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■3845 / inTopicNo.49)  Re[21]: pipitさまへ
  
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2020/07/11(Sat) 18:59:55)
    <もちろんいいよ〜!純粋理性批判に関しなくてもいいよ。自問、好きなだけ書いてくれたらいいよ>

    ありがと。

    <物自体の物は、物理的なものに限定されず、なんでもかんでもみたいだよ。英語でいえば、thing とか it とかのイメージかなぁと思ってるよ。>
    でも、カントって英語圏の人じゃないよね。



引用返信/返信 削除キー/
■3841 / inTopicNo.50)  Re[22]: Tシャツとジーンズ姿で
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2020/07/11(Sat) 18:26:47)
    minoriさまの〈「認識が対象に従うのではなく対象が認識に従う」という常識を覆す視点を打ち出した。〉で、ふと、

    「客観のまわりを主観が回ってるのではなく主観のまわりに客観がまわってる」っていうの思い出した。

    こういうのって、実存主義っていうのかな?

    pipitさま
    〈ニーチェの方がストレート〉じゃ、ないと思う。






引用返信/返信 削除キー/
■3840 / inTopicNo.51)  minoriさんへ
□投稿者/ pipit -(2020/07/11(Sat) 18:23:57)
    こんにちは!

    > 純理、めっちゃややこしい記述になってるみたいだけど、それは必要だからそうしたんだと思うんですね。(すっごい素朴なこと言ってます。すみません。)<

    いえいえ、私もminoriさんと同じような感想もってます。
    が!
    ややこしすぎるのも確かですよね、
    しかも、あんなにややこしい記述して、結局フツーに思えること言ってる、、、
    と思うこともなきにしもあらずで(^_^;)

    本当、時々、カントから離れようかな、と思う時もあるのですが、
    執着しちゃってます(#^.^#)

    minoriさんは軽やかでいいですよね。
    私も軽やかにいきたいんだけどな〜


    おつかれさまです♪
引用返信/返信 削除キー/
■3839 / inTopicNo.52)  Re[21]: Tシャツとジーンズ姿で
□投稿者/ pipit -(2020/07/11(Sat) 18:14:35)
    悪魔ちゃんさんへ

    No3832に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > pipitさま
    > ふと、わたしに浮かんだことここで書いちゃう。
    >
    > ニーチェの文で、ちょっと思ったんだけど、「我を忘れて」って書いてある。
    > 我を忘れるとカント的になるのかな〜?
    >
    > 「物自体」とか「物そのもの」って訳されてるけど、「者」じゃなくて「物」について、っていうことなのかしら?<

    物自体の物は、物理的なものに限定されず、なんでもかんでもみたいだよ。
    英語でいえば、thing とか it とかのイメージかなぁと思ってるよ。
    どうだろうね?

    >
    > 自問、ここで書かせてもらっていい?他も見てるんだけどタイプじゃないし。 
    > 返信なし、っていうことで。できるだけ『純理』に関することだけにするから。<

    もちろんいいよ〜!純粋理性批判に関しなくてもいいよ。
    自問、好きなだけ書いてくれたらいいよ(o^^o)
    メルロのことでも現象学のことでも、私の中ではカントに全部繋がってる。
    私がカントに興味あるからだね、ある意味恣意的にそうみてしまうんだね。
    だから、悪魔ちゃんさんは、何にも気にせず、カントに縛られず、カントから離れて
    思うことを書いてくれたらいいよ(^_^)

    まあ、清水の舞台から飛ぶつもりで、パニチェさんに悪魔ちゃんの勉強部屋つくるのお願いいしてもいいと思うけどね(*^^*)

    ん?

    そんなの、そのまま飛んじゃうよ??

    何が起こるか為さんなわからん、かも!

    お好きにしてね(o^^o)
    いつもありがとう!

引用返信/返信 削除キー/
■3838 / inTopicNo.53)  ピピットさんへ
□投稿者/ パニチェ -(2020/07/11(Sat) 18:09:04)
    2020/07/11(Sat) 18:16:35 編集(投稿者)

    ピピットさん、レスありがとうございます。

    No3835に返信(pipitさんの記事)
    > 実践理性批判はまったくかじれてもいないので、きちんとしたことは言えないのですが、
    > 神様が道徳を指令した、みたいな単純な話ではないと思います。(それはニーチェもわかっているのかなとは思いますけど。)
    > 人間は自分で善悪を判断でき、自分の意志で道徳行為を選択できる。
    > 根拠は自分自身の内にある、と、言ってるんじゃないかなー、と思っていますが、
    > ここらへんから、ニーチェに批判される弱さになるとおもうのですが、弱気になって、道徳実践するには理性は神様みたいなものを要請する、と、もしかしたら言ったかもしれませんね。
    > やっぱ、善行したら報われたいやん?って。

