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No533 の記事


■533 / )  対象化してはならない〈私〉
□投稿者/ Danza Espanola -(2018/07/13(Fri) 00:24:01)
    こんばんは!

    更にこの一週間、〈私〉について自己内議論が佳境に入ってきた感ありです。

    感覚的に「〈私〉は在る」は未だにゼロです。しかし論理からすれば、デカルトの「われ思う故にわれあり」よりも「われ在るが故にわれ思う」の方が存在論として自然ですね。後者の方はわかりやすく誰もが当然に感じるのではないかと思うのです。しかしパニチェさんの言わんとしていることとはズレている、ということも理解しているつもりです。

    「比類なき先言の〈私〉」は、「比類なき〈私〉」と「先言の〈私〉」に分けることができ、永井均さんは前者を主たるテーマ「〈私〉の比類なさ」として考察しているようにうかがえ、パニチェさんは後者を主たるテーマとして考察しているように感じているのですが、間違っていますか。

    当初私はアイデンティティに関連する同一性の問題が関与しているのかなと考えていました。パニチェルームの一部にも若干同一性について触れられている部分がありましたが、これらはいずれも「比類なき〈私〉」のほうだと考えています。こちらの方は一緒くたに考えるよりも一旦横に措かせてもらえませんか。

    「先言の〈私〉」について見えてきたところがあるのです。
    こちらについては、心理学的な同一性の問題は一切なく、純粋な哲学として捉えるべきだと、そういう思いに到りました。

    但し、この文章は間違っているのではないか、もっと良い別の言い方があるのではないかと思うのです。(命名されたキダマサさんには申し訳ないのですが)、というのは、パニチェさん曰く「対象化した時点で〈私〉は変質する」ということを繰り返し強く述べています。

    この一週間十分に悩みました。「先言の〈私〉」の〈私〉はこの文章に於いては対象化されていることに間違いはなく、〈私〉を「A」や「これ」に替えたり、言葉を使わなくても自分を指さすことや頭の中で指し示すことでも、いずれも対象化されます。

    しかしパニチェさんは対象化できないと言う。
    なので私は、パニチェさんの対象化できないという感覚の方を信頼し、「先言の〈私〉」は無視することにしました。つまり対象化しない。〈私〉についても、そうして考えています。こちらは対象化してはならないというレベルです。但しこの場では〈私〉を使用します。

    先レスにあった「object」については改めまして次のレスまたは次の次のレスで明らかにします。


    ところで確認なのですが、岩波哲学思想事典の「自己」の項目に書かれている次のウィトゲンシュタインの言説にパニチェさんは同意または同感しますか?

    【ウィトゲンシュタインは、『私が見出した世界』という本が書かれていたとすれば、まさに知覚し表象している「私」はここには言及されえない、と述べている。】

    私は、おそらく二週間前ではまったく理解不能で同意できなかったのですが、ここにきて論理的に腑に落ちました。同意します。完全に。


    >質問ばかりで申し訳ないのですが「誕生日ごとに経験する、他人には理解できそうもない純粋認識の体験」はどのようなものか、よかったら教えて下さい。

    これについては固有体験的なものと認識していて、例えば「私は左脳と右脳を分断し右脳だけで世界を感じとるようなことが意図的にできる」といった、たぶんパニチェさん的には有り得ないことでしょうし、つまり私にとって〈私〉を感覚することができないことと同じなので、論理的に私自身が説明できるようになってからにしようと思いますが、どうでしょうか?


    > 議論しようとすればその部屋か出す必要があります。一人部屋にいつだけでは議論にあなりません。
    > 但し、その部屋から出れば対象は変質します。対象は誰も立ち入れないその部屋空間そのものと言ってもいいかもしれなせん。それを暗黙の了解とすれば議論は可能です。

    趣旨については了解しました。


    > いえ、同じです。で、私が一人で考える時も気付かぬうちに先にあったような変質した対象になっている場合がありませ。
    > そして原点に戻したりしています。必ず論理や言語にすれば、それは他者との会話に限らず行ったり戻ったりします。

    同意していただき、ありがとうございます。
    「〈私〉という哲学」の大きな目的の前では、あらゆる論、思想哲学は方法論(大事の前の小事)として手段化して良いというふうに捉えて良いでしょうか。



    > 後回しにすること了解しました。〈私〉が消えるということろがまだ私には理解できていません。
    > 但し、藤田一照、 永井均、山下良道の共著「〈仏教3.0〉を哲学する」はこのテーマ(無我と〈私〉)に挑んでます。
    > 永井氏が合意したのか、それとも社交辞令も兼ねてペンディングとしたのかさえも私にはよく分かりませんが、藤田氏と山下氏は得心しているようdす。

    ここについては、意識の開闢からの演繹仮説のほうは何となく出来てるんですよ。しかし掘り下げる帰納がうまくできません。〈私〉が消えて、何段階かを経て純粋意識にまで実感として到達できるとすれば、ものすごい修行だと思います。藤田さんと山下さんはそこまで見性したのかもしれないですね。


    > 全然、問題ありませんし、むしろそれらも含めて議論を深めていきたいとおもいます。
    > 実際、私の誤りにも気付けたわけですし。^^

    ありがとうございます。
    パニチェさんも率直に真摯に認めてくださって、さすがだなと思いました。

    私も空中をすっ飛んで暴走することが多々ありますので、ぜひ直截にご指摘ください。もともと持論にはまったくこだわりなく簡単に撤回しますので。(※己れの美学にかんすることは除きますが)


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