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■4569 / inTopicNo.85)  Re[11]: 〈私〉について 8
  
□投稿者/ パニチェ -(2020/07/26(Sun) 16:06:32)
    2020/07/26(Sun) 16:40:20 編集(投稿者)

    初めまして、時さん。レスありがとうございます。

    > minoriさんの仰る「気づき」や「観照」は理解できていそうに思いますが、私(時)ならば、全てがそこから生じ滅する場という意味での「源泉」や「意識」が選択されるでしょうか。言い換えると「神」と呼称されているものになるのでしょう。

    仏教を学ばれているということですが、上記を法(ダルマ)とか仏性と呼ばずに神と呼称する理由というのはどのへんから来ますか?大乗仏教で言うところの神は天部になると思われるのですが。。。

    > 私(我)がある、私(我)がいない・・と言った二元の分別をインドの四句分別に当てはめますと( 1.我である。2.非我である。3.我であり、非我である。4.我でなく、非我でもない。)となり、それを否定する四句否定に当てはめますと(我である事はない。非我である事はない。我であり非我である事もない。我でなくまた非我でないのでもない。)となるのでしょうか。

    同意です。
    原始仏教においても形而上学的なテーマや非我、無我に関しては、多くの仏典が残っていることも手伝い諸説ありますね。ご存知だとは思いますが、非我、無我に関して、前者は「我ならざること」、後者は「我を有せざること」に大別されます。

    原始仏教ではウパニシャッド以来の教義の影響もあり「非我なるもの(我ならざるもの)を我(アートマン)と見なすなかれ」が主であり、無我説は後世のもので、説一切有部などによる「アートマンは存在しない」という意味での教義として成立したようです(参考:中村元選集15巻「原始仏教の思想」)。何れにせよ、我執や我がものの排斥による苦の克服のための教義ということになると思われます。

    私のライフワークならぬライフホビーは永井均氏の哲学的テーマとかぶりますが先にレスした「比類なき先言の<私>」というものです。
    今、これがどのようなものかについて、minoriさんやおくったがわさんとレス交換しています。

    山下良道さん、藤田一照さん、永井均さんの共著である「〈仏教3.0〉を哲学する」という書籍で無我と「比類なき〈私〉」に関しての鼎談があり、私もこの三人に共通する問題意識、つまり非我や無我、真我などさまざまな教説が仏教にあるのは、修行の起点となる「我」が無定義であるがために生じる教義の違いだと考えています。

    また見性と呼ばれるものが不立文字や言語道断、勝義諦など、言語表現が不可能でるとされるひとつの要因としては、もともとの「我」や「私」という言葉で指し示される対象がラベリングによって一般化してしまう言語機能と相性が悪く、非言語的な対象であるためと考えています。

    今のところは「比類なき先言の<私>」と「無我」「真我」とは思想的な合体はできておりませんが、言語的な我(言葉を習得することによって生じる我→物心がつく)は我の本質ではないということにおいては非我とは相性がよいと思われます。

    ちなみに6年にわたって私のこのテーマにお付き合いいただいた密教の覚者であるネット上の友人は真我かまたは阿頼耶識と同等であるという見解を述べておられました。
    未だ、探究中のテーマです。

    > いきなりの横レスで、お話が取り散らかり収拾がつかないままの投稿ですが、今後のお話を楽しみにしています。

    ありがとうございます。
    お気づきの点や疑問、異論、反論、感想等があればいつでもレスいただければ嬉しいです。

引用返信/返信 削除キー/
■4566 / inTopicNo.86)  Re[9]: knowing itselfさん
□投稿者/ knowing itself -(2020/07/26(Sun) 15:18:54)
    こんにちは はじめまして おくったがわさん。レスありがとうございます。

    > しかしカントって、ほんとうに色々なところに出てきますね。
    > 関連しそうな記述が「進みと安らい」にありましたので後で引用しようかと思います。
    > 今後ともよろしくお願いいたします。

    こちらこそ よろしくお願いいたします。

    「進みと安らい」にある、オキカエやクリカエシが可能な多数の自己を「自己一般」とし、それが科学を可能にするというところ、これはカント的といえると思います。どの人間も感性と悟性のアプリオリな枠組みを共有するゆえに、各自による現象の捉え方を相互に検証できる。物自体そのものは検証不可能でも、アプリオリな枠組みを共有する主観はそれぞれ平等で互換性があるゆえに、現象の範囲内で科学探究が可能になる。
引用返信/返信 削除キー/
■4561 / inTopicNo.87)  Re[10]: 〈私〉について 8
□投稿者/ 時 -(2020/07/26(Sun) 12:18:02)
    初めまして。横レス失礼します。

