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■3721 / inTopicNo.85)  minoriさんへ
  
□投稿者/ pipit -(2020/07/09(Thu) 17:07:56)

    minoriさんこんにちは!
    カントとしては、人間の理性はどこまでも真理に近づきたい探究心を
    本能として持ってるから、ついつい究極原因まで想像しちゃうと言ってる
    のかなと私は思ってます

    その本能の実行が、二律背反のアンチノミーを生み出すということかなと思ってますが、
    究極原因に関するものも、第四アンチノミーとして置かれ、
    カント的には知ることのできない問題としてるみたいです。

    御子柴善之先生の『カント哲学の核心 『プロレゴーメナ』から読み解く』
    p209に載ってた4の命題は、
    『命題
    世界原因の系列のうちには、何らかの必然的なものがある。

    反対命題
    世界原因の系列のうちでは、何ものも必然的でなく、むしろこの系列のうちでは
    万物が偶然的である。』

    カント的には上記命題は、二律背反になるものとしてるみたいですね。

    今日、思ってたんですけど、
    知る、が、インプット、
    行為する、が、アウトプット、とすると
    カントはインプット理性より、アウトプット理性の方がより重要となるんだよ、って、
    言いたいのかな、と、そんな思いが心に浮かんでいました。

    ちなみに私も原因を知りたいタイプなんですけど、
    現象学や実存哲学のような(?)潔く、有る、のみをターゲットにとことん探究する哲学者や思考者の方がおられるんだろうなぁと
    想像しました。
    哲学界は広いですね〜

    No3696に返信(minoriさんの記事)
    > pipitさん、こんばんは。
    >
    > pipitさんは、「宇宙はなぜあるんだろう?」なんて考えたことないですか?
    > 考えようとしてもわかるはずもないのに、考える、というか想像しようとしている時があります。
    >
引用返信/返信 削除キー/
■3716 / inTopicNo.86)  minoriさんへ
□投稿者/ パニチェ -(2020/07/09(Thu) 15:47:55)
    こちらこそ、レスありがとうございます。
    ここではminoriさんでいいのでしょうか?

    No3710に返信(minoriさんの記事)
    > 宇宙区間にロケットを飛ばしたり、ある事象を観測したりすることは夢の中でも可能・・・
    > たしかにそれはそうだと思います。かなり壮大な規模での夢ということにはなるでしょうけれど。
    > それと。夢だとするならその夢を見ている主体は誰なのか?ということにもなるのだと思います。

    そこのところをライフワークならぬライフホビーとして長年やってます。^^
    例えばこの世界がマトリックスで描かれているようなバーチャルであったとしても、その世界を体験する主体の存在は確たるものとしてあります。

    仏教では「一炊の夢(邯鄲の夢)」、哲学では「桶の中の脳(水槽の脳)」と呼ばれる思考実験で、主体はデカルトのコギト(全てを疑った後に残る疑いえない存在)としても差し支えないと思います。

    ウィトゲンシュタインの独我論のテーマでもあり、永井均の主たるテーマです。(偶然にも私は同じテーマを小学校くらいから独自に考えていました。)
    私(パニチェ)はこの主体を“言語に先んじて存在する唯一無二の存在”という意味で「比類なき先言の<私>」と表記しています。

    > そうでしたか。解釈は受け取る側に任せるとニーチェは言っていたのですね。

    そうです。押しつけがましくない、言い換えれば、最終的には読者は突き放されるという構図です。^^
    「真理なんてものはない」ってのがニーチェで、アンチクリストでもありますから、神から与えられるかのような固定的かつ普遍的な答えは用意されていません。

    > ニーチェ、フッサール、それから現代に近くなっての哲学者の思想もおもしろそうなものがあるので、少しずつ勉強していこうと思っています。
    > また、機会があったらいろいろと教えていただけたら嬉しいです。

    私なんかでよければいつでも何なりとどうぞ。私で分かるようなことであればレスさせてもらいます。

    > 東洋哲学では「空」の思想が好きなのですが、深いところまでは難しくて理解できていません。
    > 中村元さんの『龍樹』はきっと良書だと思い、最後近くまで頑張って読みましたが、結局、ごく基本的なところしか理解できなかったです。
    > こちら方面はお休みにしていこうと思っています。

