用返信/返信 削除キー/
■534 / inTopicNo.89)  Re[12]: 対象化してはならない〈私〉
□投稿者/ パニチェ -(2018/07/15(Sun) 09:54:04)
    おはようございます。

    No533に返信(Danza Espanolaさんの記事)

    > 更にこの一週間、〈私〉について自己内議論が佳境に入ってきた感ありです。

    それは頼もしい。

    > 感覚的に「〈私〉は在る」は未だにゼロです。

    ここ聞きたいんですが、〈私〉は在るがゼロ並ぶあ、何か在りますか?それとも何にもないですか?
    何にもなければ世界を知覚あるいは認識している主体もなくなり、世界もなくなりませんか?

    > しかし論理からすれば、デカルトの「われ思う故にわれあり」よりも「われ在るが故にわれ思う」の方が存在論として自然ですね。後者の方はわかりやすく誰もが当然に感じるのではないかと思うのです。しかしパニチェさんの言わんとしていることとはズレている、ということも理解しているつもりです。

    「われ思う故にわれあり」の“われ”は言語によって成立する“われ”だと思うのです。所謂“物心”がついた以降。
    でも言語学習を可能とする主体は言語に先んじて在るわけで、不特定多数の“われ”が言語によって〈私〉になることはありえない。何故、ありえないかは言語では説明できそうにありません。
    「〈私〉が在る」が得心できているなら、私が言わんとしていることとズレていることが理解できるというのであれば分かるのですが、ダンザさんの場合は亘時〈私〉が在るはゼロにもかかわらず理解できると言えるのか、ここのところも不思議です。言葉で説明できそうなら、ここのところをもう少し詳しくお願いします。

    > 「比類なき先言の〈私〉」は、「比類なき〈私〉」と「先言の〈私〉」に分けることができ、永井均さんは前者を主たるテーマ「〈私〉の比類なさ」として考察しているようにうかがえ、パニチェさんは後者を主たるテーマとして考察しているように感じているのですが、間違っていますか。

    比類がないのは先言だから、先言だから比類がないってことになると、後者を主たるテーマにしていることになるんでしょうか。自分でもよく分かりませんが、感覚的には「比類なき」と「先言」は私の場合は同等です。

    >当初私はアイデンティティに関連する同一性の問題が関与しているのかなと考えていました。パニチェルームの一部にも若干同一性について触れられている部分がありましたが、これらはいずれも「比類なき〈私〉」のほうだと考えています。こちらの方は一緒くたに考えるよりも一旦横に措かせてもらえませんか。

    確かにアイデンティティとか自己同一性というのは記憶も深くかかわることからして、言葉によって認識(自覚)する「比類なき〈私〉」がメインになると思いますが、一旦、横に置くことは了解しました。

    > 「先言の〈私〉」について見えてきたところがあるのです。
    > こちらについては、心理学的な同一性の問題は一切なく、純粋な哲学として捉えるべきだと、そういう思いに到りました。
    > 但し、この文章は間違っているのではないか、もっと良い別の言い方があるのではないかと思うのです。(命名されたキダマサさんには申し訳ないのですが)、というのは、パニチェさん曰く「対象化した時点で〈私〉は変質する」ということを繰り返し強く述べています。
    > この一週間十分に悩みました。「先言の〈私〉」の〈私〉はこの文章に於いては対象化されていることに間違いはなく、〈私〉を「A」や「これ」に替えたり、言葉を使わなくても自分を指さすことや頭の中で指し示すことでも、いずれも対象化されます。

    上記はその通りです。

    > しかしパニチェさんは対象化できないと言う。
    > なので私は、パニチェさんの対象化できないという感覚の方を信頼し、「先言の〈私〉」は無視することにしました。つまり対象化しない。〈私〉についても、そうして考えています。こちらは対象化してはならないというレベルです。但しこの場では〈私〉を使用します。

    表記について了解しました。

    > 先レスにあった「object」については改めまして次のレスまたは次の次のレスで明らかにします。

    これも了解です。

    > ところで確認なのですが、岩波哲学思想事典の「自己」の項目に書かれている次のウィトゲンシュタインの言説にパニチェさんは同意または同感しますか?
    > 【ウィトゲンシュタインは、『私が見出した世界』という本が書かれていたとすれば、まさに知覚し表象している「私」はここには言及されえない、と述べている。】

    同感できます。

    > 私は、おそらく二週間前ではまったく理解不能で同意できなかったのですが、ここにきて論理的に腑に落ちました。同意します。完全に。

    腑に落ちたきっかけというか、どういうプロセスを経て腑に落ちたかよかったら、教えて下さい。

    > >質問ばかりで申し訳ないのですが「誕生日ごとに経験する、他人には理解できそうもない純粋認識の体験」はどのようなものか、よかったら教えて下さい。
    > これについては固有体験的なものと認識していて、例えば「私は左脳と右脳を分断し右脳だけで世界を感じとるようなことが意図的にできる」といった、たぶんパニチェさん的には有り得ないことでしょうし、つまり私にとって〈私〉を感覚することができないことと同じなので、論理的に私自身が説明できるようになってからにしようと思いますが、どうでしょうか?

    了解しました。

    >>いえ、同じです。で、私が一人で考える時も気付かぬうちに先にあったような変質した対象になっている場合がありませ。
    >>そして原点に戻したりしています。必ず論理や言語にすれば、それは他者との会話に限らず行ったり戻ったりします。
    > 同意していただき、ありがとうございます。
    > 「〈私〉という哲学」の大きな目的の前では、あらゆる論、思想哲学は方法論(大事の前の小事)として手段化して良いというふうに捉えて良いでしょうか。

    はい、何か大上段に構えた物言いになるので普段は控えてはいるのですが、正直に言うと。。。
    「あらゆる論」「思想哲学」「脳科学も含めた科学的知見」「宗教」は大事の前の小事だと思います。

    > ここについては、意識の開闢からの演繹仮説のほうは何となく出来てるんですよ。しかし掘り下げる帰納がうまくできません。〈私〉が消えて、何段階かを経て純粋意識にまで実感として到達できるとすれば、ものすごい修行だと思います。藤田さんと山下さんはそこまで見性したのかもしれないですね。