    過去レスをすべて読んだわけではありませんが、今回の〈私〉についてのお話は、大変興味深いですね。

    minoriさんの仰る「気づき」や「観照」は理解できていそうに思いますが、私(時)ならば、全てがそこから生じ滅する場という意味での「源泉」や「意識」が選択されるでしょうか。言い換えると「神」と呼称されているものになるのでしょう。

    私(我)がある、私(我)がいない・・と言った二元の分別をインドの四句分別に当てはめますと( 1.我である。2.非我である。3.我であり、非我である。4.我でなく、非我でもない。)となり、それを否定する四句否定に当てはめますと(我である事はない。非我である事はない。我であり非我である事もない。我でなくまた非我でないのでもない。)となるのでしょうか。

    二元の世界での問い(私とは何か?等)を一元の世界での理解を当てはめて二元の世界での表現(言葉)で行いますので、その答えは、二元の世界でのものとなりますね。そしてこれを突き詰めていく過程で「神だ」「無だ」「いないんだ、いるんだ」となるように思います。面白いですね。

    先程の「意識」という答えを出したとしても、これは言葉のある世界(二元 有無の有)でのお話だろうと思いますので、なかなか一言での表現は難しいですね。

    私の学んだ仏教に当てはめますと、我(我がある場合)とは通常の世界観(二元 三結の中の有身見)での五取蘊の状態です。無我(私がない場合)とは何か・・まずは、この五取蘊の取がとれた状態である、五蘊の状態となるでしょうか。この場合の表現でも「取」が「ある、ない」場合と言う事で、二元になりますね。このような教えの事を出世間の法に対して世間の教え(法)なんて表現されているのかもしれませんね。

    いきなりの横レスで、お話が取り散らかり収拾がつかないままの投稿ですが、今後のお話を楽しみにしています。
引用返信/返信 削除キー/
■4559 / inTopicNo.88)  Re[9]: 〈私〉について 8
□投稿者/ パニチェ -(2020/07/26(Sun) 09:09:35)
    2020/07/26(Sun) 11:17:52 編集(投稿者)

    minoriさん、おはようございます。
    お付き合いいただき、ありがとうございます。

    以下の返信には、合意できたところ、共通認識がはかれたと思う箇所は省略させていただきます。
    どこか抜け落ちがあれば指摘下さい。

    No4555に返信(minoriさんの記事)

    > >1.〈私〉がいる地点から目を通して世界は広がっており、物や他者などは世界内に存在している。

    > おっしゃることは理解できますし、その通りだと思います。皆さん、そのようにされているのだと思います。(そこまでつきつめて考える人は少ないかもしれないけれど、よく考えてみるとそうなっている、と理解できると思います。)
    > ただ、私は非二元に触れその観方が普通になってしまったので、それについて少し書きますね。
    > 「気づき」は、そこにすべてのものが表れてくる主体で、それなしには何も存在しえないものです。
    > minoriの身体や思考、感情は、「気づき」にとって気づく対象で、minoriの本質は「気づき」です。

    興味深いです。この「気づき」というのは先の「観照」に近い感覚でしょうか?
    「気づき」という言葉にしてしまうと、気づく対象と気づく主体の二元に分かれてしまうが、minoriさんの言う「気づき」とは認識プロセスとしての(記憶との)照合や加工以前、主客分離以前の「気づき」に近い言葉でしょうか。

    もしそうだとすると。。。すみません、そういう文脈の本質(気づきや観照)であれば、これから伝える試みをしようとする非言語的な〈私〉に隣接するかもしれません。
    もし上記が誤読していないなら、minoriさんの言う「気づき」は、電脳論では「アウェアネス」、クリシュナムルティなら「洞察」という言葉に近いと思われます。

    > >2.私の眼は世界の極地(接点または端っこ)にあり、〈私〉がいる地点は世界内ではなく世界の外側である。
    > パニチェさん的〈私〉において、そのようになっているという理解は不自由なくできます。

    ここ、〈私〉は置いておくとして、minoriさんの眼や世界を見ている主体、あるいは意識はどうですか?
    できれば常にminoriさん自身のこととして考察いただければ有難いです。
    非言語的な〈私〉を伝えるためのレス交換になった時は尚更、パニチェのこととしてではなく、minoriさん自身のことと置き換えて考察してもらう方が分かりやすいと思います。

    > >3.〈私〉がいる地点は世界のどの地点とも根本的に異なる特異な点である。
    > >4.世界は縦、横、高さの空間であるが、〈私〉が存在する地点には縦、横、高さなどの空間的な要素はない。

    > 世界が開闢する起点であり、0ポイントと言ったらいいのか、ゆえに上のことが言える、ということになるのでしょうか?
    > そんなふうに理解しました。

    いい表現ですね。^^
    空間的な大きさのない、まさしくゼロポイントです!