    了解しました。中論は『龍樹』他、何冊か読みましたが、またいつか。。。^^

引用返信/返信 削除キー/
■3713 / inTopicNo.87)  Re[9]: 宇宙はなぜあるのか。
□投稿者/ パニチェ -(2020/07/09(Thu) 13:36:58)
    2020/07/09(Thu) 15:16:24 編集(投稿者)

    お久しぶりです。横の横で失礼します。^^

    No3707に返信(おくったがわさんの記事)

    > で、人間が思うから宇宙が存在するとか、人間が思うように宇宙は存在するということではないと思います。
    > もしかしたら、そのような過激な方向に向かった学者もいて、永井さんがそれを差して強い人間原理と書いているのかもしれません。が、本来の提唱者のブランドン・カーター(の強い人間原理)は、弱い人間原理より対象を広げただけで、観念論というのは違うと思います。

    三浦俊彦著「論理学入門」を読み直してみました。(第二部が「人間原理の論理学」というテーマになっており、人間原理の提唱過程も含め詳しく紹介されてます。)

    「ディラックの巨大数仮説」に対してのロバート・ディッケの見解をもとにブランドン・カーターが定式化した「人間原理(弱い人間原理&強い人間原理)」に従えば、おくったがわさんの指摘通りでした。以下です。

    ***** 以下「論理学入門 P.156」より引用 *****

    弱い人間原理:「宇宙における私たちの位置は必然的に、観測者としての私たちの存在と両立する程度に特別である。」

    強い人間原理:「宇宙は、その歴史のどこかにおいて観測者を創り出すことを許すようなものでなければならない。」

    ************** 引用終わり **************

    先の返信はminoriさんの「宇宙はなぜあるんだろう?」という疑問に対して人間原理を持ち出して示したのは私だったので、この定義からすれば不適切だったように思います。反省!^^

    但し、科学哲学のテーマとして論じられる場合は、もう少し広義の「人間の存在から宇宙や世界を説明しようとする試み」と考えても許容範囲であるようには思います。

    『第二の解釈は「観測者を持たないただの物質だけの宇宙は宇宙とは言えない」「宇宙は観測者の心が生み出す」といった考えだ。素粒子宇宙論学者ジョン・ホイーラーらが支持しているこのテーゼは、哲学的には「観念論」の一形態である。(三浦俊彦著「論理学入門 P.156」より引用)』

    minoriさんのレスは私のミスリードであることに変わりありませんが。。。^^

引用返信/返信 削除キー/
■3712 / inTopicNo.88)  おくったがわさんへ
□投稿者/ minori -(2020/07/09(Thu) 13:27:41)
    おくったがわさん、ありがとうございます。
    ヤフーでもほんの少しやりとりさせていただいたことがあります。
    ヤフーでは赤い実という名前でした。年の割に可愛すぎて気恥ずかしいので、minoriにしました。


    >>私はこの強い人間原理に途中まで納得がいくんです。
    >>その通りだと。 でも、観測したり数学的な計算をしたりするだけでなく、実際に宇宙空間に物を飛ばせるということは・・・
    >>これをどう考えたらいいんだろう? というところで引っかかってしまうのです。
    >
    > 永井さんの書き方は語弊があると思います。(本当に誤解しているのか表現のせいかは分かりません)
    > 「人間という知的生命がこの宇宙を観測している(できている)」という事実から宇宙について分かることを導くのが人間原理で、その基本は強い人間原理でも同じだと思うのです。
    >
    > 物理定数が少しでも違っていたら、知的生命は発生できず「その宇宙」は誰にも観測されない。
    > 『知的生命がなかったら宇宙の存在は認識されないのだから、存在しないも同然。』
    > は、「存在しない」ではないです。誰にも一切観測されない以上、存在しないのと変わらない、と。しかもそれは、目を向けたら見えるとか遮蔽物を取り除いたら見えるではなく、原理的にけっして誰にも観測され得ないのだから。
    >
    >
    > 「我思う、ゆえに我あり」は、あらゆるものを疑っても、疑っているその思い自体が存在することから、それを為している我が存在することだけは分かるということですよね。
    > それに似せて言うと、
    > 「我思う、ゆえに宇宙は〜」は、知的生命としての人間がこの宇宙に存在するのだから、この宇宙は、それが可能となるような成り立ち・構造であることだけは確実だ。
    >
    > で、人間が思うから宇宙が存在するとか、人間が思うように宇宙は存在するということではないと思います。
    > もしかしたら、そのような過激な方向に向かった学者もいて、永井さんがそれを差して強い人間原理と書いているのかもしれません。が、本来の提唱者のブランドン・カーター(の強い人間原理)は、弱い人間原理より対象を広げただけで、観念論というのは違うと思います。
    >
    > 自分の説明、下手かもしれません。すいません。

