| パニさん、周辺的なこともありならば、聞いてみたいことがあります。
〈私〉と言う時、それは人間に限定されるものでしょうか?
最近、蟻にハマっておりまして、蟻に個体としての自分があるのかしら?群れとしての意思統一があるように見えるのだけど、どうやって伝達してるのかしら?となっているのです。 アントマンって映画があって、蟻サイズになって、蟻と一緒に戦うんですけどね、蟻の種類によって「建築する」のです。橋を作るとか立体ビルのようになるとかして、仲間を渡すみたいな。軍隊アリの行進とかですね。イカダを作って水を渡ったりもするのです。 あれが不思議でたまらないのです。「あ、私こっちね!」「んじゃ私は渡る方ね!」ってやってるとは思えないですしねぇ。
そして人間の細胞とアリの群れの共通性も感じるのです。ものすごい数の細胞で人体は出来ていて、多分細胞一つ一つに「自己」な感じがあるとは思うのです。だけど統一した「一つの人体」としての自己免疫機能とかもあるわけで、なんらかのシステム構造によって意思統一的なものがあって(それが暴走したりもしますよね)守ろうとしてる「自己」があるような。
ずっと前に主観と客観の話をしてた時に、ダンさんが「一人でも客観はある!」との主張をなさってて、私の記憶では「客観とは複数見解の統計的な答えであるとの見解によるなら、一人で客観も可能である」との印象が残っているのです。ものすごい数の細胞の集合体としての人間がある時、〈私〉はどこにいるのかな?のイメージですね。
自己とか自我とか私とかの言葉の定義によって、意味がズレまくる話であると思うので、この書き方で伝わるかどうか自信ないんですけど、お時間あるなら、教えてもらえると嬉しいです。
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