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■44109 / inTopicNo.1)  Re[93]: つれづれなるままに
  
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/09/06(Sat) 18:40:34)
    No44106、ちょっと抜けちゃった。
    No43291の(資料Ap)から、っていうことを書こうととしたのね。

    ついでだから、
    No43913(本Kc)に、
    『一つの意識(『私』という自己意識)』
    〔事項索引〕のなかに、
    『一つの意識((私)という自己意識)』
    そして、
    No41672(本Ko)のp170では、
    〔「意識の統一」(あるいは一なる意識)〕
    ってあって、
    このところ、
    次に(本Kc)のなかから書き写してみま〜す。

    な〜んかあいかわらずの間違い、勘違いだらけのだけど、ここ「つれづれ」は、わたしに納得できればいいかな的なのだからね。

引用返信/返信 削除キー/
■44106 / inTopicNo.2)  Re[92]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/09/06(Sat) 15:33:23)
    No44064の(AQ2)をいま探ってるんだけど、

    No44093のつづき的に(資料Ap)の中からどころ抜き出して見るよ。

    No43291
    @―――――――――――
    「私とは・・・」と反省的に自分自身について思いを巡らせているところの、当の意識主観であるところの私とは何か。このように、自己意識において自らの自我を問う営みに際しては、その自明性が失われる。というのもこのような問いには次のような困難さが伴っているからである。すなわち、意識主観であるところの私自身を捉えようとする試みは、つねに無限後退に陥ってしまうという困難さである(1)。「私とは…」と思惟する意識主観(私)を自らの意識によって捉えようとした瞬間から、この試みを意識しているところのより高次の意識主観に気付く。そのためまた、この新たに出て来た意識主観を捉えようとするのだが、その時にはまたしても…と、この試みは延々と繰り返されていく。
    ―――――――――――――(p97)
    (注1)――――――――――
    ‥‥本稿はカントの主著『純粋理性批判』を中心に考察を行う。・・・ここでの「私」という表記に関して、本稿ではこれを以下の意味において用いる。まずこの「私」は、特定の具体的な特定の人格を意味するのではない。・・・この「私」とはしばしば「統覚」という概念と互換性をもつ概念であり、「自我das Ich」とも言い換えられる概念である(vgl.A400,B407)。次いで、この意味での「私」とは、経験の成立の可能性において、その論理的必然性から要請された「論理的的主観logishes Ich」(vgl.B350)である。本稿ではこのような意味における「私」を、「統覚」としての「私」と位置づけ使用する。
    ―――――――――――――
    @に〔より高次の意識主観〕ってあって、カントの場合「より高次」ってなるのかも(だって神的なものが大前提にある感じだし)だけど、わたしのばあい〈より原初な〉っていうふうに考えて見てる。
    そして「意識主観」だから、@では〈経験的な意識〉についての、ってして見とく。
    (注1)からは、
    「統覚」=「自我das Ich」
    「私」っていうのを経験的な場合の、ってして見る。(私)の方じゃなくてね。
    〔「自己」という意識が存在するとはいかなることであるのかという観点から考察を行う。〕(p98)
    ってあるから、
    (s-c)「自己意識」っていうのを「自己という意識が存在する」っていうふうに見とくことにしたよ。
    A――――――――――――――――――
    カント哲学において自己意識を論じる際、「統覚Apperzeption」という概念が非常に重要な位置を占める(3)。
    その主要な理由はこの「統覚」という概念が文字通り「自己意識」という言葉でしばしば言い換えられている概念だか
    らである。(vgl. A49/B68,A107f.,Anm.,B132)。
    ――――――――――――――――――――(p98)
    再掲だけど、
    (注3)――――――――――――
    『純粋悟性概念』においては、「超越論的統覚trenszendental Apperzeption」(A106f.)、「根源的統覚ursptungliche Apperzeption」(B132)、「純粋統覚reine Apperzeption」(ebd)、「経験的統覚Eopirisce Apperzeption(内的感官innere Sinn))(A107)
    という四種の「統覚」概念が登場する。前の三者は、「経験的統覚」と対置される概念として使用され、それゆえこれらは経験的に与えられ得るような性格をもたず、むしろ経験の可能性の必然的条件として位置づけられている。ところが前三者について、これらを一括して同一視し得るか否かは研究者の中でも意見が分かれている。
    本稿ではこの種の議論を扱うことはできないため、ここでは「経験的統覚」から区別された概念として一括しに「統覚」と表記し、上記のような意味においてこれを使用することとする。
    ―――――――――――――――――――
    そして、
    B――――――――――――――――――
    カント自身が本来意図していたところの自己意識とはいかなるものか。…注目に資するのが「統覚」の「自発性の作用Actus der Spontaneität」である(B132)。・・・このさようとは、感性の直観において諸表象の多様が与えられた際、それを総合的に統一し、一であり同一なる経験主観の自己意識の下へと帰属させる作用である。
    ・・・・・・
    「統覚」が作用する際にこそ、経験主観としての私の現存在が意識されると語られる(vgl.B157,B420).
    ―――――――――――――――(p98)
    ってあって、
    〔自我を反省的に捉えようとする試みがカント自身において行われていない…〕(p101)
    とか、
    〔「(self)-consciousness(自己)意識」という概念はカント自身の議論においては登場しない…〕(注40)
    っていうことらしいんだけど、
    C――――――――――――――――
    自己意識の主観を巡る試みに伴う困難さを十分に理解していたカントは、このことについて以下のように言及する。すなわち、自己意識の主観であるところの私、厳密には私という「指標辞」の背後にある意識主観については、「超越論的主観=X」としてしか表現することができず、我々はこれを決して知り得ることはない(A346/B404)。
    ――――――――――――――(p100)
    ってあった。
    Cに「超越論的主観=X」ってあるけど、我々人間には知ることができない、っていう意味でXってしてるんだと思うし、だから(私)って、私を( )で括って表記してるんだと思う。

