| 2020/07/26(Sun) 16:40:20 編集(投稿者)
初めまして、時さん。レスありがとうございます。
> minoriさんの仰る「気づき」や「観照」は理解できていそうに思いますが、私(時)ならば、全てがそこから生じ滅する場という意味での「源泉」や「意識」が選択されるでしょうか。言い換えると「神」と呼称されているものになるのでしょう。
仏教を学ばれているということですが、上記を法(ダルマ)とか仏性と呼ばずに神と呼称する理由というのはどのへんから来ますか?大乗仏教で言うところの神は天部になると思われるのですが。。。
> 私(我)がある、私(我)がいない・・と言った二元の分別をインドの四句分別に当てはめますと( 1.我である。2.非我である。3.我であり、非我である。4.我でなく、非我でもない。)となり、それを否定する四句否定に当てはめますと(我である事はない。非我である事はない。我であり非我である事もない。我でなくまた非我でないのでもない。)となるのでしょうか。
同意です。 原始仏教においても形而上学的なテーマや非我、無我に関しては、多くの仏典が残っていることも手伝い諸説ありますね。ご存知だとは思いますが、非我、無我に関して、前者は「我ならざること」、後者は「我を有せざること」に大別されます。
原始仏教ではウパニシャッド以来の教義の影響もあり「非我なるもの(我ならざるもの)を我(アートマン)と見なすなかれ」が主であり、無我説は後世のもので、説一切有部などによる「アートマンは存在しない」という意味での教義として成立したようです(参考:中村元選集15巻「原始仏教の思想」)。何れにせよ、我執や我がものの排斥による苦の克服のための教義ということになると思われます。
私のライフワークならぬライフホビーは永井均氏の哲学的テーマとかぶりますが先にレスした「比類なき先言の<私>」というものです。 今、これがどのようなものかについて、minoriさんやおくったがわさんとレス交換しています。
山下良道さん、藤田一照さん、永井均さんの共著である「〈仏教3.0〉を哲学する」という書籍で無我と「比類なき〈私〉」に関しての鼎談があり、私もこの三人に共通する問題意識、つまり非我や無我、真我などさまざまな教説が仏教にあるのは、修行の起点となる「我」が無定義であるがために生じる教義の違いだと考えています。
また見性と呼ばれるものが不立文字や言語道断、勝義諦など、言語表現が不可能でるとされるひとつの要因としては、もともとの「我」や「私」という言葉で指し示される対象がラベリングによって一般化してしまう言語機能と相性が悪く、非言語的な対象であるためと考えています。
今のところは「比類なき先言の<私>」と「無我」「真我」とは思想的な合体はできておりませんが、言語的な我(言葉を習得することによって生じる我→物心がつく)は我の本質ではないということにおいては非我とは相性がよいと思われます。
ちなみに6年にわたって私のこのテーマにお付き合いいただいた密教の覚者であるネット上の友人は真我かまたは阿頼耶識と同等であるという見解を述べておられました。 未だ、探究中のテーマです。
> いきなりの横レスで、お話が取り散らかり収拾がつかないままの投稿ですが、今後のお話を楽しみにしています。
ありがとうございます。 お気づきの点や疑問、異論、反論、感想等があればいつでもレスいただければ嬉しいです。
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