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■4745 / inTopicNo.1)  Re[28]: 〈私〉について 16-2
  
□投稿者/ minori -(2020/07/30(Thu) 08:17:55)
    パニチェさん、おはようございます。
    以前、『バージョンU』の話を少ししていた際に、〈私〉についての説明もしていただいていたのですよね。
    そのことをふと思い出し、探しました。


    ・・・
    >「その開闢している場に現れてくるもの」が一人一人違う個人(実存)であるということではなくて、〈私〉の存在自体が他者に伝えようがない実存であるということになります。

    >何故なら、〈私〉自体が共有できるものであるとするなら、パニチェとminoriさんが同じ位置から同じ世界を同じように観ることが可能となり、二人の身体もどちらか一方が動かそうとすれば動くのような、ありえない存在になってしまうからです。

    >他者に伝わった時点でパニチェの〈私〉ではないものとして、minoriさんが理解することになるというような話です。そういう意味で「他者の考えていることというよりも、他者の〈私〉は、まったく同一に理解することは不可能である」ということです。

    >絶対に同じではありないものが言葉によって同一化される。これによって他者に伝わるというありえない(パラドックス)なこととなり、これ故に言語化不能ということです。
    ・・・


    独在的な〈私〉、それを他者に伝えると伝わった時点で、パニチェさんの〈私〉ではないものとしてAさん(とします。)は理解してしまう。
    他者の〈私〉は、まったく同一に理解することは不可能である。

    しかし。絶対に同じものではないもの、ここでは〈私〉ですね、それが言葉を使用することによって同一化され、他者にも伝わってしまう。
    パラドクスになってしまうので、ゆえに言語化不可能である。
     

    下の、おとといでしたかパニチェさんがしてくださった説明と、↑の以前にしてくださった説明はリンクしているというか重なっていますよね。
    『バージョンU』の話の時には理解できなかったそのあたりが、おとといの説明によって明かされてきたのがわかりました。


    > 何故、こうなるかと言うと言葉というか言語というのは一般化、共有化してしまうために、元の独在性【私秘性を伴い、何人も何物も並び立つことのできない、そこから世界が開闢する地点であるところのマッハ的光景の手前に独我論的に存在する唯一無二性】 が変質、削がれ落ちて(崩れ落ちて)しまうからです。


    はい。言葉によって唯一無二性が変質、削がれ落ちてしまうということですね。

    > さらに言語はあるグループとして括りこんでしまうラベリング効果があるので、「私は〜である」という如何なる表現を用いても同類が存在する言明となってしまいます。

    はい。実際に実験的にした部分ですね。

    > 三角形が言い表せるのは二等辺三角形とか直角三角形とか、さまざまな三角形を括るための定義になりえるからであり、三角形には(存在論としての)独在性はないからです。

    はい。

    > パニチェが「独在的な私」とminoriさんに伝えたとしても、minoriさんはこれを理解するために自分のこととして「独在的な私」をイメージするので、この時点で「パニチェの独在性」は削げ落ちていまします。

    そうなりますね。

    > 根本的な言語の機能によって「独在的な私」は「言葉にできな〜い♪」存在であるということです。

    はい。

    > 上記の言語によって「削げ落ちる」ことを「頽落(たいらく)」と定義します。
    > (少し意味は異なりますがハイデッガーの哲学用語としても出てきます。ハイデッガー哲学では需要な概念になります。)


    > この言語による行ったり来たり(独在性が削げ落ちたり、minoriさんのところで復活したり)する反復運動を永井氏は「独在と頽落の終わることなき拮抗運動」と呼びます。

    パニチェさんがパニチェさん自身の「独在的な私」をminoriに伝えたとしても、minoriはそれを理解するのにminori自身のこととして「独在的な私」を理解する。
    そうしたことを「独在と頽落の終わることなき拮抗運動」と永井さんは呼んでいる、ということですか。

    > これが〈私〉が言語化できない理由のひとつです。一般的な私と区別するために、今そこにある、minoriさんの「独在的な私」を頽落しないように〈  〉付きの〈私〉と表記します。(但し、〈私〉の説明はこれで終わりではありません)