    「超越論的主観」なんだけど、中島義道さんは、
    (NtS)―――――――――――――
    ここで、補足的に多くの研究者が誤用している「超越論的主観」(transzendentales Subjekt)という言葉の原意に触れておく。カントの場合、いまだ「主観」という言葉には「基体」(Substratum)という意味が残っており、それは実体としての不滅の魂という意味を呼び起こす危険性を持っている。そこで、彼は自我についてはこうした「超越論的主観」という側面を徹底的に批判し、「作用体」という側面だけをあらわす「超越論的統覚」を採用した。つまり、カントにとって、自我とは「超越論的統覚」であって「超越論的主観」ではないのである。
    ――――――――――――――――
    って言ってる(わたしのノートにあったんだけど、出どころ記録しておかなかった)。
    (NtS)から、カントの場合、
    「自我」=作用体=超越論的統覚
    っていうふうにして見とく。

    なんか長くなっちゃたけど、ひとまず、

    (a)経験的の方を「私」、超越論的の方を(私)、って表記して区別して見る。
    っていうことと、
    (b)「自己意識」=「自己という意識が存在する」
    っていうふうに見たんだけど、「自己」を〈私〉、「意識」を〈コギト(私は考える)〉ってして、

    (Asc)「自己意識」=〈私というコギト(私は考える)が存在する〉

    なんかへんかもだけど、ひとまずこうしといて。

引用返信/返信 削除キー/
■44093 / inTopicNo.3)  Re[91]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/09/04(Thu) 18:23:10)
    No44052のカントの「現存在」(っていう日訳)、ちょっと見つけちゃったかも。