    私はカントの「純粋理性批判」、「実践理性批判」の和訳は読んでないのですが、講談社選書メチエ刊、竹田青嗣著「完全解読 カント『実践理性批判』」には以下のような引用文があります。

    「そこで私は、この概念〈神の〉を実践理性の対象〔最高善〕と照らし合わせてみると、道徳法則はこの概念が最高の完全性を具えている世界創造者を前提としてのみ可能であることを知る(278)」

    以下は竹田氏の解説です。

    『右の議論を整理すると以下である。われわれの「道徳」が有意味であるためには、最高善を可能とする全知、全能の神が存在しているのでなければならず、またこのような神の存在性格は、ただわれわれの道徳の必要性の見地からのみ規定されうる。つまり、「自由は道徳の存在根拠、道徳は自由の認識根拠」というカントの言葉になぞらえていえば、「神は道徳の存在根拠であり、道徳は神の要請根拠である」ということになる。(同書P.185)』

    上記の解説を信用すれば、カントは人間の道徳的な理由または理性的な根拠を最終的には神の存在根拠としているように思います。

    > このように、自分の考えを思想的にストレートに伝えることのできる場を設けていただき感謝しています。
    > ありがとうございます(^人^)

    感謝するのは私の方です。
    ピピットさんたちのお陰で久々に私も心地よい知的刺激をいただいてます。
    ありがとうございます。

引用返信/返信 削除キー/
■3837 / inTopicNo.54)  Re[20]: 一つの能力
□投稿者/ pipit -(2020/07/11(Sat) 17:56:23)
    悪魔ちゃんさんこんにちは!
    ジメジメだね、今日湿度計で99パーセントって出てたよ。
    あの表示ホントなのかな〜


    > わたしが関心がるところは以下のところ。
    >
    > 【彼は人間のうちに一つの新しい能力、《先天的》綜合判断の能力を発見したことを誇りとした。・・・「いかにして《先天的》綜合判断は可能であるか」とカントは自問した。――そして彼は果たして何と答えたか。一つの能力によって、と。しかし残念ながら、この簡潔な言葉をもってではなく、むしろあんなに廻りくどく、勿体らしく、かつドイツ語的な深意と虚飾癖とをもってしてした】
    >
    > この部分をわたし言いかえると。
    >
    > カントは、「《先天的》総合判断」という、人間のうちに、新しい「一つの能力」を発見した。さらに、「いかにして《先天的》綜合判断は可能であるか」と自問した。そしてカントは廻りくどく、勿体らしく、かつドイツ語的な深意と虚飾癖とをもってして、答えた。
    > ニーチェは思った。まわりくどく言わなくてもはっきり、一つの能力によって、って言えばいいじゃん、と。
    >
    > 「一つの能力」は「《先天的》総合判断」のことだから、
    >
    > 「いかにして《先天的》綜合判断は可能であるか」に対する答えは、「《先天的》総合判断」という能力を人間はもっているから。となる。これって、廻っちゃってる。<

    廻っちゃってる、って、いい表現だね
    すごく状態を顕わしてる言葉に思えるね。



    > そこで、【「一つの能力によって」――とカントは言った。しかし一体これは答えであるか。説明であるか。或いは、却って問いの繰り返しにすぎないのではないか】に、つながるんじゃないかしら。<


    > ここでは《先天的》って訳してあるけど、私が読んだ小牧治氏の「カント」の『純粋理性批判』のなかでも「先天的綜合判断」って書いてある。中島さんのでは「超越論的」と訳すべきだ、的みたいだけど。先人たちは「先天的」って訳してたんだなー、て。<

    うん。それぞれの時代の人が一所懸命考えて漢字を当てていったこととか想像する時があるよ。
    明治時代の人が西洋哲学に出会った時とかね
    そういえば、メルロさんはいつの時代の人なのかなー

    > 先天的、先験的、ア・プリオリ、の意味について、わたしのあるんだけどまたいつか。あ、それと「客観」もね。
    >
    > お忙しいところ、ごめんでした。<

    こちらこそいつも貴重な経験をありがとう。
    悪魔ちゃんさんにとっていいふうに思える情報、何も提供できずにごめんね

    タイピングとか無理しないでね、
    本当にありがとうです。
引用返信/返信 削除キー/
■3835 / inTopicNo.55)  パニチェさんへ
□投稿者/ pipit -(2020/07/11(Sat) 17:37:21)

    パニチェさんへ
    いつも解説などありがとうございます(^O^)