    余談ですがパニチェは20年近く前から〈私〉が位置するところを「特異点」と表現してました。
    一般相対性理論をベースとしたビッグバン宇宙論では、宇宙の始まりにまで時間を遡って考察すると宇宙が開闢する地点が大きさセロの質量無限大となる物理法則が通用しない特異点が出てきてしまい、そこから先に進めなくなります。

    宇宙が開闢すること、他の場所にはないような特異な点というのが似ているので〈私〉が位置する場を「哲学的な特異点」として用いてましたが、なんと永井氏もいつからか著書で「特異点」という言葉を用いるようになりました。
    なんと偶然の一致かどうか分かりませんが、驚かされました。^^

    > >5.〈私〉が存在する地点は他の如何なる物や人などが並び立てない(何物も誰もいない、またはこの地点には〈私〉を除いて存在できない)→唯一無二の比類なき存在。

    > なるほど。それが唯一無二の比類なき存在である根拠になるのですね。
    > なんとなくかもしれませんが理解できたと思います。

    > >6.他者もこのように世界が見えており、私と同じような主体または意識が同じような地点に位置しているはずであるが、それはあくまでも私の想像や類推であり、直接知ることはできない(私秘性)。

    > 哲学的な在り方として厳密に考えられるのですね。

    パニチェは哲学について広義(仏教などの東洋哲学的教義や、脳科学や量子力学、相対論などの科学哲学的要素も含む思惟)に考えており、それぞれのフィールドというか文脈によって言説も多少変わります(柔軟性を持ちます)。

    初めに共通認識をはかっておくべきでしたが、今やってるのはデカルトの方法的懐疑のような探究、つまり私が直接知りえる最も確たる存在にして、最も身近にして根源的かつ疑いようがない存在、即ち自己を(日常的な感覚や常識、慣習や少しでも不確かなものを一旦はペンディングして=エポケー〔フッサール現象学でも出てきます〕)探究する場であり、道具は「直接経験」と「論理」のみとします。
    ※長いので上記を省略して、以下この探究を「超リアル探究」と呼びます。

    上記の意味において5と6について、minoriさん自身のことを考察すれば同意できますか?それとも違和感がありますか?

    > >7.厳密に言えば私の直接経験で知り得る世界に存在しているのは物や人(物体としての)など五感(視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚)で知りうるものだけであり、その意味では私のような人間は直接的には私しか知らず、独我論的な世界である→ウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」のひとつのテーマである独我論。

    > 五感を通じて知りうるものは人によって違う。
    > なので、その意味で、私のような人間は直接的には私しか知らない。
    > そのようなことですか?

    上記のレスの前半は「超リアル探究」なので、人によって違うかどうかは不可知です。
    「直接経験」として私のような人間は私しか知らないということであれば、その通りですが、どうでしょうか。


    PS.次はいよいよ言語で語れない部分について伝える試みに突入しようと思っていますが、先を急がず一歩一歩、場合によっては立ち止まったり、戻ったりしつつ、できるだけ共通認識をはかりたいと思います。
    ちなみに「私」が〈 〉付な理由は非言語的、または言語に先んじる(アプリオリな)存在であるためです。
    そんな訳で、先の唯一無二性も含め「比類なき先言の〈私〉」とパニチェは呼んでいます。

引用返信/返信 削除キー/
■4558 / inTopicNo.89)  Re[10]: 意識の超難問 1
□投稿者/ パニチェ -(2020/07/26(Sun) 08:29:08)
    2020/07/26(Sun) 10:13:11 編集(投稿者)

    おはようございます。

    No4544に返信(おくったがわ(oktさんの記事)

    > 万人に共通する自我意識や「私」を扱う場合は『何故その中のとある「私」に「その自我意識」が結びついたのか』という問いになり、トートロジーか「たまたま」と答えるしかないのではないでしょうか。
    > ここは同意いただけますか?

    同意です。永井氏に習って「何故、今は今か?」の問いに似ています。
    マクタガートの時間論にもある 1秒前も、100年前の今(過去)もありましたが、「今は今として、この今しかない」という意味で自明です。^^

    > 例えば私oktは、意識は脳活動の随伴現象というイメージを持っていて、それによれば上記の問いはトートロジーになると思います。
    > (パニチェさんと同じ理由で自分自身のことは名前で書こうと思いますが、長いのと平仮名は紛らわしいので、oktと省略します)

    okt!いいですね♪ オクトバス(笑)! (:。)≡ =З=З
    脳は自我も含めた意識の必要条件ではあるが、脳は〈私〉の必要十分条件ではないというのがパニチェのスタンンスですが、意識(神経系だけでも可能な無意識は含まず)は脳の随伴現象(創発的物理主義などの性質二元論を含)だとは思います。

