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■4614 / inTopicNo.73)  Re[15]: 〈私〉について 11
  
□投稿者/ パニチェ -(2020/07/27(Mon) 12:20:15)
    2020/07/27(Mon) 12:23:04 編集(投稿者)

    No4613に返信(minoriさんの記事)
    > 早速にありがとうございます。


    > >>マッハの図を今、minoriは今、思い出しています。
    > >>仕組み的には、マッハさんと同じ仕組みでminoriも世界を観ています。
    > >>というところまで合ってますよね?

    >>そうです。マッハ的光景と、それを客体として描いた眼の図を常に念頭にして下さい。

    > はい。

    > >>上のパニチェさんの文中にある「私秘性」ですが、これは、「私にしかわからないこと」という意味でいいですか?

    >>はい。内的世界とか、単純に心の中とかそういう理解で結構です。
    >>あのマッハ的光景の手間にある世界を見ている意識とか主体のことです。

    > 「私秘性」というのは、手前にある世界を見ている意識とか主体のこと、なんですね。

    そうです。

    > つまり。 「私秘性」=〈私〉(の、一つの特徴である)でいいですか?

    そこはまだ考えないで下さい。
    〈私〉というのは置いて下さい。
    そこを考えずに、先のレスに合点がいくかどうかだけで考えてみて下さい。
    よろしくお願いしまます。

    マッハ的光景は一番初めの投稿に添付しておきました。
引用返信/返信 削除キー/
■4613 / inTopicNo.74)  Re[14]: 〈私〉について 10
□投稿者/ minori -(2020/07/27(Mon) 12:15:30)
    早速にありがとうございます。


    >>マッハの図を今、minoriは今、思い出しています。
    >>仕組み的には、マッハさんと同じ仕組みでminoriも世界を観ています。
    >>というところまで合ってますよね?
    >
    > そうです。マッハ的光景と、それを客体として描いた眼の図を常に念頭にして下さい。

    はい。

    >>上のパニチェさんの文中にある「私秘性」ですが、これは、「私にしかわからないこと」という意味でいいですか?
    >
    > はい。内的世界とか、単純に心の中とかそういう理解で結構です。
    > あのマッハ的光景の手間にある世界を見ている意識とか主体のことです。


    「私秘性」というのは、手前にある世界を見ている意識とか主体のこと、なんですね。
    つまり。 「私秘性」=〈私〉(の、一つの特徴である)でいいですか?
引用返信/返信 削除キー/
■4612 / inTopicNo.75)  Re[13]: 〈私〉について 10
□投稿者/ パニチェ -(2020/07/27(Mon) 12:06:13)
    2020/07/27(Mon) 12:18:11 編集(投稿者)

    こちらこそ、真摯な返信をありがとうございます。

    No4611に返信(minoriさんの記事)
    > パニチェさん、レスありがとうございます。
    > 以下の部分に特化して、先に理解したほうが良いという気がするので、抜き出しました。

    了解です!^^

    > >自分以外の人が存在しているかどうか分からないという話ではなくて。。。^^;

    > >minoriさんの直接経験(マッハ的光景)から知りうることは、他者にも私秘性があるかどうかは直接知り得ないので(不可知)、私秘性を伴った自分のような存在は直接的には自分しか知らない。世界はそういう起点から広がっているという意味で独我論であるということですが、如何でしょうか?

    > >あの眼の図をイメージして下さい。あの図は万人に共通する図ではなくて、minoriさん自身の図です。minoriさんの眼から見た世界にはminoriさんの私秘性が含まれていないのと同様に、他者の(あるかもしれない)私秘性も含まれていません。世界に含まれているのは他者の身体性や声や匂いなどなどだけです。よってminoriさんが知っているのは私秘性を伴ったminoriさんだけで、そういう人間はminoriさんはminoriさんしか知り得ないということです。

    > マッハの図を今、minoriは今、思い出しています。
    > 仕組み的には、マッハさんと同じ仕組みでminoriも世界を観ています。
    > というところまで合ってますよね?

    そうです。マッハ的光景と、それを客体として描いた眼の図を常に念頭にして下さい。
    このトピの一番初めの投稿に添付しておきました。
    トピック表示をクリックして、このトピをクリックしてもらうと、一番上に [ 親記事をトピックトップへ ] というのが表示されます。
    そこをクリックすれば一番最初の投稿が見れます。

    > 上のパニチェさんの文中にある「私秘性」ですが、これは、「私にしかわからないこと」という意味でいいですか?