    はい。なんとか理解できていると思います。

    > PS.まだまだ終わりではありません。今、6合目と7合目の中間地点くらいです。^^

    わ〜、登山はきついですが、くっついていけるとこまでは続けてみますね。

    前に説明うけてたのを思い出したのと、疲れも取れたのでレスしてみました。
引用返信/返信 削除キー/
■4744 / inTopicNo.2)  Re[23]: 〈私〉について 15-1
□投稿者/ knowing itself -(2020/07/30(Thu) 07:54:58)
    永井氏の超越的と超越論的の説明そのものに若干?の部分があるし、それを受け入れるとしても、肝心かなめの<私>こそが超越的にならないのかの疑問も可能です。

    もう一つ。<私>はそれだけがリアル、他はわからんがこれだけはそうだと言える現前。永井氏の慈悲などへの否定発言をみると、<私>は離人症や無感情のロボットに近いものにしているようでもあります。リアルな現前と豊かな感情が合体することを認めたとしても、それが非哲学になるわけではないように思います。
引用返信/返信 削除キー/
■4743 / inTopicNo.3)  Re[23]: 〈私〉について 15-1
□投稿者/ パニチェ -(2020/07/30(Thu) 07:54:12)
    おはようございます、knowing itselfさん。

    No4733は今朝少し書き加えました。

    それにしてもknowing itselfさんと、この手の議論はほんと楽しいです。

    ありがとうございます。

    返信は No4733 のknowing itselfさんの返信を待ってからにしますね。

    急ぎませんので、いつでも結構です。

    よろしくお願いします。
引用返信/返信 削除キー/
■4740 / inTopicNo.4)  Re[39]: <私>と真我、無我
□投稿者/ knowing itself -(2020/07/30(Thu) 07:32:29)
    おはようございます パニチェさん。とりあえずこちらからレスさせてもらいます。


    >><私>と真我や無我との関係については、永井氏の「世界の独在論的存在構造」の付論「自我、真我、無我について」の最後の部分が説得的で、同意できます。
    >>両立すると思います。
    >
    > 哲学探究1&2は私も読みました。
    > ご指摘の付論については納得できるところもあれば、永井さんの独断によるものではないか、と思えるところと両方あります。
    >
    > さらに永井さんの哲学テーマである〈私〉とパニチェのライフホビーである「比類なき先言の<私>」が同じであるかどうかは(厳密には同じではありえないのですが)不確かなところも多分にあります。
    >
    > 付論に懐疑的な部分は複数の覚者と〈私〉について議論した経験からきます。
    > 永井さんは底が抜けてないがために、あのように考えているという可能性もあるとパニチェは考えています。

    底が抜けていたとしてもそれを盛り込まない、仏教教義を一切導入しないところがまさに永井哲学だともいるので、そこは徹底していると思います。

    コレだけがリアルだという体験のみで十分というか。底どころか仏教そのものにまったく無知であっても、<私>の現前とは関係がない。神秘体験の有無・深浅、仏教教義の理解度などに左右されないのだと思います。
引用返信/返信 削除キー/
■4739 / inTopicNo.5)  〈私〉について2>ピピットさんへ
□投稿者/ パニチェ -(2020/07/30(Thu) 07:08:11)
    2020/07/30(Thu) 07:45:58 編集(投稿者)

    おはようございます、ピピットさん。レスありがとうございます。

    No4729に返信(pipitさんの記事)
    > わたし、猫や犬にも〈私〉があると想像してるのですが、
    > パニチェさんはどう想像しますか?

    〈私〉というか普通の意味での「私」とか自我意識ということであれば、脳の構造(魚→爬虫類→哺乳類→類人猿→ヒト)や認知能力(乳幼児→幼児→少年)によってグラデーション的に明瞭になっていくのだと思います。

    パニチェ以外の人や動物に〈〈私〉〉があるかどうかは不可知です。〈私〉パニチェ以外の人や動物、その他もものには厳密な意味ではありません(存在しません)。それは〈私〉ではないからです。

    ※「私」は普通の意味での私とします。〈〈私〉〉は直接経験的(マッハ的光景的)には不可知であるが、想像や類推上、他者にも存在するであろう〈私〉を〈〈私〉〉と表記します。

    > 読ませていただきました。

    ありがとうございます。

    > パニチェさんが、寝てる時、〈私〉は存在しますか?