    No44064の(AQ2)を調べてるなかで、
    No43291(資料Ap)を読み返してたら、(注22)に、

    (22)――――――――――――――――――
    「私が存在する」という表現に関して注意すべき重要な点がある。それは、「私が存在する(私が在る)」と言明した際、この「存在する(在る)」という述語規定が、外的事物に関して判断を下す際に使用される「〜が(そこに)在る」という述定とは異なるという点である。「私が存在するIch bin」という言明は別の個所で「私の現存在mein Dasein」(b157)あるいは「現存Existenz」(B423)」と表現される。特にこの「現存」が「いかなるカテゴリーでもない」と語られる点が非常に重要である(ebd.)。外的事物に関して「〜が在る」という判断を下す際、この言明は感性の直観において与えられるに対しカテゴリーが適用されることでなされる。…「私」は何ら認識され得るような対象ではない。…「私が存在する」という言明は対象認識(判断)ではなく、単なる「意識」である。…この「存在する」として意識される点こそが「私の存在意識」を議論する際に非常に重要な論点となるのである。
    ―――――――――――――――――――――
    ってあったのね。
    どうやらカントの場合、
    「私が存在するIch bin」=「私の現存在mein Dasein」=「現存Existenz」」
    っていうことになってるみたい。
    もう一箇所、
    (p102)――――――――――――――――――――――
    以上から帰結されることは、「私が存在する」という意識が、「統覚」の作用に際して現れるということである。さらに、この私の存在意識は「無規定的」にではあるが、しかし「何らかの実在的なもの」として「知覚」されるということも示された(34)。当然「私の存在意識」とは、明確な客観として現象するものではないため、いかなる規定可能性の余地も残されてはいない。しかしながらそれでも、この「無規定的な知覚」は、私が思惟するに際し(したがって「統覚」が作用するに際し)、現に直接的に実感できる存在意識である。このように感じられる意識こそ、カントが本来意図していたところの自己(の存在)意識である。より厳密に示せばこれは、思惟において「現に存在する」として意識される「おのれ」という感じであるといえよう(35)。
    ―――――――――――――――――――――――
    で、注に、
    ――――――――――――――――――――――――
    (注34)
    この引用箇所における「もの」という表現であるが、これまでの論証かも明らかなとおり、この表現によって「私の存在意識」が何らか事物的な存在として意味されているわけでは当然ない。
    (注35)
    ここまで、意識主観であるところの私の存在意識は、「感じ」のような感性系統の表現によって示されていることは筆者の恣意的な操作ではない。カント自身が現に主張している通り「私の現存在は常にもっぱら感性的なものに留まるmein Dasein bleibt immer nur sinnlich」のである(B158Anm)。
    ―――――――――――――――――――――――――――――
    ってあった。

    (A)「統覚」が働くとき、「私が存在する」という意識〈コギト〉が現れて、そして、その「私」っていうのは、思惟において「現に存在する」っていう“感じ”みたいなの。

    でいいかな。
    カントの場合やっぱ〔思惟において〕っていうのははずせないところかな。

    この「統覚」っていうのがどの統覚なのかは分かんない。
    No43695にあるように「統覚」っていってもいろんなのがあるみたいだし。

引用返信/返信 削除キー/
■44088 / inTopicNo.4)  Re[90]: 間違えてたかも( ノД`)シクシク…
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/09/03(Wed) 20:06:34)
    No44080、pipiさま、
    >失礼しましたm(__)m<
    そんなこと、じぇんじぇんです。カントのについてお喋りできてうれしいで〜す。
    わたしカントの、pipiさまほと詳しくないし。ほら、わたしメルポン派の、だから。

    >もひとつ感想…一つの対象が意識にこんにちわしてくれる世界観の方がラクな気もしてくるなあ〜<

    <ラク>っていうのが〈楽〉っていうのだったら、対象の〈見方が広がってく〉っていう、そういう方のもわたしも楽しいのかも。

    その点、カントのはどうなのかしら?ってわたし思ってるのね

    なんか、カントの、〈知覚世界〉をカントが考え出したカテゴリー(純粋悟性概念)に閉じ込めようとしてる(包摂する)のをわたし感じてるのね。
    簡単に言っちゃうと、わたしの目の前にいるあるものを”概念で見ること”がさも”あたりたり前”であるかのように、そしてそれが客観的で、その客観的であることがさも必然で普遍的なことであって、それが真である、そういうのが価値あることである、みたいな?
    カント、「妥当」(日訳で)っていう用語で、上のような主張を”ごまかしてる”感じするのよね〜。(あ、これは日本のカント研究者がカントを擁護するためのかも?だけどね)。

    あ、これもわたしの間違えかもだけどね。
    わたしのばあい、そんなのおかまいなし。





引用返信/返信 削除キー/
■44080 / inTopicNo.5)  間違えてたかも( ノД`)シクシク…
□投稿者/ pipit -(2025/09/02(Tue) 20:16:17)
    2025/09/02(Tue) 20:51:26 編集(投稿者)

    悪魔ちゃん、こんばんは!