    はい。内的世界とか、単純に心の中とかそういう理解で結構です。
    あのマッハ的光景の手間にある世界を見ているminoriさんの意識とか主体のことです。
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引用返信/返信 削除キー/
■4611 / inTopicNo.76)  Re[12]: 〈私〉について 9
□投稿者/ minori -(2020/07/27(Mon) 12:01:35)
    パニチェさん、レスありがとうございます。

    以下の部分に特化して、先に理解したほうが良いという気がするので、抜き出しました。


    >自分以外の人が存在しているかどうか分からないという話ではなくて。。。^^;

    >minoriさんの直接経験(マッハ的光景)から知りうることは、他者にも私秘性があるかどうかは直接知り得ないので(不可知)、私秘性を伴った自分のような存在は直接的には自分しか知らない。世界はそういう起点から広がっているという意味で独我論であるということですが、如何でしょうか?

    >あの眼の図をイメージして下さい。あの図は万人に共通する図ではなくて、minoriさん自身の図です。minoriさんの眼から見た世界にはminoriさんの私秘性が含まれていないのと同様に、他者の(あるかもしれない)私秘性も含まれていません。世界に含まれているのは他者の身体性や声や匂いなどなどだけです。よってminoriさんが知っているのは私秘性を伴ったminoriさんだけで、そういう人間はminoriさんはminoriさんしか知り得ないということです。

    マッハの図を今、minoriは今、思い出しています。
    仕組み的には、マッハさんと同じ仕組みでminoriも世界を観ています。
    というところまで合ってますよね?

    上のパニチェさんの文中にある「私秘性」ですが、これは、「私にしかわからないこと」という意味でいいですか?
引用返信/返信 削除キー/
■4608 / inTopicNo.77)  Re[11]: 〈私〉について 9
□投稿者/ パニチェ -(2020/07/27(Mon) 09:47:05)
    2020/07/27(Mon) 11:39:21 編集(投稿者)

    minoriさん、レスありがとうございます。

    No4605に返信(minoriさんの記事)
    > パニチェさん、レスありがとうございます。
    > 観照について書いた部分がコピーから欠落してしまったので、投稿の最後に付け加えます。

    了解しました。

    > >上記の意味において5と6について、minoriさん自身のことを考察すれば同意できますか?それとも違和感がありますか?

    > なにか違和感は感じるのですが、それをどう表現したらいいのかはわからないんですよね。。。
    > 直感的に感じる違和感があるのだけど、すみません。今のところ無理です。

    分かりました。また途中で違和感を表現できる言葉が見つかればカキコして下さい。
    戻って考えましょう。^^

    No4606に返信(minoriさんの記事)
    > >> >7.厳密に言えば私の直接経験で知り得る世界に存在しているのは物や人(物体としての)など五感(視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚)で知りうるものだけであり、その意味では私のような人間は直接的には私しか知らず、独我論的な世界である→ウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」のひとつのテーマである独我論。

    > >> 五感を通じて知りうるものは人によって違う。
    > >> なので、その意味で、私のような人間は直接的には私しか知らない。
    > >> そのようなことですか?

    > >上記のレスの前半は「超リアル探究」なので、人によって違うかどうかは不可知です。
    > 「直接経験」として私のような人間は私しか知らないということであれば、その通りですが、どうでしょうか(あの眼の図をイメージして下さい。あれは万人に共通する図ではなくminoriさんのみの図として考えて下さい。何故なら、あの図の眼から見えている世界には他者の身体は含まれていますが、他者の私秘性はminoriさんの私秘性が世界に含まれないように含まれません。)。

    > とてもざっくりしたことを言います。
    > 自分以外の他者が存在しているかどうかもわからない、というような話ですか?
    > すみません、よくわからないんです。

    自分以外の人が存在しているかどうか分からないという話ではなくて。。。^^;
    minoriさんの直接経験(マッハ的光景)から知りうることは、他者にも私秘性があるかどうかは直接知り得ないので(不可知)、私秘性を伴った自分のような存在は直接的には自分しか知らない。世界はそういう起点から広がっているという意味で独我論であるということですが、如何でしょうか?

    あの眼の図をイメージして下さい。あの図は万人に共通する図ではなくて、minoriさん自身の図です。minoriさんの眼から見た世界にはminoriさんの私秘性が含まれていないのと同様に、他者の(あるかもしれない)私秘性も含まれていません。世界に含まれているのは他者の身体性や声や匂いなどなどだけです。よってminoriさんが知っているのは私秘性を伴ったminoriさんだけで、そういう人間はminoriさんはminoriさんしか知り得ないということです。