    ・・・・・・

     > 『知的生命がなかったら宇宙の存在は認識されないのだから、存在しないも同然。』
    > は、「存在しない」ではないです。


    私自身の考えとしては、「宇宙は存在しない」とは思っていないんです。
    最初の疑問が「なぜ宇宙はあるのだろう?」でしたし。
    すみません。とりあえず、この部分だけ書いてみます。

引用返信/返信 削除キー/
■3711 / inTopicNo.89)  pipitさんへ
□投稿者/ knowing itself -(2020/07/09(Thu) 13:16:32)
    こんにちは。

    中島義道さんの「カントの時間論」、読んでみようと思います。

    叡智界には時間はないですから、時間という形式によって感性界を生きるという時点で叡智界にはいないということですね。叡智界は涅槃とか悟りに相当すると思うので、カント的な思索や生き方は、未だ悟っていない凡夫がいかに考え、生活するかの指針のようなところがありますね。それを人間への信頼と楽観性が滲み出てくるような哲学で語っている。

    瞑想や修行につながるのは、「実践理性批判」の方でしょう。「純粋理性批判」はそのための準備という側面もあると思います。
引用返信/返信 削除キー/
■3710 / inTopicNo.90)  パニチェさんへ
□投稿者/ minori -(2020/07/09(Thu) 13:14:38)
    パニチェさん、ありがとうございます。


    > 私も強い人間原理の途中までは支持しますが、残りはペンディング(保留)です。
    > 以下は、私の意見というよりも、こういう見解もあるという意味で返信させてもらいます。
    >
    >>その通りだと。 でも、観測したり数学的な計算をしたりするだけでなく、実際に宇宙空間に物を飛ばせるということは・・・
    >>これをどう考えたらいいんだろう? というところで引っかかってしまうのです。
    >
    > 数学的に記述することは、現実の世界のどこかに数学的な世界があるということを意味するものではない。
    > で、宇宙空間にロケットを飛ばしたり、ある事象を観測したりすることは、夢の中でも可能なわけで、これは観念論の範疇にも治まりうることなので、人間が認識するから宇宙が存在するという観念論的世界観の反証にはならないとも言えます。

    宇宙区間にロケットを飛ばしたり、ある事象を観測したりすることは夢の中でも可能・・・
    たしかにそれはそうだと思います。かなり壮大な規模での夢ということにはなるでしょうけれど。
    それと。夢だとするならその夢を見ている主体は誰なのか?ということにもなるのだと思います。



    > 猛毒にもなるし、劇薬にもなるし、読む人の解釈によって、如何様にも価値や意味を創造することができる哲学だと思います。
    > 別名に解釈の哲学という呼び名もあるように、ニーチェ自身もそれを推奨しています。
    >
    > 『いまや、わたしはきみたちに、わたしを失い、みずからを見出せ、と命じる。そして、きみたちがみな私を否認したときに初めて、わたしはきみたちのもとへ帰って来ようと思う。まことに、わたしたちの兄弟たちよ、そのときわたしは、違った目で、自分の失った者たちを捜し求めるであろう。そのときわたしは、或る違った愛で、きみたちを愛するであろう。そして、さらにいつの日か、きみたちはわたしの友となり、同じ希望の子となっているであろう。そのとき、わたしは三たびきみたちのもとにあって、きみたちと共に大いなる正午を祝おうと思う。ところで、大いなる正午とは、人間が自分の軌道の真ん中にあって、動物と超人の中間に立ち、自分が歩み行くべき夕暮れへの道を自分の最高の希望として祝う時である。というのは、それは或る新しい朝への道だからだ。そのとき、没落して行く者は、自分がかなたへ渡って行く者であるというので、みずから自分を祝福するであろう。そして、彼の認識の太陽は、彼にとって真南に位置しているであろう。「すべての神々は死んだ。いまやわれわれは、超人が生きんことを欲する」──これが、いつの日か大いなる正午において、われわれの最後の意志であらんことを!──このようにツァラトゥストラは語った。(ツァラトゥストラ 贈与する徳について3)』
    >