    これも〈私〉ではなく「私」はあると思うので、〈私〉もあるということになります。
    理由は寝ていたのは他の誰でもなく「私」であることが記憶によって分かるからです。
    さらにパニチェの「私」があるところには必ず〈私〉があるからです。

    > パニチェさんのお考えになられてることを聞かせてもらえると嬉しいです。
    > よろしくお願いしますm(_ _)m

    こちらこそ、興味をもっていただき光栄です。
    よろしくお願いします。
    以下はウィトゲンシュタインの言葉で〈私〉をよく表している(もちろん完全には言い表せてないですが)と思えるものです。

    『私はこう言おう。「正直なところを言えば、たしかに、私には他の誰にもない何かがあると言わねばならない」、と。──だが、その私とは誰だ。──くそっ。私の言い方はまずいがそこに何かがあるんだ!君だって私の個人的な経験というものがあり、またそれには最も重要な意味での隣人というものがないことを否定すまい。──だが君はそれがたまたま孤独だと言うつもりではないだろう。君の言いたいのはその何かの文法上の位置が隣人のない場所にあるということだろう。「しかしどうしたわけか我々の言語には、そこに他と比べることのできない何か、すなわち真に現前している経験、があるということがあらわれてはこないのだ。私はそのことに甘んずるべきだと君は言いたいのか。」(おかしいことに、日常生活で日常言語を使っていて何かに甘んじなければならないと我々が感じることはまったくない。)(ウィトゲンシュタイン全集6『「個人的経験」および「感覚与件」について P.323』より)』

引用返信/返信 削除キー/
■4738 / inTopicNo.6)  Re[22]: 〈私〉について 15-1
□投稿者/ パニチェ -(2020/07/30(Thu) 01:45:19)
    2020/07/30(Thu) 09:47:53 編集(投稿者)

    わんばんこ、おくったがわさん。

    No4737に返信(おくったがわ(oktさんの記事)
    > 自然科学的な・内山老師のいわゆる自己一般の範囲では「私はなぜ〜」は「超難問」にはならないということを同意いただきましたので、問題は<私>だと。そこでやはり当面は minoriさんとパニチェさんの<私>に関する会話を追わせてください。

    了解しました。

    > そこで、その会話に関して疑問があるのですが、
    > ・私は教師である  −逆− 教師は私である
    > 左は教師であることが私であることの必要条件で、右は十分条件になっています。
    > 両者が言えれば、必要十分条件が言え、過不足ない定義になる。三角形の例のように。

    > そこで「教師は私である」タイプの一連の命題が、<私>を言い表せていない理由として
    > 私以外にも教師はいるから(=十分条件にならない)と説明されていますが、
    > その理由だと、「私」は教師である oktは教師である などでも言えるので、特に<私>が言語化できない根拠にはならないのではないでしょうか。独在的な主語でなくても言える理由なので。(現実には oktは教師ではないです。為念)

    4点あります。1点目は確認です、
    眼の図、マッハ的光景、独在性・独在的の定義など、全てロムいただいてますか?
    それとも返信いただいた直近の投稿だけロムされてますか?

    2点目は実験です。
    脳は意識である → 意識は脳である。
    上記の言明から脳は意識の必要十分条件と言えるでしょうか?言えないでしょうか?その理由も教えて下さい。

    3点目は反論です。
    上記のおくったがわさんの言い表せているかどうかの判定基準は真偽ではないですか?
    もしそうであるなら、言い表せているかどうかの判定基準を変更した上で必要十分条件となりえるかどかを問うているのではないでしょうか?

    4点目は問いかけです。
    上記で行っていることは必要十分条件であるかを真偽で問うているのではなく、「独在性的な私」が言い表すことができるかどうかというお題です。
    分かりやすくするために逆を表示しているだけで、本来、逆は必要ありません。

    「三角形は(同一線上にない)三つの点を直線で結んだ図形である」
    主語を私にしなくてもいいので、「独在的な私」を上記のように定義して下さいというお題です。
    ど〜ぞ♪^^

引用返信/返信 削除キー/
■4737 / inTopicNo.7)  Re[21]: 〈私〉について 15
□投稿者/ おくったがわ(okt -(2020/07/30(Thu) 00:00:04)
    No4662に返信(パニチェさんの記事)
    こんばんは。

    自然科学的な・内山老師のいわゆる自己一般の範囲では「私はなぜ〜」は「超難問」にはならないということを同意いただきましたので、問題は<私>だと。そこでやはり当面は minoriさんとパニチェさんの<私>に関する会話を追わせてください。

    そこで、その会話に関して疑問があるのですが、
    ・私は教師である  −逆− 教師は私である
    左は教師であることが私であることの必要条件で、右は十分条件になっています。
    両者が言えれば、必要十分条件が言え、過不足ない定義になる。三角形の例のように。