    「〈仏教3.0〉を哲学する U」で他者問題が未解決なままなのは、こういうところなんですが。。。

    > >PS.次はいよいよ言語で語れない部分について伝える試みに突入しようと思っていますが、>先を急がず一歩一歩、場合によっては立ち止まったり、戻ったりしつつ、できるだけ共通認識をはかりたいと思います。
    > >ちなみに「私」が〈 〉付な理由は非言語的、または言語に先んじる(アプリオリな)存在であるためです。
    > >そんな訳で、先の唯一無二性も含め「比類なき先言の〈私〉」とパニチェは呼んでいます。

    > ・・・
    > >ちなみに「私」が〈 〉付な理由は非言語的、または言語に先んじる(アプリオリな)存在であるためです。
    > ・・・
    > ↑この部分についてはわかります。

    すみません。正直言いますね。パニチェはまだminoriさんが理解しているとは思えないのです。
    でも、参考までにminoriさんがどのように、または何故〈私〉は非言語的、または言語に先んじると考えているか、言葉に表現できる範囲で教えてもらえれば有難いです。

    > またとてもざっくりとしたことを言います。
    > なぜ、特異な存在である「私」 (〈私〉ではなく)が存在している、ということが不思議に思えるのかが、逆に私には不思議にも思えるのです。
    > 犬や猫も性格はそれぞれだし、考え方(単純なものでしょうけど)も違いそうです。
    > なので人間がそれぞれ違う、というのの何が不思議なのか、私には理解できません。
    > もしかすると、このようなこととは関係ないことをパニチェさんは話されているのかもしれませんが、ここはひとつ、私も思うところをはっきりと書いたらロムしている人にとってもおもしろいのではないか、と思い、そうしました。

    ロムしているかもしれない人のことも考え、率直な感想を述べていただいたことには感謝です。

    > こいつアホすぎてつきあいきれない、と思われたらいつでも中止してくださいね。^^

    いえいえ、とんでもない。まだ〈私〉の説明の半分にも来てないのです。富士山で言えば4合目くらいです。^^
    minoriさんが理解が乏しいのではなくて、説明の半分以上がまだなされてないからだとパニチェは思います。
    時期尚早ってことです。おそらく〈私〉が分かったとminoriさんが考えているから、「何故、不思議なのか」分からないのだとパニチェは判断しています。

    先のminoriさんの回答にもよりますが、おそらく〈私〉が分かったという判断を一旦、棚上げにしてもらって、もっとも難解というか伝えにくい非言語的な部分の説明を終えてから、「人間がそれぞれ違う、というのの何が不思議なのか、私には理解できません」という判断をいただければ有難いです。

    もし、まどろっこしいとか、面倒くさいということであれば、これまでとしますが、如何でしょうか。
    次に進むには上記の独我論的な部分に合意いただけるかどうか、それに加えて多分「〈私〉が分かった」というところを破棄または棚上げしてもらう必要があると思います。

    >  抜けてしまった「観照」についてです。
    > 非二元で「観照」というのは、主客未分であることが実感となる前段階の観方になります。
    > 主客未分であるということが確認されている状態を「純粋意識」というふうに哲学者であり非二元を教えている欧米人の人が呼んでいます。
    > こちらでもその呼び名(純粋意識)を、主客未分を表すものとして、使用しますね。

    了解しました。
    純粋経験と直接経験と似てますが、よろしくお願いします。
    今、レス交換している起点となるのは、マッハ的光景の直接経験の方です。^^

引用返信/返信 削除キー/
■4607 / inTopicNo.78)  Re[16]: 〈私〉について 8-4
□投稿者/ パニチェ -(2020/07/27(Mon) 08:52:07)
    2020/07/27(Mon) 09:06:02 編集(投稿者)

    時さん、おはようございます。レスありがとうございます。

    No4595に返信(時さんの記事)
    >>原始仏教も諸説あるようですが、主とした教説では輪廻転生の主体について、どのように説かれているのでしょうか。

    > ある種の見解を持つことは、仏教では禁忌なのですが、あえてお答えしますと輪廻転生するのは「識」ですね。識とは、六識身の事で、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の6つです。総合して識・・同一で不異な識が転生するといった意味合いではなくて、識別(作用)するので識と表現したようです。
    > 識が母胎に入ります。そして識という縁により名色があります。このことは、ご存じの十二支縁起の一部ですね。十二支縁起(無明・諸行・識・名色・六処・触・受・渇愛・取・有・生・老死)の一部(3番目と4番目)です。これは、長部15経「大因縁経」に記載があります。
    > そして、相応部蘊篇蘊相応長老品には、自刃したヴァッカリの識を探し回る悪しき魔が描かれていますね。(ヴァッカリは般涅槃しましたので、識がどこにも存在しません=輪廻転生しません)
    > 同じく、相応部有偈篇悪魔相応第三品のゴーディカも同じような光景が描かれています。
    > しかし、「輪廻するのは識です。」という見解は邪見に分類されると思いますので、中道の一つの意味でも、あまり思い込まれないほうが良いと思います。
    > 相応部因縁篇因縁相応食品に記載がありますが、カッチャーナに対して両極端へは近づかず、中(道)によって、如来は法を教示します。とありますので、転生するのは識である(1つの極端)という見解(邪見)には偏られないほうが良いように思います。