    > そこで、「なぜ私は他の誰かではないのか?」が超難問として成立するとしたら、<私>の特異性によるのだろう。

    そうですね。特異性、唯一不二性、独在性などなど、いろんな表現は可能だとは思います。

    > そのように考えて、その超難問の可否については、いったんベンディングして、<私>(の特異性)についての理解を深めようと思っていたのですが、それについては、現在の minoriさんとパニチェさんの会話をロムした方が良いと思い直しました。

    了解しました。

    > そこでやはり、超難問について直接進めるということで、
    > 1「なぜ〜は〜なのか?」という問いが成立するためには「〜は〜である」が真である必要があると思います。
    > そこで、超難問には「私は他の誰でもない私である」が(真であることが)前提となるはずです。
    > この前提はそもそも何を意味しているのか。これを明らかにしたいと思うのですが、いかがでしょうか。
    > 2 そのために、今さらながらですが、「なぜ私は他の誰かではないのか?」は「なぜ<私>は、この「私」以外の誰かではないのか?」
    > という問いと考えていいでしょうか?

    面白いですね。了解しました。
    現段階での結論から言うと〈私〉は帰謬法とか「〈私〉は〜ではない」ということでしか指し示す(浮き上がらせる)ことができないカニッツァの三角形(画像を添付しておきます)みたいな存在(言語で表現できないので、言語的には透明)と考えていますが、大変興味深いので、おくったがわさんが提案される方法で一度トライしてみましょう。

    > <私>については、
    > <私>はなんらの説明なく端的に他者ではなく自分であると分かる実存である。
    > <私>が見るもの・考えるものが世界であり、私が無ければ世界が無い。しかし世界の中に<私>はなく、<私>は<私>を外から見て知るということはない。
    > このような理解でよろしいでしょうか?

    はい、結構です。

    > **********
    > 「進みと安らい」では、オキカエやクリカエシが可能な多数の自己を「自己一般」とし、これが自然科学を可能にすると表現しています。この自己一般の経験としてなりたつのが客観性である、と。
    > 今回までのパニチェさんとの会話の、一般化による回答がイメージできる範囲というのが同じ事情を指していると思います。

    内山老師は凄いですね。ほんと、その通りです。
    これも結論から言えば〈私〉は科学の条件ともなる自然の斉一性とか再現性の対象外なんです。
    言語や自然科学の網の目にかかるのは「自己一般」であり、「意識の難問」の方だと思います。

    > 的外れ・不毛・おもろくない・遅レスでリズム狂う などのお叱りの言葉もなく(?)お読みいただきありがとうございました。

    的を射ている、毛が生えそう(笑)、おもしろい!レスは逃げないので慌てて返信する必要もないし、そのことによってタイミングも狂わない、という称賛の言葉を送りますが、上記の言葉がまだない時点で「言葉もなく」とレスしたのはウケますた(笑)

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引用返信/返信 削除キー/
■4555 / inTopicNo.90)  Re[8]: 〈私〉について 7
□投稿者/ minori -(2020/07/26(Sun) 04:28:08)
    >以下は〈私〉(ここでは、主体とか意識とか自我と考えてもらっても構いません)やその地点についての特徴を箇条書きにします。もし分からない、または?と思うところがあれば次回のレスで遠慮なく質問や異論、反論を返して下さい。

    >1.〈私〉がいる地点から目を通して世界は広がっており、物や他者などは世界内に存在している。

    おっしゃることは理解できますし、その通りだと思います。皆さん、そのようにされているのだと思います。(そこまでつきつめて考える人は少ないかもしれないけれど、よく考えてみるとそうなっている、と理解できると思います。)
    ただ、私は非二元に触れその観方が普通になってしまったので、それについて少し書きますね。
    「気づき」は、そこにすべてのものが表れてくる主体で、それなしには何も存在しえないものです。
    minoriの身体や思考、感情は、「気づき」にとって気づく対象で、minoriの本質は「気づき」です。

    >2.私の眼は世界の極地(接点または端っこ)にあり、〈私〉がいる地点は世界内ではなく世界の外側である。

    パニチェさん的〈私〉において、そのようになっているという理解は不自由なくできます。

    >3.〈私〉がいる地点は世界のどの地点とも根本的に異なる特異な点である。
    >4.世界は縦、横、高さの空間であるが、〈私〉が存在する地点には縦、横、高さなどの空間的な要素はない。

    世界が開闢する起点であり、0ポイントと言ったらいいのか、ゆえに上のことが言える、ということになるのでしょうか?
    そんなふうに理解しました。

    >5.〈私〉が存在する地点は他の如何なる物や人などが並び立てない(何物も誰もいない、またはこの地点には〈私〉を除いて存在できない)→唯一無二の比類なき存在。

    なるほど。それが唯一無二の比類なき存在である根拠になるのですね。
    なんとなくかもしれませんが理解できたと思います。

    >6.他者もこのように世界が見えており、私と同じような主体または意識が同じような地点に位置しているはずであるが、それはあくまでも私の想像や類推であり、直接知ることはできない(私秘性)。

