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No44106 の記事


■44106 / )  Re[92]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/09/06(Sat) 15:33:23)
    No44064の(AQ2)をいま探ってるんだけど、

    No44093のつづき的に(資料Ap)の中からどころ抜き出して見るよ。

    No43291
    @―――――――――――
    「私とは・・・」と反省的に自分自身について思いを巡らせているところの、当の意識主観であるところの私とは何か。このように、自己意識において自らの自我を問う営みに際しては、その自明性が失われる。というのもこのような問いには次のような困難さが伴っているからである。すなわち、意識主観であるところの私自身を捉えようとする試みは、つねに無限後退に陥ってしまうという困難さである(1)。「私とは…」と思惟する意識主観(私)を自らの意識によって捉えようとした瞬間から、この試みを意識しているところのより高次の意識主観に気付く。そのためまた、この新たに出て来た意識主観を捉えようとするのだが、その時にはまたしても…と、この試みは延々と繰り返されていく。
    ―――――――――――――(p97)
    (注1)――――――――――
    ‥‥本稿はカントの主著『純粋理性批判』を中心に考察を行う。・・・ここでの「私」という表記に関して、本稿ではこれを以下の意味において用いる。まずこの「私」は、特定の具体的な特定の人格を意味するのではない。・・・この「私」とはしばしば「統覚」という概念と互換性をもつ概念であり、「自我das Ich」とも言い換えられる概念である(vgl.A400,B407)。次いで、この意味での「私」とは、経験の成立の可能性において、その論理的必然性から要請された「論理的的主観logishes Ich」(vgl.B350)である。本稿ではこのような意味における「私」を、「統覚」としての「私」と位置づけ使用する。
    ―――――――――――――
    @に〔より高次の意識主観〕ってあって、カントの場合「より高次」ってなるのかも(だって神的なものが大前提にある感じだし)だけど、わたしのばあい〈より原初な〉っていうふうに考えて見てる。
    そして「意識主観」だから、@では〈経験的な意識〉についての、ってして見とく。
    (注1)からは、
    「統覚」=「自我das Ich」
    「私」っていうのを経験的な場合の、ってして見る。(私)の方じゃなくてね。
    〔「自己」という意識が存在するとはいかなることであるのかという観点から考察を行う。〕(p98)
    ってあるから、
    (s-c)「自己意識」っていうのを「自己という意識が存在する」っていうふうに見とくことにしたよ。
    A――――――――――――――――――
    カント哲学において自己意識を論じる際、「統覚Apperzeption」という概念が非常に重要な位置を占める(3)。
    その主要な理由はこの「統覚」という概念が文字通り「自己意識」という言葉でしばしば言い換えられている概念だか
    らである。(vgl. A49/B68,A107f.,Anm.,B132)。
    ――――――――――――――――――――(p98)
    再掲だけど、
    (注3)――――――――――――
    『純粋悟性概念』においては、「超越論的統覚trenszendental Apperzeption」(A106f.)、「根源的統覚ursptungliche Apperzeption」(B132)、「純粋統覚reine Apperzeption」(ebd)、「経験的統覚Eopirisce Apperzeption(内的感官innere Sinn))(A107)
    という四種の「統覚」概念が登場する。前の三者は、「経験的統覚」と対置される概念として使用され、それゆえこれらは経験的に与えられ得るような性格をもたず、むしろ経験の可能性の必然的条件として位置づけられている。ところが前三者について、これらを一括して同一視し得るか否かは研究者の中でも意見が分かれている。
    本稿ではこの種の議論を扱うことはできないため、ここでは「経験的統覚」から区別された概念として一括しに「統覚」と表記し、上記のような意味においてこれを使用することとする。
    ―――――――――――――――――――
    そして、
    B――――――――――――――――――
    カント自身が本来意図していたところの自己意識とはいかなるものか。…注目に資するのが「統覚」の「自発性の作用Actus der Spontaneität」である(B132)。・・・このさようとは、感性の直観において諸表象の多様が与えられた際、それを総合的に統一し、一であり同一なる経験主観の自己意識の下へと帰属させる作用である。
    ・・・・・・
    「統覚」が作用する際にこそ、経験主観としての私の現存在が意識されると語られる(vgl.B157,B420).
    ―――――――――――――――(p98)
    ってあって、
    〔自我を反省的に捉えようとする試みがカント自身において行われていない…〕(p101)
    とか、
    〔「(self)-consciousness(自己)意識」という概念はカント自身の議論においては登場しない…〕(注40)
    っていうことらしいんだけど、
    C――――――――――――――――
    自己意識の主観を巡る試みに伴う困難さを十分に理解していたカントは、このことについて以下のように言及する。すなわち、自己意識の主観であるところの私、厳密には私という「指標辞」の背後にある意識主観については、「超越論的主観=X」としてしか表現することができず、我々はこれを決して知り得ることはない(A346/B404)。
    ――――――――――――――(p100)
    ってあった。
    Cに「超越論的主観=X」ってあるけど、我々人間には知ることができない、っていう意味でXってしてるんだと思うし、だから(私)って、私を( )で括って表記してるんだと思う。

    「超越論的主観」なんだけど、中島義道さんは、
    (NtS)―――――――――――――
    ここで、補足的に多くの研究者が誤用している「超越論的主観」(transzendentales Subjekt)という言葉の原意に触れておく。カントの場合、いまだ「主観」という言葉には「基体」(Substratum)という意味が残っており、それは実体としての不滅の魂という意味を呼び起こす危険性を持っている。そこで、彼は自我についてはこうした「超越論的主観」という側面を徹底的に批判し、「作用体」という側面だけをあらわす「超越論的統覚」を採用した。つまり、カントにとって、自我とは「超越論的統覚」であって「超越論的主観」ではないのである。
    ――――――――――――――――
    って言ってる(わたしのノートにあったんだけど、出どころ記録しておかなかった)。
    (NtS)から、カントの場合、
    「自我」=作用体=超越論的統覚
    っていうふうにして見とく。

    なんか長くなっちゃたけど、ひとまず、

    (a)経験的の方を「私」、超越論的の方を(私)、って表記して区別して見る。
    っていうことと、
    (b)「自己意識」=「自己という意識が存在する」
    っていうふうに見たんだけど、「自己」を〈私〉、「意識」を〈コギト(私は考える)〉ってして、

    (Asc)「自己意識」=〈私というコギト(私は考える)が存在する〉

    なんかへんかもだけど、ひとまずこうしといて。

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