    ありがとうございました。大変よく分かりました。
    知識としては保持しつつ(十四無記を支持しておりまあすので)断見、常見に偏らないように気をつけます。

    > なにかお話をぶった切ってしまったようで申し訳ありません。今までのお話をお続けいただければと思います。楽しみにしています。

    全然、そんなことないですよ。^^

    > 暫くロムに戻りたいと思います。横レスを失礼しました。

    返信はお気遣いなく。
    いつでも気が向かれましたら、どんなことでも(トピズレの内容でも全く構いません^^)レス下さい。


    No4599に返信(時さんの記事)
    >>これは私の想像も入ってますが、阿頼耶識は無我と輪廻転生の整合性のための教義でもあると思われます。
    >>唯識の八識説は後世の仏弟子や高僧が無我であるなら輪廻転生する主体とは何か?という問いに対する答えと、我の細部に至る仕組みや分析を学究と修行の成果によってまとめた論書であると考えます。

    > パニチェさんのご認識は了解しました。下記は原始仏典での記述です。
    > 六識身があります。眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識です。(中部9経「正見経」)
    > 「識、識」と言われますが、何をもって識と言われるのでしょうか?「それは識別する、それは識別する」ということから識と言われます。しかし、何を識別するのでしょうか。「楽である、苦である、非苦非楽である」と識別するのです。このことから識と言われるのです。(中部43経「大有明経」)

    時さんは興味ないとは思いますが、私の想像というのも頼りないので、私自身の後学のため唯識(八識説)のルーツを調べてみました。

    『我という形而上学的原理を想定しないという点では、説一切有部は仏教本来の立場に忠実であった。しかし、経典の中には、なんらかの意味において、我に類する原理を想定するような思想も表明されていたし、小乗諸派のなかには、このような思想傾向を発展せしめたものもある。すなわち小乗諸派では有情の輪廻を認めたから、輪廻の主体を想定せざるをえず、しかし、仏教は無我説であるから、ただちに実体としてのアートマンを認めることもできない。そこで、我とは異なるが、それと類似したなんらかの輪廻の主体を想定した。そうして、それによって生存主体(有情)の連続、因果応報の可能なるゆえんを説明しようとした。(中村元選集第20巻「原始仏教から大乗仏教へ」P.118)』

    『ある所伝によると、大衆部の経典の中には根本識というものが説かれ、化地部はこれを名づけて<窮生死蘊>と呼び、また正量部は<果報識>、上座部は<有分識>というものを立てたという。ともかく、このような思想にもとづいて後の唯識哲学においてはアラーヤ識という原理が想定されるにいたったのである。(同書P.120)』

    そんなに間違ってなかったみたいです。^^
    少し補足しますと、原始仏教では非我(我ならざること)を立てていたので輪廻の主体は識としても矛盾は生じなかった。ところが説一切有部をはじめ大乗にいたる諸派はアートマンを否定する無我(我を有せざること)を立てたために新たな輪廻の主体を想定せざるをえなくなったのだと思われます。

    > これらの記述があるのに、大乗の高僧が輪廻の主体は?という問いに対して、あと2つを足してしまっていますね。(唯識の八識説)先程の投稿のとおり、特段拘りはありませんが、仏陀の教えでは識が輪廻するという意味合説いの事が書かれています。
    > 識とは六識身の事であり、識別作用の事ですね。
    > これで大乗の高僧は、法灯明を守れているのでしょうか?この場合の法灯明の法とは、「六識」であり、「八識」ではないように思います。この時点で仏陀の教えは変形していますね。(原始仏典が本当に仏陀の教えが記載されているのならですが)

    大方のところ同意します。
    私の基本的なスタンスは対機説法の名人であった釈尊は説法される側の機根にあわせたさまざまな喩話を用いて法を説いたため、多くの仏典が残っているのだと思っています。

    八万四千の法門を認め、法門や仏典に深浅高低を認めることは「宗派の争い釈迦の恥」であり、まして当時は全ての仏典が一か所に揃っていたわけでもなく、ご存知のように南伝と北伝では伝えられた仏典もかなり異なったいたこと、釈尊の滅後行われた結集は約400年くらいは口伝によるものであったことなどなどを考えた場合、それぞれの仏弟子や高僧が釈尊の教えをもとに学究や修行によって体得した智慧でもって足りないところを補足したのではないか、また上座部が大衆から離れ学究と修行を主としたため、仏法を大衆のための教えとして取り戻すため新たに編集されたものが大乗仏典や論書であったのではないかと考えています。

