| こんにちは
>スルーしてもらっても全然構いませんが、もし興味があれば、Panietzsche Roomの探究というコーナーの「〈私〉の哲学」に掲示板でのやり取りも含めてまとめてあります。
哲学オンチのワタシですので、ご勘弁いただきたいのですが、拝読させていただきました。
> ただ“先言”というのは言葉に先んじて存在するという意味で、(言語の機能からして原理的に)言葉で言い表せない存在です。
第二章の最後に「比類なき先言の私」という表現がありましたね。。ボームの『創造性について 』の26ページの中頃からヘレン・ケラーに関する記載があるんですが、 言葉によって観念が成り立つようですね。つまり思考=自我でしょうか・・・。 そういう観点からいくと(私は哲学オンチですので、ご勘弁願いたいのですが) 「先言の私というのは、自他の区分のない全体としての私と取れるような感じがしています。
それとパ二チェさんの12章で「我思う、故に我あり」に言及なさておりましたね。'Cogito, ergo sum' というのは、ご存じの通りデカルトが自分で書いたものではなく、フランス語の『方法序説』から友人がラテン語や訳し、これもご存知のとおり、ラテン語は主語を省く(特に一人称)ので、直訳すれば「思う ゆえに あり」となります。一方デカルト自身がラテン語で書いた『哲学の原理』には同じ文章ですが、'[Ego] cogito, ergo sum'と)必要ではない、一人称単数のego(まさしくエゴですね)、をわざと挿入しているんです。
ギリシャ語やラテン語に詳しい友人に聞いたところ、egoを入れるのは<私>というものを強調したいときに作為的に使うんだそうです。ですから単に我が思ってこの我があるというスローガン的なメッセージというよりは、この私が考えるから、この私が存在する、逆に言えば思考がなければ、自己は存在しないとも取られ、先に書いた「先言の私というのは、自他のない私」という私の勝手な解釈とつながるのかな・・とか感じました。
言葉が自我、個人を作ったのでしょうか。 それによってホモサピエンスはここまで進化してきたのですから、功罪、両方あるのでしょうか・
>> ユングなんかも「集合的無意識」とか言っていますよね。この辺なんか量子力学か!と思いますもん。
>マクロでは脳という同じ器官を有している者同士であること、ミクロでは量子的もつれってことでしょうね。 >前者のマクロとは、例えば超音波で世界を捉えるコウモリと人間では集合的無意識は生まれようがないが、人間の脳という同一の構造だからこそ生じる集合的無意識というような意味です。
そうですよね。潜在的に人類や、または太陽系外知的生物体とも共有している意識があると思いますが、私たちの脳のつくりでは人間の意識しか共有できない、つまり他は解読できないというようなニュアンスかなと感じました。
>> ヤフーのアバターを思い出してしまうんですが、ダークグラスにくわえタバコ、ギター(持っていましたっけ?ーかなりあやふや)、クラプトンのイメージと重なってしまうような感じでした。
>あははは。覚えてもらっているとは光栄です。 手にもった行灯はニーチェ著「悦ばしき知識 第125番」に登場する狂気の人間。真昼に堤燈行灯をもって「神は死んだ」と群衆の中で騒ぐ狂人と永劫回帰の象徴としての風車を持たせてありました。(笑)
アバター懐かしいです^^。アトリビュート3つお持ちだったんですね。犬はドーベルマンですすか?ニーチェの国ドイツの品種ですよね^^
重複しますが、哲学とは無関係の私ですが、ちょっと感じたことを書かせていただきました。私の失礼がないことを願っています。^^;
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