    哲学的な在り方として厳密に考えられるのですね。

    >7.厳密に言えば私の直接経験で知り得る世界に存在しているのは物や人(物体としての)など五感(視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚)で知りうるものだけであり、その意味では私のような人間は直接的には私しか知らず、独我論的な世界である→ウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」のひとつのテーマである独我論。

    五感を通じて知りうるものは人によって違う。
    なので、その意味で、私のような人間は直接的には私しか知らない。
    そのようなことですか?

引用返信/返信 削除キー/
■4554 / inTopicNo.91)  Re[8]: 〈私〉について 7
□投稿者/ minori -(2020/07/26(Sun) 04:25:50)
    パニチェさん、レスありがとうございます。

    >そうです、世界の内には〈私〉は含まれません。私の手足や身体は含まれていますが。。。頭部は触覚でしか直接確認できません。なんか首から上は大きな穴が開いてるようで(または透明で)、そこから世界が見えてます(笑)。

    はい。

    >そうです、そうです!
    >こういう視点でしか景色は見えないのに脳は勝手に世界の中に他のみんなと同じように存在するかの如くイメージさせ、むしろこちらの方が日常的なメインであるかのように錯覚してしまいます。

    >例えば大きな鏡に景色とともに自分を映したり、写真で撮れば、みんなの中、景色(世界)の中に自分がいる映像にはなりますが、それはあくまでも鏡像とか写真であって直接的な現実ではありません。

    ええ、そうですよね。

    >ちなみに、この主観的な光景(マッハ的光景)こそがフッサール現象学の起点であり「直接経験」と名付けられています。先に返信した西田哲学では「純粋経験」にあたりますが、これはminoriさんに教わった認識プロセスとして分析したり加工する前の「観照」に近いと思います。

    マッハ的光景の図、あれはフッサール現象学の起点になるのですね。
    認識論がどう変化(進展?)したかというところで、カントをある程度理解したらフッサールとは思っているのですが、今はまったくわかりません。
    西田哲学の「純粋経験」とminoriが説明した「観照」は、たしかに近いところがあるように思います。

    >フッサールは数学が数学という学問だけにとどまらず、物理学や化学、生物学や気象学、論理学や経済学、音楽などなどを基礎づける(共通の道具)となりえるように、この「直接経験」こそが数学も含めた全ての学問や文化を基礎づけるものとして確立できるのではないか?と考え、フッサール現象学として新たな哲学の完成を目指しました。

    なるほど。フッサールの入門書を読む際まで、今書いていただいた内容を記憶しておこうと思います。

    >そうなんですよ。さらに厳密に言えば〈私〉は「これまで生きてきた中で既に感じていた対象」ではなく、「これまで生きてきた命そのもので、さまざまなものを感じる主体」てす。感じる対象ではなく、感じる側ってことですが、どうでしょうか。^^

    対象ではなく主体である、というのはその通りと思います。


    (ワードからコピーで心配なので、ここでいったん切って投稿します。続きは次の投稿でします。)
引用返信/返信 削除キー/
■4544 / inTopicNo.92)  Re[9]: 意識の超難問
□投稿者/ おくったがわ(okt -(2020/07/25(Sat) 20:54:05)
    > ■No4414(〈私〉について 4) に返信(パニチェさんの記事)

    こんばんは。

    > > 「何故、私はこの私なのか?」という問いに触れた時、私おくたがわは『同様の問いを自らに問うことはできる』というまさにその問題として考えていると思います。
    > > しかしたしかに、「意識とは」の問いと同じように、多数の異なる<私>とそれに対応する多数の異なる人間との関係として括り一般化して考えていたと思います。それは、誰が問うた場合でも同じ問いであるとして括っていたことになるかなと。
    >
    > 同感です。
    > 「意識とは」の問いは、デイヴィド・チャーマーズらによって提起された「意識の難問」と呼ばれ「1.物質としての脳の情報処理過程に付随する主観的な意識的体験やクオリアというのは、そもそも一体何なのか?2.そしてこれら主観的な意識的体験やクオリアは、現在の物理学が提示するモデルの、どこに位置づけられるのか?(Wikipediaより引用)」というものです。この問いへは「これこれこのような脳や神経細胞の物理的プロセスによって説明あるいは記述可能である」という回答がイメージできます。
    >
    > 一方、ティム・ロバーツが提起した「意識の超難問」と呼ばれる「なぜ私は他の誰かではないのか?」は上記のような回答がイメージできない、あるいは物理的プロセスでもって生じる「私」や自我意識は万人に共通するものであって「なぜ私は他の誰かではないのか?」への回答になりえないと考えますが、おくったがわさんは如何でしょうか。