    よって生に伴う苦を軽減される教説で仏教の根本である煩悩を滅するベクトルを有する教説は外道ではなく仏道であると考えています。

    仏教を釈尊のみの教えと捉えると大乗非仏となり、神格化された釈尊を主とした大乗仏典と初期仏典との違いがあまりにかけ離れていることから(大乗非仏論は)もっともだとは思いますが、一方で、仏教を釈尊を起点とし、後世の仏弟子や高僧によって完成されたひとつの大系(仏法)で説かれる教義(仏教)だとも考えています。

    自身の機根に合わせてさまざままに用意された乗り物や道のりを選択し、山頂である涅槃寂静を目指して歩む道が仏道(仏修行)であると考えています。

引用返信/返信 削除キー/
■4606 / inTopicNo.79)  Re[10]: 〈私〉について 8
□投稿者/ minori -(2020/07/27(Mon) 08:22:33)
    >> >7.厳密に言えば私の直接経験で知り得る世界に存在しているのは物や人(物体としての)など五感(視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚)で知りうるものだけであり、その意味では私のような人間は直接的には私しか知らず、独我論的な世界である→ウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」のひとつのテーマである独我論。

    >> 五感を通じて知りうるものは人によって違う。
    >> なので、その意味で、私のような人間は直接的には私しか知らない。
    >> そのようなことですか?

    >上記のレスの前半は「超リアル探究」なので、人によって違うかどうかは不可知です。
    「直接経験」として私のような人間は私しか知らないということであれば、その通りですが、どうでしょうか。

    とてもざっくりしたことを言います。
    自分以外の他者が存在しているかどうかもわからない、というような話ですか?
    すみません、よくわからないんです。

    >PS.次はいよいよ言語で語れない部分について伝える試みに突入しようと思っていますが、>先を急がず一歩一歩、場合によっては立ち止まったり、戻ったりしつつ、できるだけ共通認識をはかりたいと思います。
    >ちなみに「私」が〈 〉付な理由は非言語的、または言語に先んじる(アプリオリな)存在であるためです。
    >そんな訳で、先の唯一無二性も含め「比類なき先言の〈私〉」とパニチェは呼んでいます。

    ・・・
    >ちなみに「私」が〈 〉付な理由は非言語的、または言語に先んじる(アプリオリな)存在であるためです。
    ・・・
    ↑この部分についてはわかります。

    またとてもざっくりとしたことを言います。
    なぜ、特異な存在である「私」 (〈私〉ではなく)が存在している、ということが不思議に思えるのかが、逆に私には不思議にも思えるのです。
    犬や猫も性格はそれぞれだし、考え方(単純なものでしょうけど)も違いそうです。
    なので人間がそれぞれ違う、というのの何が不思議なのか、私には理解できません。
    もしかすると、このようなこととは関係ないことをパニチェさんは話されているのかもしれませんが、ここはひとつ、私も思うところをはっきりと書いたらロムしている人にとってもおもしろいのではないか、と思い、そうしました。

    こいつアホすぎてつきあいきれない、と思われたらいつでも中止してくださいね。^^


     抜けてしまった「観照」についてです。
    非二元で「観照」というのは、主客未分であることが実感となる前段階の観方になります。
    主客未分であるということが確認されている状態を「純粋意識」というふうに哲学者であり非二元を教えている欧米人の人が呼んでいます。
    こちらでもその呼び名(純粋意識)を、主客未分を表すものとして、使用しますね。
引用返信/返信 削除キー/
■4605 / inTopicNo.80)  Re[10]: 〈私〉について 8
□投稿者/ minori -(2020/07/27(Mon) 08:16:34)
    パニチェさん、レスありがとうございます。
    観照について書いた部分がコピーから欠落してしまったので、投稿の最後に付け加えます。

    >ちなみに「私」が〈 〉付な理由は非言語的、または言語に先んじる(アプリオリな)存在であるためです。
    >できれば常にminoriさん自身のこととして考察いただければ有難いです。
    非言語的な〈私〉を伝えるためのレス交換になった時は尚更、パニチェのこととしてではなく、minoriさん自身のことと置き換えて考察してもらう方が分かりやすいと思います。

    パニチェさんのおっしゃる〈私〉とは、どういうものなのだろう?が知りたく、話しかけたというのが最初ですので、まずそれを確認させていただくというのがどうしても来ます。
    番号をつけて説明していただいたもので、なんとなくはイメージが出来つつはある感じがします。