    ほぉ〜。やっぱそうなんですかねえ〜。私は懐疑的です。^^

    > ありがとうございます。
    > パニチェさんも率直に真摯に認めてくださって、さすがだなと思いました。

    いえいえ、とんでもない。
    議論の目的が深化なら、間違いを認めるのは当たり前ですし、むしろ気付かせてもらったことに感謝です。

    > 私も空中をすっ飛んで暴走することが多々ありますので、ぜひ直截にご指摘ください。もともと持論にはまったくこだわりなく簡単に撤回しますので。(※己れの美学にかんすることは除きますが)

    空中をすっ飛んで遥か先にワープするのはダンザさんの魅力です。同じならむしろ先に進みにくいでしょう。
    美学に関して除くことは私も同じですし、よろしくお願いします。


    PS.誤字が多くてすんまそん♪^^


引用返信/返信 削除キー/
■533 / inTopicNo.90)  対象化してはならない〈私〉
□投稿者/ Danza Espanola -(2018/07/13(Fri) 00:24:01)
    こんばんは!

    更にこの一週間、〈私〉について自己内議論が佳境に入ってきた感ありです。

    感覚的に「〈私〉は在る」は未だにゼロです。しかし論理からすれば、デカルトの「われ思う故にわれあり」よりも「われ在るが故にわれ思う」の方が存在論として自然ですね。後者の方はわかりやすく誰もが当然に感じるのではないかと思うのです。しかしパニチェさんの言わんとしていることとはズレている、ということも理解しているつもりです。

    「比類なき先言の〈私〉」は、「比類なき〈私〉」と「先言の〈私〉」に分けることができ、永井均さんは前者を主たるテーマ「〈私〉の比類なさ」として考察しているようにうかがえ、パニチェさんは後者を主たるテーマとして考察しているように感じているのですが、間違っていますか。

    当初私はアイデンティティに関連する同一性の問題が関与しているのかなと考えていました。パニチェルームの一部にも若干同一性について触れられている部分がありましたが、これらはいずれも「比類なき〈私〉」のほうだと考えています。こちらの方は一緒くたに考えるよりも一旦横に措かせてもらえませんか。

    「先言の〈私〉」について見えてきたところがあるのです。
    こちらについては、心理学的な同一性の問題は一切なく、純粋な哲学として捉えるべきだと、そういう思いに到りました。

    但し、この文章は間違っているのではないか、もっと良い別の言い方があるのではないかと思うのです。(命名されたキダマサさんには申し訳ないのですが)、というのは、パニチェさん曰く「対象化した時点で〈私〉は変質する」ということを繰り返し強く述べています。

    この一週間十分に悩みました。「先言の〈私〉」の〈私〉はこの文章に於いては対象化されていることに間違いはなく、〈私〉を「A」や「これ」に替えたり、言葉を使わなくても自分を指さすことや頭の中で指し示すことでも、いずれも対象化されます。

    しかしパニチェさんは対象化できないと言う。
    なので私は、パニチェさんの対象化できないという感覚の方を信頼し、「先言の〈私〉」は無視することにしました。つまり対象化しない。〈私〉についても、そうして考えています。こちらは対象化してはならないというレベルです。但しこの場では〈私〉を使用します。

    先レスにあった「object」については改めまして次のレスまたは次の次のレスで明らかにします。


    ところで確認なのですが、岩波哲学思想事典の「自己」の項目に書かれている次のウィトゲンシュタインの言説にパニチェさんは同意または同感しますか?

    【ウィトゲンシュタインは、『私が見出した世界』という本が書かれていたとすれば、まさに知覚し表象している「私」はここには言及されえない、と述べている。】

    私は、おそらく二週間前ではまったく理解不能で同意できなかったのですが、ここにきて論理的に腑に落ちました。同意します。完全に。


    >質問ばかりで申し訳ないのですが「誕生日ごとに経験する、他人には理解できそうもない純粋認識の体験」はどのようなものか、よかったら教えて下さい。

    これについては固有体験的なものと認識していて、例えば「私は左脳と右脳を分断し右脳だけで世界を感じとるようなことが意図的にできる」といった、たぶんパニチェさん的には有り得ないことでしょうし、つまり私にとって〈私〉を感覚することができないことと同じなので、論理的に私自身が説明できるようになってからにしようと思いますが、どうでしょうか?


    > 議論しようとすればその部屋か出す必要があります。一人部屋にいつだけでは議論にあなりません。
    > 但し、その部屋から出れば対象は変質します。対象は誰も立ち入れないその部屋空間そのものと言ってもいいかもしれなせん。それを暗黙の了解とすれば議論は可能です。

    趣旨については了解しました。


    > いえ、同じです。で、私が一人で考える時も気付かぬうちに先にあったような変質した対象になっている場合がありませ。
    > そして原点に戻したりしています。必ず論理や言語にすれば、それは他者との会話に限らず行ったり戻ったりします。

    同意していただき、ありがとうございます。
    「〈私〉という哲学」の大きな目的の前では、あらゆる論、思想哲学は方法論(大事の前の小事)として手段化して良いというふうに捉えて良いでしょうか。



    > 後回しにすること了解しました。〈私〉が消えるということろがまだ私には理解できていません。
    > 但し、藤田一照、 永井均、山下良道の共著「〈仏教3.0〉を哲学する」はこのテーマ(無我と〈私〉)に挑んでます。
    > 永井氏が合意したのか、それとも社交辞令も兼ねてペンディングとしたのかさえも私にはよく分かりませんが、藤田氏と山下氏は得心しているようdす。

    ここについては、意識の開闢からの演繹仮説のほうは何となく出来てるんですよ。しかし掘り下げる帰納がうまくできません。〈私〉が消えて、何段階かを経て純粋意識にまで実感として到達できるとすれば、ものすごい修行だと思います。藤田さんと山下さんはそこまで見性したのかもしれないですね。


    > 全然、問題ありませんし、むしろそれらも含めて議論を深めていきたいとおもいます。
    > 実際、私の誤りにも気付けたわけですし。^^

    ありがとうございます。
    パニチェさんも率直に真摯に認めてくださって、さすがだなと思いました。

    私も空中をすっ飛んで暴走することが多々ありますので、ぜひ直截にご指摘ください。もともと持論にはまったくこだわりなく簡単に撤回しますので。(※己れの美学にかんすることは除きますが)


引用返信/返信 削除キー/
■531 / inTopicNo.91)  行きつ戻りつ
□投稿者/ パニチェ -(2018/07/08(Sun) 21:51:54)
    こんにちは!