    No44072
    >
    > (超越論的統覚についてのpipit私見)
    >
    > 例えば、
    > ある時のカマキリについての意識
    > ある時の茄子についての意識
    > ある時のカエルについての意識
    >
    > 意識についての意識---「上記の意識は全部「私」の意識です。」---自己意識---カマキリを、茄子を、カエルを、見てる、見てきたのは、、、この「私」
    > ・・・と、考えるように(意識するように)アプリオリにプログラミングされてるのが認識の主(主が分割出来ない単一の実体とは限らない)。
    >
    > って感じかなーと思ってます。<

    って書いたんだけど、上記はもしかしたら、超越論的統覚ではなく、「意識の主観的な統一」にあたるかも!?と、先ほど純粋理性批判B139を読んで思いました。

    って言っても難しくてわからんけど(´;ω;`)ウゥゥ

    上記pipit感想部分が「主観的な意識の統一」としたら、超越論的統覚ってもしかしたら、いろんな感性データを超越論的統覚を根底にカテゴリーで一つの対象に紐づけて理解する(=対象が客観的に生じる)。そんなことを思いました。これも違うかもですが(/・ω・)/?

    とりあえず、『純粋理性批判 上』以文社、p192のB139の文章を引用しますね。
    m(__)m

    (カントの文章の田村一郎先生訳)
    『§18 自己意識の客観的統一とは何か
     統覚の超越論的統一とは、直観において与えられたすべての多様がそれによって客観の概念に統合される統一のことである。したがってこの統一は客観的と呼ばれ、意識の主観的な統一からは区別されなければならない。』

    失礼しましたm(__)m

    もひとつ感想…一つの対象が意識にこんにちわしてくれる世界観の方がラクな気もしてくるなあ〜
引用返信/返信 削除キー/
■44078 / inTopicNo.6)  Re[90]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/09/02(Tue) 19:40:30)
    個人的なはなしなんだけど〜
    わたし本を読んであれこれ考えるの好きなのね。

    AIって本読んでるのかしら?って。
    あ、その前に、そもそも本読むことができるのかしら?って。

    とりとめもなくね。
引用返信/返信 削除キー/
■44076 / inTopicNo.7)  Re[89]: B132
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/09/02(Tue) 19:17:06)
    No44072、pipiさま、

    No44064の(AQ2)に関係すると思われる(中山元先生の解説の引用)、ありがとございま〜す。参考にさせてもらいます。わたしにはまだよく分かんないけど。

    中山さんのでちょっと思ったことだけ書くと、

    >「自己統合」<
    っていう(訳仕方?)の意味わかんなかった。

    >すべての直観作用とそれによる像を内的に統一する能力の存在を示すことなのだ<
    っていうところで想いだしたのが、
    【「カント」小牧治著清水書院1967】の、「有限なる人間の知」(p142〜)の中に、
    KK―――――――――――――
    われわれの先天的な能力・形式によって、対象や経験が構成されると、カントはいう。しかし、このばあい、わすれてはならぬことは、われわれ人間は、人間であるということである。もし、神ならば、神は思考することによって、ただちに対象を、天地万物を、創造するであろう。しかし、人間がつくるのは、先天的な形式・型、まさに人間としての先天的な能力による組み立てであり、構成であるにすぎない。という意味は、人間には、素材そのものをまでつくりあげることは、許されていないということである。人間は、人間に与えれてくれる材料をまとめあげる(総合する)働きをするのであり、それだけであって、それ以上ではない。われわれは、経験的にあたえられてくる素材をくみたてまとめあげて、まとまりのある経験的世界や自然的対象をつくりあげる。経験的世界ないし自然にかんするわれわれの知識、われわれの判断は、なるほど真理であり、先天的総合判断であることができる。このような真理ないし判断は、たしかに、経験的なものではない。しかし、経験をはなれることはできない。経験から生じるのではないが、経験をはなれ、経験しなくしては成りたたないのである。したがって、自然科学的な真理は、経験の範囲を超えでることはできないのである。
    ―――――――――――――――
    っていうの。
    ようするに、
    〔人間がつくるのは、先天的な形式・型、まさに人間としての先天的な能力による組み立てであり、構成である〕っていう<統一する能力の存在を示すこと>
    ってわたし見たのね。