    >余談ですがパニチェは20年近く前から〈私〉が位置するところを「特異点」と表現してました。
    >一般相対性理論をベースとしたビッグバン宇宙論では、宇宙の始まりにまで時間を遡って考察すると宇宙が開闢する地点が大きさセロの質量無限大となる物理法則が通用しない特異点が出てきてしまい、そこから先に進めなくなります。

    >宇宙が開闢すること、他の場所にはないような特異な点というのが似ているので〈私〉が位置する場を「哲学的な特異点」として用いてましたが、なんと永井氏もいつからか著書で「特異点」という言葉を用いるようになりました。
    なんと偶然の一致かどうか分かりませんが、驚かされました。^^

    それはすごいですね。^^

    >> >5.〈私〉が存在する地点は他の如何なる物や人などが並び立てない(何物も誰もいない、>>>またはこの地点には〈私〉を除いて存在できない)→唯一無二の比類なき存在。

    >> なるほど。それが唯一無二の比類なき存在である根拠になるのですね。
    > >なんとなくかもしれませんが理解できたと思います。

    >> >6.他者もこのように世界が見えており、私と同じような主体または意識が同じような地点に位置しているはずであるが、それはあくまでも私の想像や類推であり、直接知ることはできない(私秘性)。

    >> 哲学的な在り方として厳密に考えられるのですね。

    >パニチェは哲学について広義(仏教などの東洋哲学的教義や、脳科学や量子力学、相対論などの科学哲学的要素も含む思惟)に考えており、それぞれのフィールドというか文脈によって言説も多少変わります(柔軟性を持ちます)。

    >初めに共通認識をはかっておくべきでしたが、今やってるのはデカルトの方法的懐疑のような探究、つまり私が直接知りえる最も確たる存在にして、最も身近にして根源的かつ疑いようがない存在、即ち自己を(日常的な感覚や常識、慣習や少しでも不確かなものを一旦はペンディングして=エポケー〔フッサール現象学でも出てきます〕)探究する場であり、道具は「直接経験」と「論理」のみとします。
    ※長いので上記を省略して、以下この探究を「超リアル探究」と呼びます。

    >上記の意味において5と6について、minoriさん自身のことを考察すれば同意できますか?それとも違和感がありますか?

    なにか違和感は感じるのですが、それをどう表現したらいいのかはわからないんですよね。。。
    直感的に感じる違和感があるのだけど、すみません。今のところ無理です。


    (次の投稿に続きます。)

引用返信/返信 削除キー/
■4599 / inTopicNo.81)  Re[15]: 〈私〉について 8-3
□投稿者/ 時 -(2020/07/27(Mon) 01:18:39)
    失礼しました。追記です。

    > これは私の想像も入ってますが、阿頼耶識は無我と輪廻転生の整合性のための教義でもあると思われます。
    > 唯識の八識説は後世の仏弟子や高僧が無我であるなら輪廻転生する主体とは何か?という問いに対する答えと、我の細部に至る仕組みや分析を学究と修行の成果によってまとめた論書であると考えます。

    パニチェさんのご認識は了解しました。下記は原始仏典での記述です。

    六識身があります。眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識です。(中部9経「正見経」)

    「識、識」と言われますが、何をもって識と言われるのでしょうか?「それは識別する、それは識別する」ということから識と言われます。しかし、何を識別するのでしょうか。「楽である、苦である、非苦非楽である」と識別するのです。このことから識と言われるのです。(中部43経「大有明経」)

    これらの記述があるのに、大乗の高僧が輪廻の主体は?という問いに対して、あと2つを足してしまっていますね。(唯識の八識説)先程の投稿のとおり、特段拘りはありませんが、仏陀の教えでは識が輪廻するという意味合いの事が書かれています。

    識とは六識身の事であり、識別作用の事ですね。

    これで大乗の高僧は、法灯明を守れているのでしょうか?この場合の法灯明の法とは、「六識」であり、「八識」ではないように思います。この時点で仏陀の教えは変形していますね。(原始仏典が本当に仏陀の教えが記載されているのならですが)
引用返信/返信 削除キー/
■4595 / inTopicNo.82)  Re[14]: 〈私〉について 8-3
□投稿者/ 時 -(2020/07/26(Sun) 23:39:43)
    パニチェさんへ

    返信をありがとうございます。

    > 原始仏教も諸説あるようですが、主とした教説では輪廻転生の主体について、どのように説かれているのでしょうか。

    ある種の見解を持つことは、仏教では禁忌なのですが、あえてお答えしますと輪廻転生するのは「識」ですね。識とは、六識身の事で、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の6つです。総合して識・・同一で不異な識が転生するといった意味合いではなくて、識別(作用)するので識と表現したようです。

