| おくったがわさん、ありがとうございます。 ヤフーでもほんの少しやりとりさせていただいたことがあります。 ヤフーでは赤い実という名前でした。年の割に可愛すぎて気恥ずかしいので、minoriにしました。
>>私はこの強い人間原理に途中まで納得がいくんです。 >>その通りだと。 でも、観測したり数学的な計算をしたりするだけでなく、実際に宇宙空間に物を飛ばせるということは・・・ >>これをどう考えたらいいんだろう? というところで引っかかってしまうのです。 > > 永井さんの書き方は語弊があると思います。(本当に誤解しているのか表現のせいかは分かりません) > 「人間という知的生命がこの宇宙を観測している(できている)」という事実から宇宙について分かることを導くのが人間原理で、その基本は強い人間原理でも同じだと思うのです。 > > 物理定数が少しでも違っていたら、知的生命は発生できず「その宇宙」は誰にも観測されない。 > 『知的生命がなかったら宇宙の存在は認識されないのだから、存在しないも同然。』 > は、「存在しない」ではないです。誰にも一切観測されない以上、存在しないのと変わらない、と。しかもそれは、目を向けたら見えるとか遮蔽物を取り除いたら見えるではなく、原理的にけっして誰にも観測され得ないのだから。 > > > 「我思う、ゆえに我あり」は、あらゆるものを疑っても、疑っているその思い自体が存在することから、それを為している我が存在することだけは分かるということですよね。 > それに似せて言うと、 > 「我思う、ゆえに宇宙は〜」は、知的生命としての人間がこの宇宙に存在するのだから、この宇宙は、それが可能となるような成り立ち・構造であることだけは確実だ。 > > で、人間が思うから宇宙が存在するとか、人間が思うように宇宙は存在するということではないと思います。 > もしかしたら、そのような過激な方向に向かった学者もいて、永井さんがそれを差して強い人間原理と書いているのかもしれません。が、本来の提唱者のブランドン・カーター(の強い人間原理)は、弱い人間原理より対象を広げただけで、観念論というのは違うと思います。 > > 自分の説明、下手かもしれません。すいません。
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> 『知的生命がなかったら宇宙の存在は認識されないのだから、存在しないも同然。』 > は、「存在しない」ではないです。
私自身の考えとしては、「宇宙は存在しない」とは思っていないんです。 最初の疑問が「なぜ宇宙はあるのだろう?」でしたし。 すみません。とりあえず、この部分だけ書いてみます。
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