    そうでしたか。解釈は受け取る側に任せるとニーチェは言っていたのですね。

    ニーチェ、フッサール、それから現代に近くなっての哲学者の思想もおもしろそうなものがあるので、少しずつ勉強していこうと思っています。
    また、機会があったらいろいろと教えていただけたら嬉しいです。

    東洋哲学では「空」の思想が好きなのですが、深いところまでは難しくて理解できていません。
    中村元さんの『龍樹』はきっと良書だと思い、最後近くまで頑張って読みましたが、結局、ごく基本的なところしか理解できなかったです。
    こちら方面はお休みにしていこうと思っています。
引用返信/返信 削除キー/
■3707 / inTopicNo.91)  Re[8]: 宇宙はなぜあるのか。
□投稿者/ おくったがわ -(2020/07/09(Thu) 12:05:01)
    No3702に返信(minoriさんの記事)
    はじめまして。横レス失礼します。

    > 弱い人間原理は常識の範囲内。
    > 強い人間原理の方は、リンクにあるように確かに過激といえばそう感じる人も多いかもしれないですね。
    > なにしろ。宇宙の存在は人間のような知的生命の認識にかかっており、知的生命がなかったら宇宙の存在は認識されないのだから、存在しないも当然。
    > 「我思う、ゆえに宇宙は存在する」という超越論的観念論の世界だと、あります。
    >
    > 私はこの強い人間原理に途中まで納得がいくんです。
    > その通りだと。 でも、観測したり数学的な計算をしたりするだけでなく、実際に宇宙空間に物を飛ばせるということは・・・
    > これをどう考えたらいいんだろう? というところで引っかかってしまうのです。

    永井さんの書き方は語弊があると思います。(本当に誤解しているのか表現のせいかは分かりません)
    「人間という知的生命がこの宇宙を観測している(できている)」という事実から宇宙について分かることを導くのが人間原理で、その基本は強い人間原理でも同じだと思うのです。

    物理定数が少しでも違っていたら、知的生命は発生できず「その宇宙」は誰にも観測されない。
    『知的生命がなかったら宇宙の存在は認識されないのだから、存在しないも同然。』
    は、「存在しない」ではないです。誰にも一切観測されない以上、存在しないのと変わらない、と。しかもそれは、目を向けたら見えるとか遮蔽物を取り除いたら見えるではなく、原理的にけっして誰にも観測され得ないのだから。


    「我思う、ゆえに我あり」は、あらゆるものを疑っても、疑っているその思い自体が存在することから、それを為している我が存在することだけは分かるということですよね。
    それに似せて言うと、
    「我思う、ゆえに宇宙は〜」は、知的生命としての人間がこの宇宙に存在するのだから、この宇宙は、それが可能となるような成り立ち・構造であることだけは確実だ。

    で、人間が思うから宇宙が存在するとか、人間が思うように宇宙は存在するということではないと思います。
    もしかしたら、そのような過激な方向に向かった学者もいて、永井さんがそれを差して強い人間原理と書いているのかもしれません。が、本来の提唱者のブランドン・カーター(の強い人間原理)は、弱い人間原理より対象を広げただけで、観念論というのは違うと思います。

    自分の説明、下手かもしれません。すいません。
引用返信/返信 削除キー/
■3706 / inTopicNo.92)  悪魔ちゃんさんへ
□投稿者/ おくったがわ -(2020/07/09(Thu) 11:31:11)
    返事ありがとうございます。トピが変わってからの返事になりすみません。

    > 現象学絡みで、カントについての記述があったら、また書き写して見ようと思ってます。

    現象学おもしろそうだと思いながら勉強したことがないので、楽しみに読ませてもらいます。
    というか、既にさっき別トピで悪魔ちゃんさんの引用を読みました。
    この後、人間原理について投稿するつもりなのですが
    実際に人間というものが存在して宇宙を観測できているというこの事実から→宇宙について何が言えるか を導く人間原理
    現象学の考え方と関係ありそうかな… 分かりませんが。

    > ふと、「おくったがわ」と「おくられたがわ」、同じがわ?異なるがわ?