    「B132伴うことができるのでなければならない」から話ズレてるかもだけど、ちょっとか言っちゃった。

引用返信/返信 削除キー/
■44072 / inTopicNo.8)  B132伴うことができるのでなければならない
□投稿者/ pipit -(2025/09/01(Mon) 22:23:41)
    2025/09/01(Mon) 22:42:14 編集(投稿者)

    悪魔ちゃん、こんちは(^○^)

    (超越論的統覚についてのpipit私見)

    例えば、
    ある時のカマキリについての意識
    ある時の茄子についての意識
    ある時のカエルについての意識

    意識についての意識---「上記の意識は全部「私」の意識です。」---自己意識---カマキリを、茄子を、カエルを、見てる、見てきたのは、、、この「私」
    ・・・と、考えるように(意識するように)アプリオリにプログラミングされてるのが認識の主(主が分割出来ない単一の実体とは限らない)。

    って感じかなーと思ってます。

    カマキリの意識と自己意識が完全に同時に現れてるのではなく、能力としての「伴うことができる(可能である)自己意識」。
    私は以下の中山元先生の解説を読んで、カントの文脈を上記のように捉えました。

    ------------------
    (中山元先生の解説の引用)
    『純粋理性批判2』光文社古典新訳文庫、P367‐371

    『わたしが心の中で思い描くすべての像には、「わたしは考える」ということが「伴うことができるのでなければならない」(同)とカントは表現する。これは人間の意識の構造についての巧みな表現である。
     というのは、意識というものには奇妙な逆説があるが、この表現はその逆説を巧みに言い換えているからだ。意識には二つの逆説がある---自己意識の逆説と、意識の塗り替えの逆説である。まず自己意識の逆説から考えよう。今、庭の樹木を眺めているとしよう。ぼくの意識にはケヤキの樹が映っている。ぼくが意識しているのはケヤキである。ぼくはその時、自分が意識していることを意識することはない。それからふと、ぼくは自分がケヤキを眺めていると意識したとしよう。そのとき意識は自己を意識する。その瞬間にぼくの意識からケヤキは消滅する。意識はいわば容器のようなものである。何かを意識するときには、自己を意識してはならないし、自己を意識しているときは、何かを意識することはできないのだ。だから対象を意識するときには、その背後に、「わたしは考える」という自己意識が存在していなければならないが、それが意識の表面にでてきてはならないのだ。カントが「伴うことができるのでなければならない」というのは、この逆説を巧みに逃れている。「できる」だけであって、「伴って」いては困るのだ。
     第二の意識の塗り替えの逆説は、意識というものは時間的なものであり、継起するものであり、何かをずっと意識しつづけていることはしないし、できないものであることから生まれる。(略)だからぼくがケヤキを意識したときは、その意識は白紙のようにケヤキの像を記録するが、その意識の後にキジバトの意識がつづくとき、ケヤキの意識は消滅してしまってはならない。しかもキジバトの意識は白紙の上に書かれたように、真新しいものでなければならない。しかもそれらの意識が別々の白紙のようにひらひらと宙を漂うのではなく、同じ〈わたし〉の意識のうちで統合されていなければならない。「そうでなければわたしは、自分が意識する像の数と同じだけの多様な異なる自己をもっていることになってしまうだろう」(145)。この統合の可能性を実現するのが、ケヤキについての意識とキジバトについての意識につねに「伴うことができる」〈わたし〉の意識なのである。この自己統合の意識は、〈わたし〉という意識のアイデンティティを確立するとともに、わたしのうちの複数の意識の統合を実現するのである。この二つの統合において、「自己意識の超越論的な統一」(144)が成立するのである。
     カントはこの自己統合の意識を「わたしは考える」と表現した。これはデカルトの「コギト」と似た表現であるが、ここで目的とされているのは、デカルトのように、懐疑の対象とならない確実なものをみつけだすことではなく、すべての直観作用とそれによる像を内的に統一する能力の存在を示すことなのだ。「できるのでなけれなならない」(同)という表現は、それが「能力」であることを暗黙的に示唆している。〈わたし〉はたんに触発されて像を直観する存在ではなく、多様なもののマッスを一つの像に統一する能力をそなえた能動的な主体なのであり、その能力の働きが、この「根源的な自己統合の意識」(同)なのである。この能力は「知性そのものなのである」(145n)というカントの力強い断言に注目しよう。』
    引用終了