    万人に共通する自我意識や「私」を扱う場合は『何故その中のとある「私」に「その自我意識」が結びついたのか』という問いになり、トートロジーか「たまたま」と答えるしかないのではないでしょうか。
    ここは同意いただけますか?
    例えば私oktは、意識は脳活動の随伴現象というイメージを持っていて、それによれば上記の問いはトートロジーになると思います。
    (パニチェさんと同じ理由で自分自身のことは名前で書こうと思いますが、長いのと平仮名は紛らわしいので、oktと省略します)

    そこで、「なぜ私は他の誰かではないのか?」が超難問として成立するとしたら、<私>の特異性によるのだろう。
    そのように考えて、その超難問の可否については、いったんベンディングして、<私>(の特異性)についての理解を深めようと思っていたのですが、それについては、現在の minoriさんとパニチェさんの会話をロムした方が良いと思い直しました。

    そこでやはり、超難問について直接進めるということで、

    1「なぜ〜は〜なのか?」という問いが成立するためには「〜は〜である」が真である必要があると思います。
    そこで、超難問には「私は他の誰でもない私である」が(真であることが)前提となるはずです。
    この前提はそもそも何を意味しているのか。これを明らかにしたいと思うのですが、いかがでしょうか。
    2 そのために、今さらながらですが、「なぜ私は他の誰かではないのか?」は「なぜ<私>は、この「私」以外の誰かではないのか?」
    という問いと考えていいでしょうか?

    <私>については、
    <私>はなんらの説明なく端的に他者ではなく自分であると分かる実存である。
    <私>が見るもの・考えるものが世界であり、私が無ければ世界が無い。しかし世界の中に<私>はなく、<私>は<私>を外から見て知るということはない。
    このような理解でよろしいでしょうか?

    **********
    「進みと安らい」では、オキカエやクリカエシが可能な多数の自己を「自己一般」とし、これが自然科学を可能にすると表現しています。この自己一般の経験としてなりたつのが客観性である、と。
    今回までのパニチェさんとの会話の、一般化による回答がイメージできる範囲というのが同じ事情を指していると思います。


    的外れ・不毛・おもろくない・遅レスでリズム狂う などのお叱りの言葉もなく(?)お読みいただきありがとうございました。
引用返信/返信 削除キー/
■4543 / inTopicNo.93)  Re[8]: knowing itselfさん
□投稿者/ おくったがわ -(2020/07/25(Sat) 20:45:49)
    > ■No4413(〈私〉について 4) に返信(knowing itselfさんの記事)

    こんばんは。はじめまして。非常に遅いレスですみません。

    > おはようございます。横レス的なので参考程度にしてスルーされて結構です。
    > テーマの内山興正の「図」について、永井均氏は「図」を見た瞬間にカント的だと思ったそうですね。内山興正が大学で哲学を専攻して卒論がカントだったという事実を指摘しつつ、カントのデカルト誤読に起因する限界を超えようとする試みがこの「図」であって、その意味でカントを超えるものだ、と。そのことがわかっているのは、哲学界を見渡してもデカルトとウィトゲンシュタインと内山興正と自分(永井氏)しかいない。仏教界もこの点は誤解している。釈迦や龍樹にもこの視点はなかった可能性がある。このように言われています。
    >
    > この「図」に物凄く深い意味を読み込んでおられることは間違いありません。

    ご教示ありがとうございます。
    しかしカントって、ほんとうに色々なところに出てきますね。
    関連しそうな記述が「進みと安らい」にありましたので後で引用しようかと思います。
    今後ともよろしくお願いいたします。
引用返信/返信 削除キー/
■4518 / inTopicNo.94)  Re[7]: 〈私〉について 7
□投稿者/ パニチェ -(2020/07/25(Sat) 08:41:56)
    2020/07/25(Sat) 12:13:57 編集(投稿者)

    おはようございます、minoriさん。レスありがとうございます。

    No4508に返信(minoriさんの記事)
    > 〈私〉は私が見ている世界のうちには含まれない、というのがポイントですね。
    > ここまでのところ理解できています。

    よかった。^^
    そうです、世界の内には〈私〉は含まれません。私の手足や身体は含まれていますが。。。頭部は触覚でしか直接確認できません。なんか首から上は大きな穴が開いてるようで(または透明で)、そこから世界が見えてます(笑)。

    > ええ、髭はないです。( ´艸`)