    No530に返信(Danza Espanolaさんの記事)

    > 〈私〉についての考察動機は、自分のサイトで進めているテーマでアイデンティティを扱い〈私〉の問題に近いなと閃いたからです。「〈私〉が在るかないか」ではなく、「〈私〉がなぜ在るか」でもなく、「〈私〉は在る」と断定するところから入ってます。それは、パニチェさんが「在る」と言い切っているからで、彼がそう言い切るならば在るんだろうと。長い付き合いなので「〈私〉は在る」の断定的な完全肯定を前提として仮設しているのでギャップを感じないのかもしれません。
    > そうして「〈私〉は在る」を強行的に前提にしてみると世界の景色が変わってきた。以前には見えなかった景色が見えてきた。Panietzsche Room の「探究」の読みかたが変わってきた。すると不思議なことに、前のレスの時点では〈私〉の感覚も体験も無いと書きましたが、この一週間で、感覚の体験で思い当たる処が出てきました。もしかしたら自分の誕生日ごとに経験する、他人には理解できそうもない純粋認識の体験かなと。禅の“すがた”が独我論的で、多少その心得が身についていたことも〈私〉に接近しやすい下地になっているのかもしれません。
    > 以上ですが、問いへの答えになっていますか?

    はい、ありがとうございます。もちろん、答えになっていまあす。
    なるほど、まずは「〈私〉は在る」という思考実験がら仮に入ってみたということでしょうか。
    で、現時点での「〈私〉は在る」はダンザさんにとってやはり仮ですか、それとも確信的な存在となっていますか。
    質問ばかりで申し訳ないのですが「誕生日ごとに経験する、他人には理解できそうもない純粋認識の体験」はどのようなものか、よかったら教えて下さい。

    > 大森荘蔵が次のように述べています。
    > 【哲学の根本性は「なぜ」を連発するところにあるのではなく、人間の経験全体の根本的事実が「いかに」あるかを見定めようとするところにある。】(『物と心』)

    これはよく分かりますし、私もそのように思います。存在論や認識論そのものでしょうから。

    > これに習い、〈私〉は「いかに在るのか」についてブレイクスルーを待ちたいと思っています。その点で禅の公案はカニッツァの三角形的に〈私〉を体験できる一つの手段になるかもしれないというのが私の見立てです。

    なるほど。

    > パニチェさんは公案に取り組んだことはありますか?

    いえ、ありません。

    > ここは私の書き方が悪かったので齟齬をきたしています。私は自分自身が俯瞰できるとは書いていないつもりだったのですが。(俯瞰できないということでもありませんけれども)

    了解しました。

    > >今回のダンのレスで思い付いたんだけど、〈私〉のいる位置ってのは円錐の先端のような尖ったイメージではなく球面(底)のようなものではないかと閃いた。
    > 「(世界が)円錐で〈私〉が先端」「(球が世界で)球面(底)が〈私〉」という記述を読んで、世界と〈私〉を同じ絵へと対象化(客体化)していることをもって、私は(自我からの)俯瞰と解釈したのですが違っていたようですね?

    ほんとですね。相手が書くことは「言葉による変質」とか「俯瞰できない対象であること」が気になるくせに、自分で書いて気付いていませんでした。確かに私が俯瞰的に捉えていました。

    > ところで、「比類なき先言の〈私〉」についてですが、これを書いた人(パニチェ氏)にとってですが、(読んだ人にとってもそうだと思いますが)、〈私〉を対象化している、〈私〉を客体化している、〈私〉はobjectになっている、と解釈するのが自然だと思いますし、私はそれで全く問題ないとも思っています。「比類なき先言の〈私〉」というテーマ自体もobjectとして提起されている、で良いのではないでしょうか。

    objectとはどういう意味でしょうか。

    > 確かに〈私〉は独我論によって成立している個人固有の問題であるに違いありません。でも独我論によって成立している〈私〉を独我論で考察しなければならないということではないと思うのです。むしろ独我論であれば、一人部屋に鍵をかけてその中で自己満足のために考える。一切外部へ向かって主張しない。他人との対話は成立しない。拒否する。ということになるのではないでしょうか。

    議論しようとすればその部屋か出す必要があります。一人部屋にいつだけでは議論にあなりません。
    但し、その部屋から出れば対象は変質します。対象は誰も立ち入れないその部屋空間そのものと言ってもいいかもしれなせん。それを暗黙の了解とすれば議論は可能です。

    > なので、いろいろな思想を(独我論とは正反対の思想も)手段として自由に活用したり、脳科学や生物学、物理的なこととして捉えてみたり、他我や禅の手法を用いたりしてどこかでマッチングするのを待ってみたりと、そういうふうに私は考えているのですが、パニチェさんとは違っていますか?