    本来は一方的に おくった側のつもりでしたが、その後、おくられた側にもなったかも(意味不明ですね。

    悪魔ちゃんさん、でなく 悪魔ちゃんと呼んでいいですか?
引用返信/返信 削除キー/
■3704 / inTopicNo.93)  Re[8]: 宇宙はなぜあるのか。
□投稿者/ パニチェ -(2020/07/09(Thu) 09:08:24)
    No3702に返信(minoriさんの記事)
    > パニチェさん、ありがとうございます。

    どういたしまして。

    > リンク、拝見しました。
    > 人間原理という名称となんとなくの内容は知ってはいましたが、それだけでしたので興味深く拝見しました。

    > 弱い人間原理は常識の範囲内。
    > 強い人間原理の方は、リンクにあるように確かに過激といえばそう感じる人も多いかもしれないですね。
    > なにしろ。宇宙の存在は人間のような知的生命の認識にかかっており、知的生命がなかったら宇宙の存在は認識されないのだから、存在しないも当然。
    > 「我思う、ゆえに宇宙は存在する」という超越論的観念論の世界だと、あります。

    > 私はこの強い人間原理に途中まで納得がいくんです。

    私も強い人間原理の途中までは支持しますが、残りはペンディング(保留)です。
    以下は、私の意見というよりも、こういう見解もあるという意味で返信させてもらいます。

    > その通りだと。 でも、観測したり数学的な計算をしたりするだけでなく、実際に宇宙空間に物を飛ばせるということは・・・
    > これをどう考えたらいいんだろう? というところで引っかかってしまうのです。

    数学的に記述することは、現実の世界のどこかに数学的な世界があるということを意味するものではない。
    で、宇宙空間にロケットを飛ばしたり、ある事象を観測したりすることは、夢の中でも可能なわけで、これは観念論の範疇にも治まりうることなので、人間が認識するから宇宙が存在するという観念論的世界観の反証にはならないとも言えます。

    > ニーチェを先駆とする無神論的実存主義と人間原理は、通じるところがある、ということなのですね。
    > 神による創造という話が普通だった時代があり、それを懐疑しはじめた近代に登場してきた思想。

    > ニーチェは私もいいな、と思う哲学者です。
    > 強者と弱者の論理とか、はっきりと言いにくいことを言ってくれてるところとかいいと思います。

    猛毒にもなるし、劇薬にもなるし、読む人の解釈によって、如何様にも価値や意味を創造することができる哲学だと思います。
    別名に解釈の哲学という呼び名もあるように、ニーチェ自身もそれを推奨しています。

    『いまや、わたしはきみたちに、わたしを失い、みずからを見出せ、と命じる。そして、きみたちがみな私を否認したときに初めて、わたしはきみたちのもとへ帰って来ようと思う。まことに、わたしたちの兄弟たちよ、そのときわたしは、違った目で、自分の失った者たちを捜し求めるであろう。そのときわたしは、或る違った愛で、きみたちを愛するであろう。そして、さらにいつの日か、きみたちはわたしの友となり、同じ希望の子となっているであろう。そのとき、わたしは三たびきみたちのもとにあって、きみたちと共に大いなる正午を祝おうと思う。ところで、大いなる正午とは、人間が自分の軌道の真ん中にあって、動物と超人の中間に立ち、自分が歩み行くべき夕暮れへの道を自分の最高の希望として祝う時である。というのは、それは或る新しい朝への道だからだ。そのとき、没落して行く者は、自分がかなたへ渡って行く者であるというので、みずから自分を祝福するであろう。そして、彼の認識の太陽は、彼にとって真南に位置しているであろう。「すべての神々は死んだ。いまやわれわれは、超人が生きんことを欲する」──これが、いつの日か大いなる正午において、われわれの最後の意志であらんことを!──このようにツァラトゥストラは語った。(ツァラトゥストラ 贈与する徳について3)』