    はははは。失礼しました。^^

    > 手前の湾曲しているのが顔になるのですね。そして、下の方のフサフサしてるキツネの尻尾みたいなのがマッハという人の髭でいいのかな。
    > たしかに普通にこんなふうにして自分の身体や世界を誰でもが見ていると思います。

    そうです、そうです!
    こういう視点でしか景色は見えないのに脳は勝手に世界の中に他のみんなと同じように存在するかの如くイメージさせ、むしろこちらの方が日常的なメインであるかのように錯覚してしまいます。

    例えば大きな鏡に景色とともに自分を映したり、写真で撮れば、みんなの中、景色(世界)の中に自分がいる映像にはなりますが、それはあくまでも鏡像とか写真であって直接的な現実ではありません。

    ちなみに、この主観的な光景(マッハ的光景)こそがフッサール現象学の起点であり「直接経験」と名付けられています。先に返信した西田哲学では「純粋経験」にあたりますが、これはminoriさんに教わった認識プロセスとして分析したり加工する前の「観照」に近いと思います。

    フッサールは数学が数学という学問だけにとどまらず、物理学や化学、生物学や気象学、論理学や経済学、音楽などなどを基礎づける(共通の道具)となりえるように、この「直接経験」こそが数学も含めた全ての学問や文化を基礎づけるものとして確立できるのではないか?と考え、フッサール現象学として新たな哲学の完成を目指しました。

    > そして。ここまで説明いただいている部分に限定してだとは思うのですが、パニチェさんがおっしゃる〈私〉というのは、minoriもこれまで生きてきた中で既に感じていたものでした。
    > そういうこともあり、すんなりと理解できました。

    そうなんですよ。さらに厳密に言えば〈私〉は「これまで生きてきた中で既に感じていた対象」ではなく、「これまで生きてきた命そのもので、さまざまなものを感じる主体」てす。感じる対象ではなく、感じる側ってことですが、どうでしょうか。^^

    私のこんな拙い説明文を読んでるより、minoriさん自身がこのマッハ的光景の手前に存在する〈私〉を意識してもらった方が分かりやすいかもしれません。(笑)

    以下は〈私〉(ここでは、主体とか意識とか自我と考えてもらっても構いません)やその地点についての特徴を箇条書きにします。もし分からない、または?と思うところがあれば次回のレスで遠慮なく質問や異論、反論を返して下さい。

    1.〈私〉がいる地点から目を通して世界は広がっており、物や他者などは世界内に存在している。
    2.私の眼は世界の極地(接点または端っこ)にあり、〈私〉がいる地点は世界内ではなく世界の外側である。
    3.〈私〉がいる地点は世界のどの地点とも根本的に異なる特異な点である。
    4.世界は縦、横、高さの空間であるが、〈私〉が存在する地点には縦、横、高さなどの空間的な要素はない。
    5.〈私〉が存在する地点は他の如何なる物や人などが並び立てない(何物も誰もいない、またはこの地点には〈私〉を除いて存在できない)→唯一無二の比類なき存在。
    6.他者もこのように世界が見えており、私と同じような主体または意識が同じような地点に位置しているはずであるが、それはあくまでも私の想像や類推であり、直接知ることはできない(私秘性)。
    7.厳密に言えば私の直接経験で知り得る世界に存在しているのは物や人(物体としての)など五感(視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚)で知りうるものだけであり、その意味では私のような人間は直接的には私しか知らず、独我論的な世界である→ウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」のひとつのテーマである独我論。

    ここまで、どうでしょうか?

    > 今のところとても理解可能ですし楽しいですよ。^^
    > 不可能になったら降参します。

    了解しました。^^

    > 次回からは編集、修正も可能になるのでよかったです。
    > ありがとうございました。

    どういたしまして♪

    PS.横道にそれつつレスしてますが、フッサール現象学とかご存知のところは以後スルーして下さいね。^^

引用返信/返信 削除キー/
■4508 / inTopicNo.95)  Re[6]: 〈私〉について 6
□投稿者/ minori -(2020/07/25(Sat) 07:34:47)
    パニチェさん、ありがとうございます。

    > あっ、ほんとだ。P.77で出てますね。同じ図です。

    やはり、同じでよかったのですね。^^

    >>その人にとっての世界が開かれている起点を表しているのかな、と今のところは思っていますが、いかがですか?
    >
    > そうです、その通りです。

    よかった。^^

    > 私もminoriさんも万人は常に如何なる時にもこの図のように世界を見ています。
    >
    > 眼は世界と〈私〉の接点にあり、そこから世界が広がっています。
    > 眼を通して世界を見ている〈私〉(ここでは主体とか意識と考えてもらって結構です)は眼のさらに左側にあり、私が見ている世界の内には含まれていません。
    > ここまではよろしいでしょうか?