    いえ、同じです。で、私が一人で考える時も気付かぬうちに先にあったような変質した対象になっている場合がありませ。
    そして原点に戻したりしています。必ず論理や言語にすれば、それは他者との会話に限らず行ったり戻ったりします。

    >>すみません、ここは私が理解できていません。
    >>次の段階で消えるところが分からないのと、「「先言の〈私〉」が確信的に存在している」というのが「はじめに“我”ありき」という意味なら分かります。
    > 以前の私からのレスは下記でした。

    > >> すべてが自己意識の中に内在しているとすれば、「世界」という枠の概念も無くなる。
    > >> 世界という概念は「一部と全体」の枠組みの全体であったので、一部も無くなる。
    > >> <私>という「一部の点」 もなく、開闢も何もなく、初めから表象のみがある。
    > >> そうすると初めも無い。終わりも無い。「死」という観念も消失することになる。
    > >> 「生」もない。
    > >> 「<私>とは何者か」と質問する存在は消滅する。

    > 私は帰納的にロジックを掘り下げていて、「はじめに“我”ありき」の演繹には触れていません。別の角度から演繹として考察することも可能だと思います。たぶん私は無意識のうちに禅的に帰納ロジックの全体を一気に直観してしまっているので、理屈が追いついていません。
    > 少し時間をください。
    > 今考えているのは、純粋認識の段階で先言の〈私〉が在ることを確信しているのと、更に深層へ降りると純粋意識の段階で世界=〈私〉として同化してしまうことによって、〈私〉が消える。こんな感じのイメージなのですが。

    後回しにすること了解しました。〈私〉が消えるということろがまだ私には理解できていません。
    但し、藤田一照、 永井均、山下良道の共著「〈仏教3.0〉を哲学する」はこのテーマ(無我と〈私〉)に挑んでます。
    永井氏が合意したのか、それとも社交辞令も兼ねてペンディングとしたのかさえも私にはよく分かりませんが、藤田氏と山下氏は得心しているようdす。

    > その他に頂いたレスですが、まずは、考えてくださり本当にありがとうございました。一つ一つについては理解し了解するところであります。

    こちらこそ、ありがとうございます。

    > しかしどうも私の質問の仕方に問題があったり文章に言葉が足りなかったり飛躍があったりで、対話に齟齬をきたしているようなので、せっかく時間と労力を使って考察していただいたところ申し訳ないのですが、機会と質問を改めさせてください。

    全然、問題ありませんし、むしろそれらも含めて議論を深めていきたいとおもいます。
    実際、私の誤りにも気付けたわけですし。^^

    > 特に「主体としての〈私〉からの景色」は今の段階では不適切でした。

    不適切かどうかなど問題にせず、どんどんカキコしてみて下さい。
    大いに行ったり戻ったりしましょう。

引用返信/返信 削除キー/
■530 / inTopicNo.92)  Re[9]: 主体としての〈私〉からの景色
□投稿者/ Danza Espanola -(2018/07/07(Sat) 11:54:16)
    こんにちは!

    返信は順不同になります。


    > ここ是非聞きたいのですが、以前にダンザさんと会話した時にはギャップを感じたんですが、今回は(今ところ)さほどギャップを感じません。

    〈私〉についての考察動機は、自分のサイトで進めているテーマでアイデンティティを扱い〈私〉の問題に近いなと閃いたからです。「〈私〉が在るかないか」ではなく、「〈私〉がなぜ在るか」でもなく、「〈私〉は在る」と断定するところから入ってます。それは、パニチェさんが「在る」と言い切っているからで、彼がそう言い切るならば在るんだろうと。長い付き合いなので「〈私〉は在る」の断定的な完全肯定を前提として仮設しているのでギャップを感じないのかもしれません。


    > で、〈私〉は他者に伝えようがないし、教えたくても教える術がない。ダンザさんは、どういう手法あるいはアプローチ、または何をもって〈私〉に接近したのでしょうか?

    そうして「〈私〉は在る」を強行的に前提にしてみると世界の景色が変わってきた。以前には見えなかった景色が見えてきた。Panietzsche Room の「探究」の読みかたが変わってきた。すると不思議なことに、前のレスの時点では〈私〉の感覚も体験も無いと書きましたが、この一週間で、感覚の体験で思い当たる処が出てきました。もしかしたら自分の誕生日ごとに経験する、他人には理解できそうもない純粋認識の体験かなと。禅の“すがた”が独我論的で、多少その心得が身についていたことも〈私〉に接近しやすい下地になっているのかもしれません。

    以上ですが、問いへの答えになっていますか?


    大森荘蔵が次のように述べています。

    【哲学の根本性は「なぜ」を連発するところにあるのではなく、人間の経験全体の根本的事実が「いかに」あるかを見定めようとするところにある。】(『物と心』)

    これに習い、〈私〉は「いかに在るのか」についてブレイクスルーを待ちたいと思っています。その点で禅の公案はカニッツァの三角形的に〈私〉を体験できる一つの手段になるかもしれないというのが私の見立てです。

    パニチェさんは公案に取り組んだことはありますか?


    > 世界と同じように〈私〉を客体として俯瞰できるとは思えないのですが、逆にダンザさんが俯瞰できると考えてるところをもう少し詳しく教えてもらいたいです。

    ここは私の書き方が悪かったので齟齬をきたしています。私は自分自身が俯瞰できるとは書いていないつもりだったのですが。(俯瞰できないということでもありませんけれども)

    >今回のダンのレスで思い付いたんだけど、〈私〉のいる位置ってのは円錐の先端のような尖ったイメージではなく球面(底)のようなものではないかと閃いた。

    「(世界が)円錐で〈私〉が先端」「(球が世界で)球面(底)が〈私〉」という記述を読んで、世界と〈私〉を同じ絵へと対象化(客体化)していることをもって、私は(自我からの)俯瞰と解釈したのですが違っていたようですね?


    ところで、「比類なき先言の〈私〉」についてですが、これを書いた人(パニチェ氏)にとってですが、(読んだ人にとってもそうだと思いますが)、〈私〉を対象化している、〈私〉を客体化している、〈私〉はobjectになっている、と解釈するのが自然だと思いますし、私はそれで全く問題ないとも思っています。「比類なき先言の〈私〉」というテーマ自体もobjectとして提起されている、で良いのではないでしょうか。

    確かに〈私〉は独我論によって成立している個人固有の問題であるに違いありません。でも独我論によって成立している〈私〉を独我論で考察しなければならないということではないと思うのです。むしろ独我論であれば、一人部屋に鍵をかけてその中で自己満足のために考える。一切外部へ向かって主張しない。他人との対話は成立しない。拒否する。ということになるのではないでしょうか。

    なので、いろいろな思想を(独我論とは正反対の思想も)手段として自由に活用したり、脳科学や生物学、物理的なこととして捉えてみたり、他我や禅の手法を用いたりしてどこかでマッチングするのを待ってみたりと、そういうふうに私は考えているのですが、パニチェさんとは違っていますか?