    ー−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

    虫ちゃんに会いました。

    おやすみなさい(-_-)zzz
1440×1080 => 600×450

musichan.jpg
/255KB
引用返信/返信 削除キー/
■44070 / inTopicNo.9)  Re[87]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/09/01(Mon) 18:39:54)
    No44063で、わたし、
    >(本Kc)では、たしか「考えることはできる」みたいな表現があったと思う。
    これ、〈我々人間は○○について「考えることはできる」けど、知ることはできない〉、みたいなニュアンスでわたし受け取って見てます。<
    って、「知ることはできない」ってしたけど「認識することはできない」の方がカント的にはいいのかな?って。

    っていうのは、いろいろ調べてるなかで、”あれ?”って思ったなかの一つのを想いだして、
    (本Kc)の「事項索引」のなかに、
    (18)『思惟と認識は同じではない、認識は一般に対象を思惟するためのカテゴリーと対象を与える直観を必要とするからである』146
    っていうのあったから。

引用返信/返信 削除キー/
■44066 / inTopicNo.10)  Re[86]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/08/31(Sun) 19:41:10)
    No44065、おまけ。

    AI開発者、哲学者の書物読んだ方がいいと思うんだけどな〜。
    (あ、知定能の人たちはここ見てないか)
引用返信/返信 削除キー/
■44065 / inTopicNo.11)  Re[85]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/08/31(Sun) 19:20:43)
    そこはかとなく、ね

    「人工知能」って「知能」だけに、ん〜ん、「人間の知識」だけに、特化すればいい機械であればいいんじゃいかしら?それ以上んことはたぶんムリ。だって「身体」−―人間やミミズ、犬やカエル…のような「身体」−―もってないし〜(あ、っていうことはAIはミミズにも劣る存在って見ることもできるのかな?)。
    簡単に言えば「感性」が存在しない存在”物”かな。

    「知識」だけを求めるなら、「AI」は「一つの使える道具」だとわたし思うのね。

    カント的に言えば、「私(AI)は、実際に知覚することはできない」みたいな?

    ミミズの「知能」にも劣るAIの「知識」が言ってることがまさか正解かのように”信じて”しまってる、っていうことはないよね?(ごめんねミミズさん)。

    AIって知的な遊び玩具としてはおもしろそうだけど、でもそれを新興宗教(教え)的になっちゃうとね〜。




引用返信/返信 削除キー/
■44064 / inTopicNo.12)  Re[84]: つれづれなくままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/08/31(Sun) 17:14:42)
    No44063、あ、「超越論的対象《X》」→〈(人間のうちにある)神的々対象《X》〉でした。
    これ書かなくてもよかったんだけど、わたし用にね。

    No44062でカントの言う「経験Erfahrung」のわたしの見方ができたところで、
    ついでに、
    カントが言ってること、いまいちわたしにわかんないところ、忘れないうちにちょと書いとくと。

    (AQ1)
    『私は、外的な物を実際に知覚することはできない。』(本Kc)p193
    →カントの「知覚」の意味と、それと「現象」と「直観」と「悟性」の関係について(これまだつづいてるのね)

    (AQ2)
    「意識の統一」=「一つの意識」=「根原的統覚」=「『私』という自己意識」(本Kc)p166〜169

    (AQ3)
    『先験的対象《X》』(本Kc)(p157)

    (AQ4)
    『対象の概念を感性化することも、また対象の直観を悟性化することも認識とって必要である』75

    だいたいこんなところかな。いまこれに取り組んでるところ。
    あ、これもわたし用ね。

引用返信/返信 削除キー/

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