引用返信/返信 削除キー/
■3702 / inTopicNo.94)  Re[7]: 宇宙はなぜあるのか。
□投稿者/ minori -(2020/07/09(Thu) 08:41:21)
    No3701に返信(パニチェさんの記事)
    > 横レス失礼します。
    >
    > ■No3696に返信(minoriさんの記事)
    >
    >>pipitさんは、「宇宙はなぜあるんだろう?」なんて考えたことないですか?
    >>考えようとしてもわかるはずもないのに、考える、というか想像しようとしている時があります。
    >
    > ひとつの答えが神による創造で、(ご存知かもしれませんが)もうひとつの答えとして人間原理というのがあります。
    >
    > 人間原理
    > https://www.nagaitoshiya.com/ja/2001/multiverse-anthropic-principle/
    >
    > 人間の存在から宇宙や私たちの存在を説明する人間原理は、ニーチェを先駆者とする無神論的な実存主義(Wikipedia:人間の実存を哲学の中心におく思想的立場。あるいは本質存在(essentia)に対する現実存在(existentia)の優位を説く思想)とも相通じるところがあります。
    >


    パニチェさん、ありがとうございます。
    リンク、拝見しました。
    人間原理という名称となんとなくの内容は知ってはいましたが、それだけでしたので興味深く拝見しました。

    弱い人間原理は常識の範囲内。
    強い人間原理の方は、リンクにあるように確かに過激といえばそう感じる人も多いかもしれないですね。
    なにしろ。宇宙の存在は人間のような知的生命の認識にかかっており、知的生命がなかったら宇宙の存在は認識されないのだから、存在しないも当然。
    「我思う、ゆえに宇宙は存在する」という超越論的観念論の世界だと、あります。

    私はこの強い人間原理に途中まで納得がいくんです。
    その通りだと。 でも、観測したり数学的な計算をしたりするだけでなく、実際に宇宙空間に物を飛ばせるということは・・・
    これをどう考えたらいいんだろう? というところで引っかかってしまうのです。

    ニーチェを先駆とする無神論的実存主義と人間原理は、通じるところがある、ということなのですね。
    神による創造という話が普通だった時代があり、それを懐疑しはじめた近代に登場してきた思想。

    ニーチェは私もいいな、と思う哲学者です。
    強者と弱者の論理とか、はっきりと言いにくいことを言ってくれてるところとかいいと思います。





引用返信/返信 削除キー/
■3701 / inTopicNo.95)  Re[6]: 宇宙はなぜあるのか。
□投稿者/ パニチェ -(2020/07/09(Thu) 07:32:19)
    横レス失礼します。

    No3696に返信(minoriさんの記事)

    > pipitさんは、「宇宙はなぜあるんだろう?」なんて考えたことないですか?
    > 考えようとしてもわかるはずもないのに、考える、というか想像しようとしている時があります。

    ひとつの答えが神による創造で、(ご存知かもしれませんが)もうひとつの答えとして人間原理というのがあります。

    人間原理
    https://www.nagaitoshiya.com/ja/2001/multiverse-anthropic-principle/

    人間の存在から宇宙や私たちの存在を説明する人間原理は、ニーチェを先駆者とする無神論的な実存主義(Wikipedia:人間の実存を哲学の中心におく思想的立場。あるいは本質存在(essentia)に対する現実存在(existentia)の優位を説く思想)とも相通じるところがあります。

引用返信/返信 削除キー/
■3696 / inTopicNo.96)  宇宙はなぜあるのか。
□投稿者/ minori -(2020/07/08(Wed) 22:56:21)
    pipitさん、こんばんは。

    pipitさんは、「宇宙はなぜあるんだろう?」なんて考えたことないですか?
    考えようとしてもわかるはずもないのに、考える、というか想像しようとしている時があります。

    空間は無限か、それとも有限か、というのはアンチノミーの説明の一つとしてありますよね。

    「宇宙はなぜあるんだろう?」 もしこの答えを人間が知ったとしたら、絶望するのか、それとも喜びに包まれるのか。
    あ〜、なぜ宇宙はあるんだろう?
引用返信/返信 削除キー/

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