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No44093 の記事


■44093 / )  Re[91]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/09/04(Thu) 18:23:10)
    No44052のカントの「現存在」(っていう日訳)、ちょっと見つけちゃったかも。

    No44064の(AQ2)を調べてるなかで、
    No43291(資料Ap)を読み返してたら、(注22)に、

    (22)――――――――――――――――――
    「私が存在する」という表現に関して注意すべき重要な点がある。それは、「私が存在する(私が在る)」と言明した際、この「存在する(在る)」という述語規定が、外的事物に関して判断を下す際に使用される「〜が(そこに)在る」という述定とは異なるという点である。「私が存在するIch bin」という言明は別の個所で「私の現存在mein Dasein」(b157)あるいは「現存Existenz」(B423)」と表現される。特にこの「現存」が「いかなるカテゴリーでもない」と語られる点が非常に重要である(ebd.)。外的事物に関して「〜が在る」という判断を下す際、この言明は感性の直観において与えられるに対しカテゴリーが適用されることでなされる。…「私」は何ら認識され得るような対象ではない。…「私が存在する」という言明は対象認識(判断)ではなく、単なる「意識」である。…この「存在する」として意識される点こそが「私の存在意識」を議論する際に非常に重要な論点となるのである。
    ―――――――――――――――――――――
    ってあったのね。
    どうやらカントの場合、
    「私が存在するIch bin」=「私の現存在mein Dasein」=「現存Existenz」」
    っていうことになってるみたい。
    もう一箇所、
    (p102)――――――――――――――――――――――
    以上から帰結されることは、「私が存在する」という意識が、「統覚」の作用に際して現れるということである。さらに、この私の存在意識は「無規定的」にではあるが、しかし「何らかの実在的なもの」として「知覚」されるということも示された(34)。当然「私の存在意識」とは、明確な客観として現象するものではないため、いかなる規定可能性の余地も残されてはいない。しかしながらそれでも、この「無規定的な知覚」は、私が思惟するに際し(したがって「統覚」が作用するに際し)、現に直接的に実感できる存在意識である。このように感じられる意識こそ、カントが本来意図していたところの自己(の存在)意識である。より厳密に示せばこれは、思惟において「現に存在する」として意識される「おのれ」という感じであるといえよう(35)。
    ―――――――――――――――――――――――
    で、注に、
    ――――――――――――――――――――――――
    (注34)
    この引用箇所における「もの」という表現であるが、これまでの論証かも明らかなとおり、この表現によって「私の存在意識」が何らか事物的な存在として意味されているわけでは当然ない。
    (注35)
    ここまで、意識主観であるところの私の存在意識は、「感じ」のような感性系統の表現によって示されていることは筆者の恣意的な操作ではない。カント自身が現に主張している通り「私の現存在は常にもっぱら感性的なものに留まるmein Dasein bleibt immer nur sinnlich」のである(B158Anm)。
    ―――――――――――――――――――――――――――――
    ってあった。

    (A)「統覚」が働くとき、「私が存在する」という意識〈コギト〉が現れて、そして、その「私」っていうのは、思惟において「現に存在する」っていう“感じ”みたいなの。

    でいいかな。
    カントの場合やっぱ〔思惟において〕っていうのははずせないところかな。

    この「統覚」っていうのがどの統覚なのかは分かんない。
    No43695にあるように「統覚」っていってもいろんなのがあるみたいだし。

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