    > すみません、ここは私が理解できていません。
    > 次の段階で消えるところが分からないのと、「「先言の〈私〉」が確信的に存在している」というのが「はじめに“我”ありき」という意味なら分かります。

    以前の私からのレスは下記でした。

    >> すべてが自己意識の中に内在しているとすれば、「世界」という枠の概念も無くなる。
    >> 世界という概念は「一部と全体」の枠組みの全体であったので、一部も無くなる。
    >> <私>という「一部の点」 もなく、開闢も何もなく、初めから表象のみがある。
    >> そうすると初めも無い。終わりも無い。「死」という観念も消失することになる。
    >> 「生」もない。
    >> 「<私>とは何者か」と質問する存在は消滅する。

    私は帰納的にロジックを掘り下げていて、「はじめに“我”ありき」の演繹には触れていません。別の角度から演繹として考察することも可能だと思います。たぶん私は無意識のうちに禅的に帰納ロジックの全体を一気に直観してしまっているので、理屈が追いついていません。

    少し時間をください。
    今考えているのは、純粋認識の段階で先言の〈私〉が在ることを確信しているのと、更に深層へ降りると純粋意識の段階で世界=〈私〉として同化してしまうことによって、〈私〉が消える。こんな感じのイメージなのですが。



    その他に頂いたレスですが、まずは、考えてくださり本当にありがとうございました。一つ一つについては理解し了解するところであります。

    しかしどうも私の質問の仕方に問題があったり文章に言葉が足りなかったり飛躍があったりで、対話に齟齬をきたしているようなので、せっかく時間と労力を使って考察していただいたところ申し訳ないのですが、機会と質問を改めさせてください。

    特に「主体としての〈私〉からの景色」は今の段階では不適切でした。



引用返信/返信 削除キー/
■528 / inTopicNo.93)  Re[8]: 主体としての〈私〉からの景色
□投稿者/ パニチェ -(2018/07/06(Fri) 13:46:03)
    No524に返信(Danza Espanolaさんの記事)
    > 1.物理的な他人は物と一緒。
    > 2.“我をもった他者”は人間としての存在。
    > 3.他者の“我”自体は地平の彼方、存在も存在様相も厳密な意味では不可知だが自分の“自我”と同様に他者の“自我”(他我)は、(独我論的には)想像表象によって存在している。

    > という感じでしょうか。初期段階として。
    > 認識の変更や撤回はどんどんやっていきましょう。

    了解。

    > 私的には宙ぶらりんの留保状態ですが、2または3を主体とし、別の2または3を客体としたときに何が言えるのか、1.2.3.ともに「個」と「集合体(ある集団)」とでは何が変わるのかに関心があります。何か気づいたことがあれば教えてください。

    万人に当てはまる2と3は〈私〉ではないでしょうね。そういう意味で〈私〉は対称性を持たないし、逆の言い方をすると非対称的なことが〈私〉の本質だと思います。
    あと個の1、2、3は分かりますが、集団の1、2、3ってのはイメージできません。

    > 「他者」を西洋哲学の根本問題として初めて取り上げたのがフッサールで、以降、レヴィナスやメルロ・ポンティらによって現代哲学のテーマにもなっているらしい。私はフッサールしか読み始めていませんが。根っこにあるのは「われ思う故にわれあり」のデカルトの独我論です。
    > <私>というテーマはフッサール現象学と相性がよいと感じています。
    > 少しずつやっていきたいと思います。

    フサール現象学の直接経験=志向体験の主体はマッハ的光景で描かれていないことで示されています。
    この構図はウィトゲンシュタインが語りうる範囲を示すことで語り得ないものを指示した構図に似ています。
    カニッツァの三角形がこの構図に類似しています。

    > ところで、まず先にパニチェルームの「探究」>「<私>の哲学」から引用させてもらいますね。
    > >正直なところ「比類なき先言の〈私〉」は上記を間接的に示していると直観的に感じるのである。但し、これは思惟によるものでもなく論理的な思考の結果ではない。

    ここで述べている(パニチェルーム > 〈私〉の哲学 > 3.拮抗運動)上記というのは「魂の存在と電脳の不可能性」です。

    > まず一点目として、<私>は感覚的体験的に直感(ここでは直観でなく)として「確信的に在ると感じている」ということだと思います。間違っていますか?

    「確信的に在ると感じている」のは、これに先んじて〈私〉が在るからです。
    デカルトの「我思う故に我あり」の“我”を対称性のある“我”とした場合は「確信的に在ると感じている“我”」かもしれませんが、非対称的な“我”と解釈するなら「我在り故に我思う」になります。
    思うに先んじて存在するのが〈私〉であり、〈私〉が先んじて在るから我を思うことが可能となるということでしょうね。

    私には<私>への感覚も体験もないのですが、逆に、ようやく関心をもつことができ、論理的に理解が進んでいます(進んでいると思い込んでいるだけかもしれませんが)。

    ここ是非聞きたいのですが、以前にダンザさんと会話した時にはギャップを感じたんですが、今回は(今ところ)さほどギャップを感じません。
    で、〈私〉は他者に伝えようがないし、教えたくても教える術がない。ダンザさんは、どういう手法あるいはアプローチ、または何をもって〈私〉に接近したのでしょうか?