    そこで「教師は私である」タイプの一連の命題が、<私>を言い表せていない理由として
    私以外にも教師はいるから(=十分条件にならない)と説明されていますが、
    その理由だと、「私」は教師である oktは教師である などでも言えるので、特に<私>が言語化できない根拠にはならないのではないでしょうか。独在的な主語でなくても言える理由なので。(現実には oktは教師ではないです。為念)


    >>>>>>私は赤井みのりである → はい(本名はそれとは違うけど)
    >
    >>ここは言い当てていますよ。
    >
    > 同性同名の方がいるので、これも言い表していない(こちらの方が分かりやすいので「言い当てる」を「言い表す」に変更しました)ということになりませんか?
    >
    >
    >>>>>>(その他)
    >>>>>>私は新宿区新宿1−1−1に住む赤井みのりであり、母でもあり、妻でもあり、教師でもあり。。。以下これまでの言明。。哲学が好きな人間であり、女性であり、日本人である →
    >
    >>言い当てているところとそうでないところがあります。
    >
    > minoriさんが離婚し、職業も性格も他の全ての言明もminoriさんと同じような女性が再婚し、この住所に住むこともありえる状態なので、これも独在的なminoriさんを言い表している言葉にはならないのではないでしょうか?
引用返信/返信 削除キー/
■4734 / inTopicNo.8)  Re[38]: <私>と真我、無我 1
□投稿者/ パニチェ -(2020/07/29(Wed) 22:44:45)
    2020/07/30(Thu) 08:44:49 編集(投稿者)

    No4730に返信(knowing itselfさんの記事)
    > <私>と真我や無我との関係については、永井氏の「世界の独在論的存在構造」の付論「自我、真我、無我について」の最後の部分が説得的で、同意できます。
    > 両立すると思います。

    哲学探究1&2は私も読みました。
    ご指摘の付論については納得できるところもあれば、永井さんの独断によるものではないか、と思えるところと両方あります。

    さらに永井さんの哲学テーマである〈私〉とパニチェのライフホビーである「比類なき先言の<私>」が同じであるかどうかは(厳密には同じではありえないのですが)不確かなところも多分にあります。

    付論に懐疑的な部分は複数の覚者と〈私〉について議論した経験からきます。
    永井さんは底が抜けてないがために、あのように考えているという可能性もあるとパニチェは考えています。
引用返信/返信 削除キー/
■4733 / inTopicNo.9)  Re[39]: 第五図理解における違い
□投稿者/ パニチェ -(2020/07/29(Wed) 22:31:40)
    2020/07/30(Thu) 07:49:49 編集(投稿者)

    レスありがとうございます。

    No4728に返信(knowing itselfさんの記事)
    > 上記で永井氏が定義している意味とは、同書p153ー154に書かれている内容のことです。

    結論から言うと〈私〉は超越論的存在ということですね。

    >>私も永井さんや一照さんと同じく第五図、あるいは坐禅をせずとも第五図的なところに慈悲の源泉を認めることは超越的だと考えるからです。

    > 第五図に慈悲の源泉を認めること自体は、超越的と超越論的を分けるものではないと言えませんか?

    私はそのように考えています。
    同じく永井さんも「そこに慈悲とかを入れるのであれば、超越論的では足りないんですP.172」と述べており、私はこれに同意です(P.170〜P.172)。
    〈私〉はただそこにあるだけです。

    >>誤解をおそれずに言えば先験的に慈悲や仏性が備わっているというのはあくまでも宗教的な発想、つまり超越的発想であり、哲学とは言い難い。・・・(A)
    > 例えば良道氏は、先験的に慈悲や仏性が備わっているとは言っていないと思いますが。第五図に触れることが慈悲です。それは直接体験です。外にある慈悲や仏性を宗教的に信仰して、それを第五図に埋め込んでいるわけではありません。

    一照さんも言っているように、第五図の四角内に慈悲が発生する、厳密に言えば三昧から戻った後に第四図か、または第五図の四角内が慈悲に満たされていたということが分かるということであれば同意です。何故なら、三昧は自他の境界認識が消失しているはずですから、そこに他者に対する慈悲が発生するということは倫理的に矛盾することから何らかの飛躍(超越)があ必要となります。

    また見性体験には刷り込み効果が関与している可能性も排除しきれません。
    つまり一切衆生悉有仏性という教義が刷り込まれているために体験に慈悲が発生するということです。
    これは一切衆生悉有仏性への信仰であるとも言えます。
    クリスチャンの神秘体験と禅者の見性が微妙に違うのはこのためだと思ますし、脳をスキャンした結果も微妙に異なるようです。