    > いかにして先天的総合判断は可能か?人間の能力により可能となる。
    > 何故人間には理性が備わっているのか?人間は理性的な存在だからである。
    >
    > ナンセンス!カントは上記のような新たな信仰を構築し、ドイツの道徳論を停滞させた。
    > 今や、ここを見直すべき時に来ているのではないか?ってことをニーチェは述べているのだと思います。<

    今の段階でのpipitの私見を書いてみますね。

    元々のカントの思想としては、
    人間にとってのアプリオリな総合判断は、人間の感性によって得られたものに対して、人間の悟性によって得られる概念を適用させる過程においてのみ可能としている、と、
    私は今の時点では思っています。

    ここですごく大切なのは、【感性によって得られたもの】が必要不可欠としてるところだと私は思います。

    人間の能力によって、と言っても、
    感性に現れるものを欠いたまま、
    人間の能力である知性のみで、アプリオリな総合判断が得られるのではない、
    逆に、知性のみで、究極を考えるとアンチノミーになる、と、カントは主張した、と思っています。

    本来のカントの説は、このように感性の契機を大切に考えてるものだったのに、後に続く一部の人たちが、
    人間の知性の信仰にカントを持ち出した面があるのではないかと私は思っています。
    中島義道先生のそのような記述も読んだことあるので、興味あれば探して引用しますので何時でもおっしゃってくださいね(^o^)


    > ニーチェが最も気に入らないのは最終的にカントが神を持ち出したことです。
    >
    > 以下は私の意見です(ニーチェの影響もありますが。。)
    >
    > デカルトの第一原理も、カントのコペルニクス的転回も、歴史に残る哲学的な大仕事をやってのけたが、両名と前期においては神を棚上げした偉大な哲学を試みたが、最終的に神を持ち出した時点で思考停止に陥っている。<

    実践理性批判はまったくかじれてもいないので、きちんとしたことは言えないのですが、
    神様が道徳を指令した、みたいな単純な話ではないと思います。(それはニーチェもわかっているのかなとは思いますけど。)
    人間は自分で善悪を判断でき、自分の意志で道徳行為を選択できる。
    根拠は自分自身の内にある、と、言ってるんじゃないかなー、と思っていますが、
    ここらへんから、ニーチェに批判される弱さになるとおもうのですが、弱気になって、道徳実践するには理性は神様みたいなものを要請する、と、もしかしたら言ったかもしれませんね。
    やっぱ、善行したら報われたいやん?って。

    でもですねー、カントの記述はなんでも本当複雑なんですが、もしかしたら、そういう考え方は道徳を実践するにあたって弱い理性にもわかりやすく背中を押してくれる、的な文脈の可能性も私は考えています(実際に読まないとわかりませんけど)

    カントの時代はまだ宗教に関してデリケートな時代で、
    カント自身、宗教論で発禁になったり、年金(?)ストップされそうになったりしたみたいです(^_^;)
    青少年に悪影響みたいな理由で王様からなんか出されてた時もあったようで、いろいろ苦労して、自分の著作を世に出してたところもあったみたいだから、
    ちょっと一筋縄では読み解けないなーと私自身は思っています。
    (ある時代に、特に宗教論絡みで目をつけられてたみたいです)

    まあ、ニーチェの方がストレートでかっこいいのかもですけど、
    そのうち自分でカントの善悪に対する思想を読めたらいいな、と、思っています。

    このように、自分の考えを思想的にストレートに伝えることのできる場を設けていただき感謝しています。
    ありがとうございます(^人^)

引用返信/返信 削除キー/
■3834 / inTopicNo.56)  Re[21]: Tシャツとジーンズ姿で
□投稿者/ パニチェ -(2020/07/11(Sat) 17:08:27)
    2020/07/11(Sat) 17:39:30 編集(投稿者)

    横レス失礼します。

    No3832に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > pipitさま
    > ふと、わたしに浮かんだことここで書いちゃう。
    > ニーチェの文で、ちょっと思ったんだけど、「我を忘れて」って書いてある。
    > 我を忘れるとカント的になるのかな〜?
    > 「物自体」とか「物そのもの」って訳されてるけど、「者」じゃなくて「物」について、っていうことなのかしら?