    > 二点目です。(三点目もあると思いますが今回は触れません)
    > >純粋経験の主体者を想定するかどうか?
    > >また想定するとすれば、その主体者とは、誰にでもあてはまるような「私」ではなく、特化された世界を観察する特異点としての〈私〉とするか?
    > ウィトゲンシュタインの引用も読んでいます。共通して言えるのは、世界(実在現象的表象全部)と<私>(特異点や限界点)を《自我「私」》が対置させているところで、その表象全部の中に<私>を含めないが、《自我》を主体とする視座は「世界」と〈私〉を客体として俯瞰している、ということになると思いますが間違っていますか。(俯瞰という言語に抵抗があれば別の言葉でもかまいません。意味は解ってもらえると思います)

    世界と同じように〈私〉を客体として俯瞰できるとは思えないのですが、逆にダンザさんが俯瞰できると考えてるところをもう少し詳しく教えてもらいたいです。

    > 本論のほうの引用についてですが、私の独我論についての議論において、どこまでも透徹した独我論であれば、その中間課程では、言語は消えることになります。クオリアだけと言いますか、イメージだけと言いますか、自然をそのまま、意味も価値も付与せずにありのままに受容する「主体」だけがいるのです(次の段階では「主体」も消えますが)。
    > つまり、その時点では、言語化される前の「先言の〈私〉」が確信的に存在していると考えています。

    すみません、ここは私が理解できていません。
    次の段階で消えるところが分からないのと、「「先言の〈私〉」が確信的に存在している」というのが「はじめに“我”ありき」という意味なら分かります。

    > そこで質問なのですが(私も考えるのですが)、《自我「私」》を主体とし、〈私〉を客体として考える、その思考パラダイムを転倒させて、〈私〉を主体とし《自我》を客体とした場合に、《自我》は〈私〉からどう観られていると思いますか?
     
    〈私〉は客体として考えようがありません。客体とした瞬間に〈私〉は変質しますし、非対称なものが対称性を持つようになります。
    客体とは対称性のあるものとも言えるかもしれません。

    > 次は直観知性的想像力を爆発させなくてはなりませんが、主体とした〈私〉からは、《自我》や「実在表象の景色」はどう観えていますか?

    観えるというのは目で見るという意味ではないんですよね?自我は見ることはできませんが〈私〉から観ずる自我は所謂性格や喜怒哀楽などの感情や暑い寒い等々感覚的なものだと思います。

    > ここでは、〈私〉が主体となっているため、客体としての私の自我は、冒頭の3での他我自体へ変容するのではないかと考えています。(この景色のために冒頭の質問をさせていただいた面もあります)

    変容するうでしょうか?
    客体として観ずる自我は地平の内ですが、他我は地平の彼方です。
    お腹が痛いフリを私が私にはできませんが、他我は私にそのフリをすることができます。
    そう考えると自我も非対称ってことになるのかなぁ〜。ここは考えどころですね。

    > 見証というのは道元の言葉なのですね。goo国語辞典では見証(けんぞ)となっていて全然別の意味が書かれています。見性とは違うのでしょうね。

    道元禅師の見証という言葉を使っている理由は言葉と論理で悟りに至れれば言語的に証明できるかもしれないと思い「見証」と表記しているだけで、意味は見性も見証も同じです。

    > 禅の思想はインドの「座禅」を抜きにすれば、つまり中国禅的に禅を言えば、独我論に限りなく近いと思います。公案も独我論的公案が多いですよね。ご存知かもしれませんが禅の基本的な取り組みかたとして「直指人心見性成仏」という禅語があって、この「直指人心(じきしにんしん)」とはまさしく、直観によってストレートに〈私〉を見つめることと同じことではないかと考えています。
    > ただ、私としましては直指人心は不得意なので、間接的に論理とイメージによっての手法をとります。
    > 禅思想からの〈私〉へのアプローチも並行して考えてみたいと思います。

    それは興味深い。是非お願いします。

引用返信/返信 削除キー/
■524 / inTopicNo.94)  主体としての〈私〉からの景色
□投稿者/ Danza Espanola -(2018/07/01(Sun) 22:14:27)
    約2年ぶりのニーチェクラブへの投稿記事になります。
    ご参加の方々にはご無沙汰してしまっています。

    パニチェ氏との建設的議論の場としてでこちらのトピックを使わせていただきますが、本論にかんしましては、個人的には、新規の方でもどちらさまでも異論反論同論の横やりは歓迎しますのでよろしくお願いします。


    No523に返信(パニチェさんの記事)
    > のっけからハードプロブレムやね。一緒に考えるためのテーマやと思うけど。まずは訂正や撤回ありきで答えてみます。
    > 物理的な他人は物と一緒、“我をもった他者”は人間としての存在、他者の“我”自体は地平の彼方、その存在も存在様相も厳密な意味では不可知だけど、自分の“我”自体の存在様相と同じようなものとしての想像は容易やし、日常生活はその存在様相を前提としてコミュニケーションをはかっている。

    1.物理的な他人は物と一緒。
    2.“我をもった他者”は人間としての存在。
    3.他者の“我”自体は地平の彼方、存在も存在様相も厳密な意味では不可知だが自分の“自我”と同様に他者の“自我”(他我)は、(独我論的には)想像表象によって存在している。

    という感じでしょうか。初期段階として。
    認識の変更や撤回はどんどんやっていきましょう。

    私的には宙ぶらりんの留保状態ですが、2または3を主体とし、別の2または3を客体としたときに何が言えるのか、1.2.3.ともに「個」と「集合体(ある集団)」とでは何が変わるのかに関心があります。何か気づいたことがあれば教えてください。

    「他者」を西洋哲学の根本問題として初めて取り上げたのがフッサールで、以降、レヴィナスやメルロ・ポンティらによって現代哲学のテーマにもなっているらしい。私はフッサールしか読み始めていませんが。根っこにあるのは「われ思う故にわれあり」のデカルトの独我論です。

    <私>というテーマはフッサール現象学と相性がよいと感じています。
    少しずつやっていきたいと思います。


    > それはそうでしょうね。自我の形成には他我は必要ですが、それは万人に共通する自我であって〈私〉ではない。
    > 多分、独房に一人閉じ込め飯だけを与えられていた少女や少年にも〈私〉は成立している。
    > この違いは前者は言葉の後に成立する自我であり、後者は言葉に先立って(先言)成立している〈私〉


    ところで、まず先にパニチェルームの「探究」>「<私>の哲学」から引用させてもらいますね。

    >正直なところ「比類なき先言の〈私〉」は上記を間接的に示していると直観的に感じるのである。但し、これは思惟によるものでもなく論理的な思考の結果ではない。

    まず一点目として、<私>は感覚的体験的に直感(ここでは直観でなく)として「確信的に」在ると感じているということだと思います。間違っていますか?私には<私>への感覚も体験もないのですが、逆に、ようやく関心をもつことができ、論理的に理解が進んでいます(進んでいると思い込んでいるだけかもしれませんが)。


    二点目です。(三点目もあると思いますが今回は触れません)

    >純粋経験の主体者を想定するかどうか?
    >また想定するとすれば、その主体者とは、誰にでもあてはまるような「私」ではなく、特化された世界を観察する特異点としての〈私〉とするか?