    識が母胎に入ります。そして識という縁により名色があります。このことは、ご存じの十二支縁起の一部ですね。十二支縁起(無明・諸行・識・名色・六処・触・受・渇愛・取・有・生・老死)の一部(3番目と4番目)です。これは、長部15経「大因縁経」に記載があります。

    そして、相応部蘊篇蘊相応長老品には、自刃したヴァッカリの識を探し回る悪しき魔が描かれていますね。(ヴァッカリは般涅槃しましたので、識がどこにも存在しません=輪廻転生しません)

    同じく、相応部有偈篇悪魔相応第三品のゴーディカも同じような光景が描かれています。

    しかし、「輪廻するのは識です。」という見解は邪見に分類されると思いますので、中道の一つの意味でも、あまり思い込まれないほうが良いと思います。

    相応部因縁篇因縁相応食品に記載がありますが、カッチャーナに対して両極端へは近づかず、中(道)によって、如来は法を教示します。とありますので、転生するのは識である(1つの極端)という見解(邪見)には偏られないほうが良いように思います。

    なにかお話をぶった切ってしまったようで申し訳ありません。今までのお話をお続けいただければと思います。楽しみにしています。

    暫くロムに戻りたいと思います。横レスを失礼しました。
引用返信/返信 削除キー/
■4587 / inTopicNo.83)  〈私〉について 8-3 時さんへ
□投稿者/ パニチェ -(2020/07/26(Sun) 22:41:12)
    2020/07/26(Sun) 22:45:45 編集(投稿者)

    レスありがとうございます。

    No4575に返信(時さんの記事)
    > 初めまして。よろしくお願いします。

    こちらこそ、よろしくお願いします。

    > 失礼しました。私が学びましたのは、仏教では原始仏教のみで約4000経典ほどになります。が、現在では、言葉としてはほとんど忘れかけています。その中でいうのであれば、神は梵天(大梵天)ですね。その世界は、天界、梵天界となると思いますが、これは言葉を言い換えているだけで、近代のインド聖者の表現として「真我」や「それ」なんていう表現もされているようですね。そしてその世界では、通常使っている「私」は、エゴなんていう表現でもされていますが、そのエゴに対しては自我が対比され、その境界はスペクトラム状であり、境目はないという説明をされていたように記憶しています。そして最終的に残るのは「真我・それ」等々だという理解です。そういった意味では、真我でもよいと思います。「あなたは真我である」ということですね。

    原始仏典を学ばれたということですね。いろいろ教えていただきたいことがあります。
    4000経典を学ばれたということですか?
    ちなみに私は中道、四諦八正道、十四無記、自洲・法洲、相依性縁起を指針としています。大乗仏教では道元禅師に興味があります。仏教は信仰というより東洋哲学とか生の指針として独学しております。
    神は梵天(大梵天)ということだったんですね。教えていただきありがとうございます。

    > 私は大乗仏教は学んではいません。少し学んだのは龍樹の空だけでしょうか。大乗の世界を学びだすと、果てしなく思考の世界が続いてしまうように思えるからです。もともとは仏陀の教えがあり、その後大乗ができ、その世界で空海や親鸞や・・とその思考の世界が広がりますので、それらを総合して仏教とは何か?を考えるのは、どうも私の性には合わなさそうです。簡単に表現しますと、仏教の原点は仏陀の教えであり、それは何を言っていたのかを学ぶのであれば原始仏典で十分だと言う認識です。(そこには、阿頼耶識も無自性空も出てきませね)

    > 阿頼耶識
    > 阿頼耶識は、大乗仏教の瑜伽行派独自の概念であり、個人存在の根本にある、通常は意識されることのない識のこと[2]。アーラヤ識[2]。眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識・末那識・阿頼耶識の8つの識の最深層に位置するとされる[2][注釈 1]。

    これは私の想像も入ってますが、阿頼耶識は無我と輪廻転生の整合性のための教義でもあると思われます。
    唯識の八識説は後世の仏弟子や高僧が無我であるなら輪廻転生する主体とは何か?という問いに対する答えと、我の細部に至る仕組みや分析を学究と修行の成果によってまとめた論書であると考えます。
    原始仏教も諸説あるようですが、主とした教説では輪廻転生の主体について、どのように説かれているのでしょうか。

