| パニチェさんへ
こんばんは
> 特異点はマッハ的光景の手前にある位置のことで、そこから世界が開闢していることから、物理学の特異点(ビッグバン宇宙論での宇宙の始まる地点〈質量が無限大で空間的には0という物理理論が通用しない特異な点〉)という表現を借りています。<
物理は全然知らないも同然だけど、空間的には0、がおもしろく感じました。
> ピピットさんもマッハ的光景の手前から世界を見ているでしょう?そのことを「そこから世界が開闢しているとか、始まっている」と表現しています。その位置はピピットさんが見ている外的世界(物理的空間内)にはありませんよね?<
見えてるものしか、見えてないです。 対象、しか、『見えて』ない。
> で、物理的空間とは別に言葉で表現できる世界と言葉で表現できない世界を区別する意味で言語空間という言葉を使っています。 > > 「緑の中を走り抜けていく真っ赤なポルシェ」←これは空間内での出来事を言葉で表しているので言語と世界が対応関係にあります(ウィトゲンシュタインの言語に関する写像理論〈言語は世界を映し取ったものであるという考え方で前期の哲学的帰結です。後期にはこれを撤回し、言語ゲームという言語論へと展開します〉)。 > > 言葉で世界を表現しているうちは物理空間と言語空間が重なっているというか対応関係にあります。<
言語で語り得る世界、が、言語空間。
> 〈私〉は世界内での出来事ではないという理由と、<
可視化、可感化、対象側の世界に存在するものではない、〈私・主体〉
>〈私〉はパニチェとピピットさんでは同じものではないので同じ言葉で括られるようなものでないという二つの理由から言葉と対応関係にはならず、言葉で表現できない対象となります。<
概念ではなく、それそのもの、だけが、、、、対象 !!
対象の側に存在してないもの、を、対象にする 自我問題特有の、、、難しさ
> 物理的な内側(内臓とか内臓内とか)ではなく、内的(精神・意識・心)な空間は何人も知ることができないことから私秘性と呼ばれています。<
内的な世界を、空間を伴った世界でイメージされてたのですね
> 私秘性に関することを例えば痛みとか感情は言葉にできているようで正確には言語化できていないことが多いです。一方、客観的(間主観的)な出来事や対象は言語化しやすいということはあるでしょうね。<
お互いに合意できる判断が成立する時、その判断を、言語化して使用する。仏教用語で仮設という概念が思い浮かびます。
> 空間は通常、縦・横・高さで数学的に記述できるものですね。そういう定義からすれば言語空間という表現は不的確ですね、言語で表現できる出来事や世界といういう意味で「言語世界」と表記した方がいいかもしれません。<
空間のない世界。。。
>>真剣に〈私〉を考えようと思うと、こわくなる雰囲気が自分の中にある気がするのですが、 >>パニチェさんは、こわい、という感覚は起きませんか? > > いえ、こわいどころか楽しくもっとも身近であるにもかかわらず最も不思議な対象で興味津々です。 > > 自己を探究することは仏教的なテーマともかぶりますし、科学では脳科学や精神医学、心理学、哲学では認識論、存在論、独我論、現象学、言語論などなどのさまざまなジャンルとも接点があり、探究ツールともなるので面白いです。<
パニチェさんの意見読んで、、、
こわがるの、もったいないな、って思いました。
せっかく、素材があるのだから、
観察してみよう!って思いました。
個人に一素材、必ずついてますね(^ ^) (パニチェさんは、そうは思わないのかな ?)
わたし、って、なんなんかなー? は、わたしも本当のこと、知りたいので、また質問させてくださいね すごくおもしろいです、ありがとうございます
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