    ウィトゲンシュタインの引用も読んでいます。共通して言えるのは、世界(実在現象的表象全部)と<私>(特異点や限界点)を《自我「私」》が対置させているところで、その表象全部の中に<私>を含めないが、《自我》を主体とする視座は「世界」と〈私〉を客体として俯瞰している、ということになると思いますが間違っていますか。(俯瞰という言語に抵抗があれば別の言葉でもかまいません。意味は解ってもらえると思います)


    本論のほうの引用についてですが、私の独我論についての議論において、どこまでも透徹した独我論であれば、その中間課程では、言語は消えることになります。クオリアだけと言いますか、イメージだけと言いますか、自然をそのまま、意味も価値も付与せずにありのままに受容する「主体」だけがいるのです(次の段階では「主体」も消えますが)。

    つまり、その時点では、言語化される前の「先言の〈私〉」が確信的に存在していると考えています。


    そこで質問なのですが(私も考えるのですが)、《自我「私」》を主体とし、〈私〉を客体として考える、その思考パラダイムを転倒させて、〈私〉を主体とし《自我》を客体とした場合に、《自我》は〈私〉からどう観られていると思いますか?

    次は直観知性的想像力を爆発させなくてはなりませんが、主体とした〈私〉からは、《自我》や「実在表象の景色」はどう観えていますか?

    ここでは、〈私〉が主体となっているため、客体としての私の自我は、冒頭の3での他我自体へ変容するのではないかと考えています。(この景色のために冒頭の質問をさせていただいた面もあります)



    > 確かに。でも風車に挑むドンキホーテになっても結果的には構わないとも思っています。
    > 言語と論理による見証悟道ってのは、虫取り網で空気を捕まえようとする試みかも(笑)

    見証というのは道元の言葉なのですね。goo国語辞典では見証(けんぞ)となっていて全然別の意味が書かれています。見性とは違うのでしょうね。

    禅の思想はインドの「座禅」を抜きにすれば、つまり中国禅的に禅を言えば、独我論に限りなく近いと思います。公案も独我論的公案が多いですよね。ご存知かもしれませんが禅の基本的な取り組みかたとして「直指人心見性成仏」という禅語があって、この「直指人心(じきしにんしん)」とはまさしく、直観によってストレートに〈私〉を見つめることと同じことではないかと考えています。
    ただ、私としましては直指人心は不得意なので、間接的に論理とイメージによっての手法をとります。

    禅思想からの〈私〉へのアプローチも並行して考えてみたいと思います。



引用返信/返信 削除キー/
■523 / inTopicNo.95)  風車に挑むドンキホーテ
□投稿者/ パニチェ -(2018/06/30(Sat) 09:32:29)
    No512に返信(パニチェさんの記事)
    > 以下はdanza_espanolaさんからの返信(2018/6/24, Sun 06:24)

    > 言いたいことは分かっているつもり。
    > そのうえで質問します。(私も一緒に考えたい)
    > 「物理的な他人」と「”我”をもった他者」と「他者の”我”自体」、それぞれを相対比較した、パニのいう存在様相的な相違性についての見解を聞きたい。

    のっけからハードプロブレムやね。一緒に考えるためのテーマやと思うけど。まずは訂正や撤回ありきで答えてみます。
    物理的な他人は物と一緒、“我をもった他者”は人間としての存在、他者の“我”自体は地平の彼方、その存在も存在様相も厳密な意味では不可知だけど、自分の“我”自体の存在様相と同じようなものとしての想像は容易やし、日常生活はその存在様相を前提としてコミュニケーションをはかっている。

    > 私の拙いロジックがヒントになったのなら嬉しい。
    > ここは、「表象」の立体構造を可能とするところだと思う。

    同意。

    > >> ただ、独我論の他我を認めないということについて言えば、意味や価値のすべてを自分自身で創造したという点で無理があると思うんだけどど うだろう。
    >>ごめん、ここもうちょっと詳しくお願いします。多分、読み取れてないわ。
    > 独我論モードにおける表象について、現在にかんする感覚的な実在表象ではなく、
    > ここでは、記憶を基にする内側から湧き上がってくる表象のほうを対象にします。
    > 独我論においても、「自我の成り立ち」「過去の自己と現在の自己との同一性」といった過去との関係は「無かった」とは言えないし。
    > 「自分のルーツや自分が自分であるというアイデンティティ」、「社会が”我”に与えた様々な意味」、「価値への欲求」「他者への感情」など、
    > 避 けては通れない哲学的な問題の数々が横たわっていると思うわけです。

    同意。

    > そのひとつひとつにたいして、他者の「自我」のかかわりなしに、自身の自我の形成が為された、自我が他者に反応する、とは言えないのではないか。
    > 独我論を強引に、今だけである、表面上の現象だけである、とするのならば、あまりに浅く軽くなってしまうしそうではないのではないか。
    > ということで、他我を認めない独我論は無理があるんじゃないかと考えているということです。

    それはそうでしょうね。自我の形成には他我は必要ですが、それは万人に共通する自我であって〈私〉ではない。
    多分、独房に一人閉じ込め飯だけを与えられていた少女や少年にも〈私〉は成立している。
    この違いは前者は言葉の後に成立する自我であり、後者は言葉に先立って(先言)成立している〈私〉

    > 日常的なテーマとはフィールドが違う、という感覚はわかるし同意できる。
    > ただそのなかで、日常リアルを連想しつつ考察しているという事実もあるのではないだろうか。