    >>そういう意味でカントの理性や道徳についてトートロジー的な言明は究極的には信仰によるものだと判断しています。 ・・・・(A)

    > カントこそが超越論的な発想の代表であると、永井氏も言っているのではないですか。

    P.154ですね。
    これは言葉不足でした。(A)は永井さんがそのように考えているということではなくて、私がそのように考えているということでした。
    私はカントの解説書程度しか読んでおりませんし、ニーチェを通じて知っているところもあり、カント理解は浅いです。
    浅いなりに最終的にカントは信仰の人だと現段階では判断しているということです。

    knowing itselfさんに確認したいのですが、カントは人間が理性的な理由というか根拠、また最高善を担保するものは何だと述べているのでしょうか。
    まずはknowing itselfさんの理解を教えていただければ有難いです。

引用返信/返信 削除キー/
■4731 / inTopicNo.10)  時さんへ
□投稿者/ pipit -(2020/07/29(Wed) 22:03:54)
    時さん、こんばんは
    仏典の話題、こころ楽しいです (o^^o) ♪
    またいろいろお尋ねしたらすみません。

    返信ありがとうございます!


引用返信/返信 削除キー/
■4730 / inTopicNo.11)  <私>と真我、無我
□投稿者/ knowing itself -(2020/07/29(Wed) 21:58:58)
    <私>と真我や無我との関係については、永井氏の「世界の独在論的存在構造」の付論「自我、真我、無我について」の最後の部分が説得的で、同意できます。
    両立すると思います。
引用返信/返信 削除キー/
■4729 / inTopicNo.12)  パニチェさんへ
□投稿者/ pipit -(2020/07/29(Wed) 21:57:42)
    こんばんは!
    返信ありがとうございます(o^^o)
    また、質問させてくださいm(_ _)m

    >>質問1.〈今〉にしか〈私〉は、存在しないものですか?
    >
    > はい。これは〈私〉に限らず全ての存在が〈今〉にしか存在できないと考えています。
    > 過去は記憶、未来は予測や想像でしかないですから。
    > 例えば解離性同一障害(多重人格障害)者であっても〈私〉は都度存在します。<

    わたし、猫や犬にも〈私〉があると想像してるのですが、
    パニチェさんはどう想像しますか?



    >>質問2.パニチェさんが受精卵のとき、〈私〉はまだ存在してないと、パニチェさんは想像されますか?
    >
    > さすが、鋭い質問です!これは難しいですねぇ〜。
    > 「Panietzsche Room > 探究 > 〈私〉の哲学 > 3.拮抗運動」にも書き留めましたが、確か10年以上前にYahoo!掲示板での議論で投稿したことがあります。<

    読ませていただきました。


    > 結論から言うと分かりません。^^;
    > DNAで既に〈私〉が特化されているのか、DNAにしても当然、受精後でしょうね。
    > 脳の形成ははるかに後だし、身体性全体も脳だと考えれば神経系が形成された時かもしれないし、DNAで特化されてると言っても一卵性双生児やクローンでもそれぞれの〈〈私〉〉は別々ですから、よく分かりません。
    >
    > さらに〈私〉の形成は物理的要素だけではないと思ってるので、どこかの時点で生じるのか、創発するのか、収束するのか、入るのかなどなど、これもよく分かりません。
    >
    > ひとつ言えることは言語を習得することによってエピソード記憶が可能となり自己同一性が意識されるようになる。
    > この時期に物心がつくのだと思います。
    > この言語によって生じた「私」は〈私〉ではないと考えています。
    > その理由は言語習得以前に言語習得する主体(これを現段階では〈私〉と想定しています)がなければ言語的な「私」が生じるはずがないからです。
    >
    > ちなみに仏教で非我だとか無我って言ってるのは上記の言語的な我のことだとパニチェは考えています。
    > 目が開いた仏教者から悟りは言語によって分断された世界を知る前の赤子のような状態ってのを聞いたこともありますし。。。
    >
    > 「比類なき先言の<私>」の「先言」とは、言語に先んじて存在するという意味と、言語で語り得ないという二つの意味です。<


    パニチェさんが、寝てる時、〈私〉は存在しますか?


    パニチェさんのお考えになられてることを聞かせてもらえると嬉しいです。
    よろしくお願いしますm(_ _)m

引用返信/返信 削除キー/

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