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Re[82]: つれづれなるままに
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□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/08/31(Sun) 15:56:09)
| No44049のづづき、カント用語のわたしの見方ね。
カントの「経験Erfahrung」についてなんだけど、
No43913(本Kc)の 〔本文〕のなかに、 (a)『経験は、我々の悟性が感性的という生(なま)の材料に手を加えて作り出した最初の所産である』(p227) 〔事項索引〕のなかに (b)『対象は我々の感覚を触発し或はみずから表象を作り出し或は我々の悟性をはたらかせてこれらの表象を比較し結合しまた分離して感覚的印象という生の素材に手を加えて対象の認識にする、そしてこの認識が経験と言われるのである』 1 (c)『経験は現象の綜合的統一に基づいている、かかる綜合がないと経験は認識にならないのであって、知覚の漠然たる断片にすぎない』 195
(本Ko)で、 (d)〔私たちは、経験にはさまざまな経験があり、各人が各様の経験をもっていると思いがちです。しかしカントは「経験はただ一つ」あるだけで、私たちがさまざまの経験と思っているものは、実はさまざまな知覚に過ぎないというのです。このとき私たちは、「経験」という概念がここで限定された固有の意味で用いられていること、またカントが論じる「経験」はこのように限定されたものであることを踏まえる必要があります、〕(p179) ってある。 カントいう経験っていうの、〈さまざまな個人の体験〉のことじゃなくて、〈それらが一つの思考-概念化されたもの〉みたいな感じのことをいってるのかも。
もう一つ、 No43291(資料Ap)の(注7)に、 (e)〔カントにおいて、「経験Eefahrung」とは「経験的認識empirishe Erkennthis」を意味する(vgl. B147)。そこで本稿では「認識」という表現を「経験的認識」という意味に限定し、その限りで「経験」と同義のものとして使用する。〕 っていうのもあった。
でね、これらからわたしのどうしとっかな〜、って思って、〈生(なま)の感性的感覚に経験的悟性が手を加えて認識(判断)したもの〉みたいな意味で、 カントの、
・G「経験」 → 経験的悟性(コギト)加工認識
ってして見ることにしたんだけど、な〜んか堅苦しい感じ。
さまざまな個人的体験をさすものではない、を強調するために、 G2「経験」 → さまざまな個人的体験が概念化されたもの でもいいかな。 だいたいこんな感じにしとくことにしたよ。
カントも〈感性〉を〈生(なま)〉って見てるみたい。でもカントは〈考えられた知覚〉とか〈コギトとしての知覚〉みたいになってる感じ。 ここらへんがメルポンのと違うところかな?メルポンは悟性に加工される前の〈生(なま)の知覚〉を記述しようとしてるってわたし見てるから。
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