    > 例えば上記は、wikiでの記載ですが、ご存じだと思いますが、原始仏典では、例えば中部9経「正見経」には、六識身として眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識の6つが説かれているだけですね。そしてこれが大乗になりますと、瑜伽行派独自の概念として阿頼耶識等も含めた8つに分類していきます。・・これはもともとの仏陀の教えにはない教えですね?
    > 同時に、仏教の原点は、衆生済度の教えではなく、個々人を速やかに苦の滅尽に導くのが仏陀の教えの原点だと思っていますので、全く否定するわけではありませんが大乗とは私は相性が良くないようです^^

    なるほど。了解しました。^^

    > そういった意味で仏教は哲学ではないと思いますので、そこで「私とは何か?」等の事柄(定義)は説かなかったのだと思っています。きっと無記に分類されるのでしょう。

    同意です。

    > ですので比類なき<私>を表現するのであれば、「世界、観照、気づき、真我、神、意識、それ、」等々、探究者ご本人が納得できるものでよいのではないかと思います。これらの表現しているものは、きっと一元の同じものを表現している思うからです。
    > 私自身があまりお話の流れが見えていないようにも思えますので、お話がずれていたら申し訳ありません。

    いえ、とんでもありません。これからのminoriさんやおくったがわさんとのレス交換内容で「世界、観照、気づき、真我、神、意識、それ、」等々と「比類なき先言の<私>」が同義であるか否かは、また判断いただければと思います。
    正直言いますと、現段階で私は多少の違和感はあります。^^

    > ご丁寧なご返信をありがとうございました。

    こちらこそ、真摯なレスをありがとうございました。

引用返信/返信 削除キー/
■4575 / inTopicNo.84)  Re[12]: 〈私〉について 8 パニチェさんへ
□投稿者/ 時 -(2020/07/26(Sun) 18:44:55)
    初めまして。よろしくお願いします。

    > 仏教を学ばれているということですが、上記を法(ダルマ)とか仏性と呼ばずに神と呼称する理由というのはどのへんから来ますか?大乗仏教で言うところの神は天部になると思われるのですが。。。

    失礼しました。私が学びましたのは、仏教では原始仏教のみで約4000経典ほどになります。が、現在では、言葉としてはほとんど忘れかけています。その中でいうのであれば、神は梵天(大梵天)ですね。その世界は、天界、梵天界となると思いますが、これは言葉を言い換えているだけで、近代のインド聖者の表現として「真我」や「それ」なんていう表現もされているようですね。そしてその世界では、通常使っている「私」は、エゴなんていう表現でもされていますが、そのエゴに対しては自我が対比され、その境界はスペクトラム状であり、境目はないという説明をされていたように記憶しています。そして最終的に残るのは「真我・それ」等々だという理解です。そういった意味では、真我でもよいと思います。「あなたは真我である」ということですね。

    私は大乗仏教は学んではいません。少し学んだのは龍樹の空だけでしょうか。大乗の世界を学びだすと、果てしなく思考の世界が続いてしまうように思えるからです。もともとは仏陀の教えがあり、その後大乗ができ、その世界で空海や親鸞や・・とその思考の世界が広がりますので、それらを総合して仏教とは何か?を考えるのは、どうも私の性には合わなさそうです。簡単に表現しますと、仏教の原点は仏陀の教えであり、それは何を言っていたのかを学ぶのであれば原始仏典で十分だと言う認識です。(そこには、阿頼耶識も無自性空も出てきませね)

    阿頼耶識
    阿頼耶識は、大乗仏教の瑜伽行派独自の概念であり、個人存在の根本にある、通常は意識されることのない識のこと[2]。アーラヤ識[2]。眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識・末那識・阿頼耶識の8つの識の最深層に位置するとされる[2][注釈 1]。

    例えば上記は、wikiでの記載ですが、ご存じだと思いますが、原始仏典では、例えば中部9経「正見経」には、六識身として眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識の6つが説かれているだけですね。そしてこれが大乗になりますと、瑜伽行派独自の概念として阿頼耶識等も含めた8つに分類していきます。・・これはもともとの仏陀の教えにはない教えですね?

    同時に、仏教の原点は、衆生済度の教えではなく、個々人を速やかに苦の滅尽に導くのが仏陀の教えの原点だと思っていますので、全く否定するわけではありませんが大乗とは私は相性が良くないようです^^

    そういった意味で仏教は哲学ではないと思いますので、そこで「私とは何か?」等の事柄(定義)は説かなかったのだと思っています。きっと無記に分類されるのでしょう。

    ですので比類なき<私>を表現するのであれば、「世界、観照、気づき、真我、神、意識、それ、」等々、探究者ご本人が納得できるものでよいのではないかと思います。これらの表現しているものは、きっと一元の同じものを表現している思うからです。

    私自身があまりお話の流れが見えていないようにも思えますので、お話がずれていたら申し訳ありません。

    ご丁寧なご返信をありがとうございました。
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