| 読解チャレンジの続き
>それで結局、「いかにして《先天的》綜合判断は可能であるのか」というカントの問いを、「何故にかのような判断に対する信仰が必要であるか」という他の問いによって補充すべき時である。――すなわち、われわれの如き種類の生物を保持する目的のためには、このような判断が真理として信じられなければならないことを理解すべき時である。それ故にこの判断はもとよりなお誤った判断であってもよいのだ!或いは、もっと判明に、粗(あら)っぽく、かつ徹底的に言えば、《先天的》綜合判断は全く「可能である」はずがない。われわれにはそんなものを立てる何の権利もなく、われわれの口からすれば、それは真赤な嘘の判断である。<
アプリオリな総合判断は可能か、という問いではなく、 アプリオリな総合判断を人間が真理と信じるのはなぜか、と問うべき。 真の意味でのアプリオリな総合判断が人間に可能というのは真っ赤な嘘。
>ただし言うまでもなく、その真理性に対する信仰は必要であるが、それも生の配景的光学に属する一つの前景的信仰であり、外観である。<
ただし、欲が組み立てた認識に対する信仰は、欲を全うするためには必要なことである。 自分のつくりだした認識という品物の品質に対する信頼だね。
>――そこで最後になお「ドイツ哲学」――望むらくは、これが引用符を要求する権利をもつことを分かってもらえようかーーが全ヨーロッパに及ぼした巨怪な影響を思えば、或る種の《催眠力》がそこに関与していたことを疑うわけには行くまい。<
ドイツ哲学が人間をまどろませた。
>あらゆる国々の高貴な有閑者・有徳者・神秘家・芸術家・四分の三のキリスト者および政治的非開花者たちの間では、ドイツ哲学のおかげで、前世紀から今世紀へ溢れ込んだなお優力な感覚論に対する解毒剤、要するにーー《感覚をまどろませるもの》を手に入れて、我を忘れて喜ばれたのであった・・・<
身体性に注視することを置き去りにさせた、ということかな? 現実から目をそむけて楽しもうとする、人間の感覚を狂わし酔わすもの、 そのような影響がドイツ哲学にあったということかな?
以上、ニーチェさんの文章の意味を私なりに考えてみるチャレンジでした。 正反対に違って読解してたりしたらすみませんm(_ _)m
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