    同意。

    > 確かに言語的には限界があるのは同感だけれども、それでも、その限界まで本当にやり切っているかと言えばそうではないと私は考えています。
    > 徹底的に、ここが限界だと一時的にはそう思っても、なんとかして突破口を開いてやろうと。
    > 自己探求の道というベクトルはわかるけれども、私のベクトルはどうしても抽象論化へ向かい、内省的には厳しいところが正直あります。
    > でもそれ は、同床異夢ではなく、異床同夢のようなものかと思っていて、だからパニとのレス交換が有意義なのだとも思う。

    ありがとう!同意です。私にとってもめっちゃ有意義です。

    > 岩波哲学思想事典の「自我」の項目によれば(長文で2000文字以上あるので引用はできないけれど)、西洋哲学の「自我」とインド哲学の「自我」には乖離があって、そのことを今、簡単に知ることが出来る我々は、先学の恩に報いるためにもステップアップした論理を建設していかねばならないのではないだろうか。少なくともその気概だけは持たないと先学に対して礼を失するように思っています。

    確かに。でも風車に挑むドンキホーテになっても結果的には構わないとも思っています。
    言語と論理による見証悟道ってのは、虫取り網で空気を捕まえようとする試みかも(笑)

引用返信/返信 削除キー/
■512 / inTopicNo.96)  Re[5]: 〈私〉について
□投稿者/ パニチェ -(2018/06/24(Sun) 20:38:32)
    2018/06/25(Mon) 21:13:40 編集(管理者)

    以下はdanza_espanolaさんからの返信(2018/6/24, Sun 06:24)

    > 私が考えているのは存在において自他、この場合は〈私〉と他ってことね、存在自体や存在様相が根本的に異なることからして、日常的に認めている他我とは存在様相的には物と同じになる。真の存在と呼べるものは〈私〉しかないから、仮象として認めるみたいなことになるかな。

    言いたいことは分かっているつもり。
    そのうえで質問します。(私も一緒に考えたい)
    「物理的な他人」と「”我”をもった他者」と「他者の”我”自体」、それぞれを相対比較した、パニのいう存在様相的な相違性についての見解を聞きたい。

    >> 他我問題はおくとして、独我論的モードで言えば、すべては表象(カント的表象)になる。
    > 全てというのは〈私〉以外ってことかな?

    ここは深めたい部分でもあるので(深めたい理由もあるので)、メール交換でなく他でやるということであればそちらで応えたい。
    もちろん、メール交換でも全然OKです。

    > これね、ゴウさんのロジックもそうやった。
    > あの人は底が抜けてる(見証)。で、〈私〉は真我であり、真我は上記のようなものらしい。
    > 今回のダンのレスで思い付いたんだけど、〈私〉のいる位置ってのは円錐の先端のような尖ったイメージではなく球面(底)のようなものではないかと閃いた。
    > これってビッグバン宇宙論の特異点を避けるためのモデルと同じになる。球の底ならダンが言うように最終的には球体そのものとなるかもしれん。

    私の拙いロジックがヒントになったのなら嬉しい。
    ここは、「表象」の立体構造を可能とするところだと思う。

    >> ただ、独我論の他我を認めないということについて言えば、意味や価値のすべてを自分自身で創造したという点で無理があると思うんだけどど うだろう。
    > ごめん、ここもうちょっと詳しくお願いします。多分、読み取れてないわ。

    独我論モードにおける表象について、現在にかんする感覚的な実在表象ではなく、
    ここでは、記憶を基にする内側から湧き上がってくる表象のほうを対象にします。
    独我論においても、「自我の成り立ち」「過去の自己と現在の自己との同一性」といった過去との関係は「無かった」とは言えないし。
    「自分のルーツや自分が自分であるというアイデンティティ」、「社会が”我”に与えた様々な意味」、「価値への欲求」「他者への感情」など、
    避 けては通れない哲学的な問題の数々が横たわっていると思うわけです。
    そのひとつひとつにたいして、他者の「自我」のかかわりなしに、自身の自我の形成が為された、自我が他者に反応する、とは言えないのではないか。
    独我論を強引に、今だけである、表面上の現象だけである、とするのならば、あまりに浅く軽くなってしまうしそうではないのではないか。
    ということで、他我を認めない独我論は無理があるんじゃないかと考えているということです。

    > これも同意。独我論は哲学的テーマであって、日常的なテーマとはフィールドが違うんやろね。
    > で、もってさらに純粋な独我論(永井的には“独在論”と呼んでる)は哲学ではなく見証悟道やと思ってるねん。
    > 言語的な追究には限界があり、直観と自己探究の道。

    日常的なテーマとはフィールドが違う、という感覚はわかるし同意できる。
    ただそのなかで、日常リアルを連想しつつ考察しているという事実もあるのではないだろうか。
    確かに言語的には限界があるのは同感だけれども、それでも、その限界まで本当にやり切っているかと言えばそうではないと私は考えています。
    徹底的に、ここが限界だと一時的にはそう思っても、なんとかして突破口を開いてやろうと。
    自己探求の道というベクトルはわかるけれども、私のベクトルはどうしても抽象論化へ向かい、内省的には厳しいところが正直あります。
    でもそれ は、同床異夢ではなく、異床同夢のようなものかと思っていて、だからパニとのレス交換が有意義なのだとも思う。

    >> 他我問題を熟考するためには自我についてもっと深く探究しなくてはならないなと思って、「自我とは何か」を新たに考え始めています。
    > 哲学と仏教と脳科学が合体するテーマやろね、面白いよ、最も身近で、かつ最も不思議なもの。

    岩波哲学思想事典の「自我」の項目によれば(長文で2000文字以上あるので引用はできないけれど)、西洋哲学の「自我」とインド哲学の「自我」には乖離があって、そのことを今、簡単に知ることが出来る我々は、先学の恩に報いるためにもステップアップした論理を建設していかねばならないのではないだろうか。少なくともその気概だけは持たないと先学に対して礼を失するように思っています。

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