| パニチェさん、おはようございます。 以前、『バージョンU』の話を少ししていた際に、〈私〉についての説明もしていただいていたのですよね。 そのことをふと思い出し、探しました。
・・・ >「その開闢している場に現れてくるもの」が一人一人違う個人(実存)であるということではなくて、〈私〉の存在自体が他者に伝えようがない実存であるということになります。
>何故なら、〈私〉自体が共有できるものであるとするなら、パニチェとminoriさんが同じ位置から同じ世界を同じように観ることが可能となり、二人の身体もどちらか一方が動かそうとすれば動くのような、ありえない存在になってしまうからです。
>他者に伝わった時点でパニチェの〈私〉ではないものとして、minoriさんが理解することになるというような話です。そういう意味で「他者の考えていることというよりも、他者の〈私〉は、まったく同一に理解することは不可能である」ということです。
>絶対に同じではありないものが言葉によって同一化される。これによって他者に伝わるというありえない(パラドックス)なこととなり、これ故に言語化不能ということです。 ・・・
独在的な〈私〉、それを他者に伝えると伝わった時点で、パニチェさんの〈私〉ではないものとしてAさん(とします。)は理解してしまう。 他者の〈私〉は、まったく同一に理解することは不可能である。
しかし。絶対に同じものではないもの、ここでは〈私〉ですね、それが言葉を使用することによって同一化され、他者にも伝わってしまう。 パラドクスになってしまうので、ゆえに言語化不可能である。
下の、おとといでしたかパニチェさんがしてくださった説明と、↑の以前にしてくださった説明はリンクしているというか重なっていますよね。 『バージョンU』の話の時には理解できなかったそのあたりが、おとといの説明によって明かされてきたのがわかりました。
> 何故、こうなるかと言うと言葉というか言語というのは一般化、共有化してしまうために、元の独在性【私秘性を伴い、何人も何物も並び立つことのできない、そこから世界が開闢する地点であるところのマッハ的光景の手前に独我論的に存在する唯一無二性】 が変質、削がれ落ちて(崩れ落ちて)しまうからです。
はい。言葉によって唯一無二性が変質、削がれ落ちてしまうということですね。
> さらに言語はあるグループとして括りこんでしまうラベリング効果があるので、「私は〜である」という如何なる表現を用いても同類が存在する言明となってしまいます。
はい。実際に実験的にした部分ですね。
> 三角形が言い表せるのは二等辺三角形とか直角三角形とか、さまざまな三角形を括るための定義になりえるからであり、三角形には(存在論としての)独在性はないからです。
はい。
> パニチェが「独在的な私」とminoriさんに伝えたとしても、minoriさんはこれを理解するために自分のこととして「独在的な私」をイメージするので、この時点で「パニチェの独在性」は削げ落ちていまします。
そうなりますね。
> 根本的な言語の機能によって「独在的な私」は「言葉にできな〜い♪」存在であるということです。
はい。
> 上記の言語によって「削げ落ちる」ことを「頽落(たいらく)」と定義します。 > (少し意味は異なりますがハイデッガーの哲学用語としても出てきます。ハイデッガー哲学では需要な概念になります。)
> この言語による行ったり来たり(独在性が削げ落ちたり、minoriさんのところで復活したり)する反復運動を永井氏は「独在と頽落の終わることなき拮抗運動」と呼びます。
パニチェさんがパニチェさん自身の「独在的な私」をminoriに伝えたとしても、minoriはそれを理解するのにminori自身のこととして「独在的な私」を理解する。 そうしたことを「独在と頽落の終わることなき拮抗運動」と永井さんは呼んでいる、ということですか。
> これが〈私〉が言語化できない理由のひとつです。一般的な私と区別するために、今そこにある、minoriさんの「独在的な私」を頽落しないように〈 〉付きの〈私〉と表記します。(但し、〈私〉の説明はこれで終わりではありません)
はい。なんとか理解できていると思います。
> PS.まだまだ終わりではありません。今、6合目と7合目の中間地点くらいです。^^
わ〜、登山はきついですが、くっついていけるとこまでは続けてみますね。
前に説明うけてたのを思い出したのと、疲れも取れたのでレスしてみました。
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