    〈私〉は私が見ている世界のうちには含まれない、というのがポイントですね。
    ここまでのところ理解できています。

    > さらにあの図は世界を見ている眼とそこから広がる世界を客体として描いた(外から見た)図になっており、実際には添付した画像(マッハ的光景)から見ているような光景となります。
    >
    > 絵はマッハが右目を閉じて左目だけで室内を見ている光景です。
    > 長い椅子(ソファー?)に足を投げ出し、右手にペンを持ち、室内の光景が広がる絵となっています。
    > マッハの左眼孔から見た景色で、右にあるのはマッハの鼻でありその下に髭が見えます。
    > 万人はこういう光景から世界を見ており、この視点以外で世界を見ることはできません。
    > minoriさんも右目を閉じて見れば景色こそ違いますが、このようにパソコンの画面(スマホかな?)を見ているはずです。
    > 髭とかはないと思いますが。。。(笑)

    ええ、髭はないです。( ´艸`)
    手前の湾曲しているのが顔になるのですね。そして、下の方のフサフサしてるキツネの尻尾みたいなのがマッハという人の髭でいいのかな。

    たしかに普通にこんなふうにして自分の身体や世界を誰でもが見ていると思います。

    そして。ここまで説明いただいている部分に限定してだとは思うのですが、パニチェさんがおっしゃる〈私〉というのは、minoriもこれまで生きてきた中で既に感じていたものでした。
    そういうこともあり、すんなりと理解できました。

    > >>了解しました。
    > >>私は、全然、めんどくさくないですよ。^^
    >>お手数おかけしてすみません。
    >
    > いえいえ、逆にminoriさんから、先の理由でいつでもストップしてもらっても構いませんよ。^^

    今のところとても理解可能ですし楽しいですよ。^^
    不可能になったら降参します。

    >>削除キーは一度設定すると、毎回同じものを使用するようになるのですね?
    >>メモしたので保存しておきます。
    >
    > 多分、PCのブラウザが記憶していると思います。次回からはその都度入力しなくても「*****」で表示されていると思います。

    そうなんですね。了解です。

    >>こちらもお手数おかけしました。
    >
    > とんでもない、1件削除するのはめちゃめちゃ簡単なんです。^^
    > こちらこそ、ご協力ありがとうございました。

    次回からは編集、修正も可能になるのでよかったです。
    ありがとうございました。
引用返信/返信 削除キー/
■4501 / inTopicNo.96)  Re[5]: 〈私〉について 6
□投稿者/ パニチェ -(2020/07/24(Fri) 21:06:16)
    2020/07/24(Fri) 22:42:07 編集(投稿者)

    レスありがとうございなす。

    No4500に返信(minoriさんの記事)
    > 『バージョンU』にも同じようなのが出ていましたよね。
    > (それともまた違うことを表しているのかもしれませんが。)

    あっ、ほんとだ。P.77で出てますね。同じ図です。

    > その人にとっての世界が開かれている起点を表しているのかな、と今のところは思っていますが、いかがですか?

    そうです、その通りです。
    私もminoriさんも万人は常に如何なる時にもこの図のように世界を見ています。

    眼は世界と〈私〉の接点にあり、そこから世界が広がっています。
    眼を通して世界を見ている〈私〉(ここでは主体とか意識と考えてもらって結構です)は眼のさらに左側にあり、私が見ている世界の内には含まれていません。
    ここまではよろしいでしょうか?

    さらにあの図は世界を見ている眼とそこから広がる世界を客体として描いた(外から見た)図になっており、実際には添付した画像(マッハ的光景)から見ているような光景となります。

    絵はマッハが右目を閉じて左目だけで室内を見ている光景です。
    長い椅子(ソファー?)に足を投げ出し、右手にペンを持ち、室内の光景が広がる絵となっています。
    マッハの左眼孔から見た景色で、右にあるのはマッハの鼻でありその下に髭が見えます。
    万人はこういう光景から世界を見ており、この視点以外で世界を見ることはできません。
    minoriさんも右目を閉じて見れば景色こそ違いますが、このようにパソコンの画面(スマホかな?)を見ているはずです。
    髭とかはないと思いますが。。。(笑)


    >>了解しました。
    >>私は、全然、めんどくさくないですよ。^^
    > お手数おかけしてすみません。

    いえいえ、逆にminoriさんから、先の理由でいつでもストップしてもらっても構いませんよ。^^

    > 削除キーは一度設定すると、毎回同じものを使用するようになるのですね?
    > メモしたので保存しておきます。

    多分、PCのブラウザが記憶していると思います。次回からはその都度入力しなくても「*****」で表示されていると思います。

    > こちらもお手数おかけしました。

    とんでもない、1件削除するのはめちゃめちゃ簡単なんです。^^
    こちらこそ、ご協力ありがとうございました。
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