| ■44072 / ) |
B132伴うことができるのでなければならない
|
□投稿者/ pipit -(2025/09/01(Mon) 22:23:41)
| 2025/09/01(Mon) 22:42:14 編集(投稿者)
悪魔ちゃん、こんちは(^○^)
(超越論的統覚についてのpipit私見)
例えば、 ある時のカマキリについての意識 ある時の茄子についての意識 ある時のカエルについての意識
意識についての意識---「上記の意識は全部「私」の意識です。」---自己意識---カマキリを、茄子を、カエルを、見てる、見てきたのは、、、この「私」 ・・・と、考えるように(意識するように)アプリオリにプログラミングされてるのが認識の主(主が分割出来ない単一の実体とは限らない)。
って感じかなーと思ってます。
カマキリの意識と自己意識が完全に同時に現れてるのではなく、能力としての「伴うことができる(可能である)自己意識」。 私は以下の中山元先生の解説を読んで、カントの文脈を上記のように捉えました。
------------------ (中山元先生の解説の引用) 『純粋理性批判2』光文社古典新訳文庫、P367‐371
『わたしが心の中で思い描くすべての像には、「わたしは考える」ということが「伴うことができるのでなければならない」(同)とカントは表現する。これは人間の意識の構造についての巧みな表現である。 というのは、意識というものには奇妙な逆説があるが、この表現はその逆説を巧みに言い換えているからだ。意識には二つの逆説がある---自己意識の逆説と、意識の塗り替えの逆説である。まず自己意識の逆説から考えよう。今、庭の樹木を眺めているとしよう。ぼくの意識にはケヤキの樹が映っている。ぼくが意識しているのはケヤキである。ぼくはその時、自分が意識していることを意識することはない。それからふと、ぼくは自分がケヤキを眺めていると意識したとしよう。そのとき意識は自己を意識する。その瞬間にぼくの意識からケヤキは消滅する。意識はいわば容器のようなものである。何かを意識するときには、自己を意識してはならないし、自己を意識しているときは、何かを意識することはできないのだ。だから対象を意識するときには、その背後に、「わたしは考える」という自己意識が存在していなければならないが、それが意識の表面にでてきてはならないのだ。カントが「伴うことができるのでなければならない」というのは、この逆説を巧みに逃れている。「できる」だけであって、「伴って」いては困るのだ。 第二の意識の塗り替えの逆説は、意識というものは時間的なものであり、継起するものであり、何かをずっと意識しつづけていることはしないし、できないものであることから生まれる。(略)だからぼくがケヤキを意識したときは、その意識は白紙のようにケヤキの像を記録するが、その意識の後にキジバトの意識がつづくとき、ケヤキの意識は消滅してしまってはならない。しかもキジバトの意識は白紙の上に書かれたように、真新しいものでなければならない。しかもそれらの意識が別々の白紙のようにひらひらと宙を漂うのではなく、同じ〈わたし〉の意識のうちで統合されていなければならない。「そうでなければわたしは、自分が意識する像の数と同じだけの多様な異なる自己をもっていることになってしまうだろう」(145)。この統合の可能性を実現するのが、ケヤキについての意識とキジバトについての意識につねに「伴うことができる」〈わたし〉の意識なのである。この自己統合の意識は、〈わたし〉という意識のアイデンティティを確立するとともに、わたしのうちの複数の意識の統合を実現するのである。この二つの統合において、「自己意識の超越論的な統一」(144)が成立するのである。 カントはこの自己統合の意識を「わたしは考える」と表現した。これはデカルトの「コギト」と似た表現であるが、ここで目的とされているのは、デカルトのように、懐疑の対象とならない確実なものをみつけだすことではなく、すべての直観作用とそれによる像を内的に統一する能力の存在を示すことなのだ。「できるのでなけれなならない」(同)という表現は、それが「能力」であることを暗黙的に示唆している。〈わたし〉はたんに触発されて像を直観する存在ではなく、多様なもののマッスを一つの像に統一する能力をそなえた能動的な主体なのであり、その能力の働きが、この「根源的な自己統合の意識」(同)なのである。この能力は「知性そのものなのである」(145n)というカントの力強い断言に注目しよう。』 引用終了
ー−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
虫ちゃんに会いました。
おやすみなさい(-_-)zzz
|
|