    悪魔さん引用文「そればかりか、この新しい能力のために我を忘れ、しかもカントが更になお加えて人間のうちにある道徳的能力をも発見したとき、歓呼の叫びは頂点に達した。・・中略・・要するにーー《感覚をまどろませるもの》を手に入れて、我を忘れて喜ばれたのであった・・・」

    同じ個所の和訳は別の書籍では以下のようになっています。

    「のみならずひとびとは、この新しい能力を喜ぶあまり有頂天となり、カントがそのうえさらに人間の道徳的能力をも発見するに及んでは、歓喜の叫びは絶頂に達した。・・中略・・つまり──〈感覚をまどろませる〉ものを手に入れたということで有頂天の悦びようであったのだ・・・(ちくま学芸文庫)」

    「人びとはこの新しい能力のことを知って我を忘れたし、カントがこれに加えてさらに、ある道徳的能力を人間のうちに発見したときには、歓喜の声はその絶頂に達した・・中略・・つまり─「感覚ヲマドロマシムルモノ」を手にいれて、人びとは歓喜したのだった・・・(白水社)」

    原文のドイツ語がどのような表現になっているかによるとは思いますが(私は知りません)、前後の文脈からすれば、この「我を忘れ」というのは、ちくま学芸文庫の訳による「(我を忘れて)有頂天になった」、「喜んだ」ということではないでしょうか。

    もう少し深読みというか意訳すれば「(そんな能力などないのに)自分を省みることなしに」とか「身の程知らずにも」という意味の「我を忘れて」かもしれません。

引用返信/返信 削除キー/
■3833 / inTopicNo.57)  カント
□投稿者/ minori -(2020/07/11(Sat) 16:54:09)
    カントの功績。


    「認識が対象に従うのではなく対象が認識に従う」という常識を覆す視点を打ち出した。

    カント以前は、神が作った人間なので、客観=主観として認識できる(デカルト)であったり、ヒュームとかの経験論はなんだっけ・・・う〜ん、本を見ないとわからん。。

    純理、めっちゃややこしい記述になってるみたいだけど、それは必要だからそうしたんだと思うんですね。(すっごい素朴なこと言ってます。すみません。)
引用返信/返信 削除キー/
■3832 / inTopicNo.58)  Re[20]: Tシャツとジーンズ姿で
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2020/07/11(Sat) 16:39:07)
    pipitさま
    ふと、わたしに浮かんだことここで書いちゃう。

    ニーチェの文で、ちょっと思ったんだけど、「我を忘れて」って書いてある。
    我を忘れるとカント的になるのかな〜?

    「物自体」とか「物そのもの」って訳されてるけど、「者」じゃなくて「物」について、っていうことなのかしら?

    自問、ここで書かせてもらっていい?他も見てるんだけどタイプじゃないし。 
    返信なし、っていうことで。できるだけ『純理』に関することだけにするから。
引用返信/返信 削除キー/
■3831 / inTopicNo.59)  Re[19]: 一つの能力
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2020/07/11(Sat) 15:45:56)
    pipitさま、読んでくれて、ありがとうございます。

    わたしのを書いて見ます。

    あいもかわらずニーチェの皮肉っぽい言い方だけど、彼が生きた当時空は彼から見たら腐ってたのかもね。

    わたしが関心がるところは以下のところ。

    【彼は人間のうちに一つの新しい能力、《先天的》綜合判断の能力を発見したことを誇りとした。・・・「いかにして《先天的》綜合判断は可能であるか」とカントは自問した。――そして彼は果たして何と答えたか。一つの能力によって、と。しかし残念ながら、この簡潔な言葉をもってではなく、むしろあんなに廻りくどく、勿体らしく、かつドイツ語的な深意と虚飾癖とをもってしてした】

    この部分をわたし言いかえると。

    カントは、「《先天的》総合判断」という、人間のうちに、新しい「一つの能力」を発見した。さらに、「いかにして《先天的》綜合判断は可能であるか」と自問した。そしてカントは廻りくどく、勿体らしく、かつドイツ語的な深意と虚飾癖とをもってして、答えた。
    ニーチェは思った。まわりくどく言わなくてもはっきり、一つの能力によって、って言えばいいじゃん、と。

    「一つの能力」は「《先天的》総合判断」のことだから、

    「いかにして《先天的》綜合判断は可能であるか」に対する答えは、「《先天的》総合判断」という能力を人間はもっているから。となる。これって、廻っちゃってる。

    そこで、【「一つの能力によって」――とカントは言った。しかし一体これは答えであるか。説明であるか。或いは、却って問いの繰り返しにすぎないのではないか】に、つながるんじゃないかしら。


    ここでは《先天的》って訳してあるけど、私が読んだ小牧治氏の「カント」の『純粋理性批判』のなかでも「先天的綜合判断」って書いてある。中島さんのでは「超越論的」と訳すべきだ、的みたいだけど。先人たちは「先天的」って訳してたんだなー、て。

    先天的、先験的、ア・プリオリ、の意味について、わたしのあるんだけどまたいつか。あ、それと「客観」もね。

    お忙しいところ、ごめんでした。

引用返信/返信 削除キー/
■3814 / inTopicNo.60)  Re[20]: 一つの能力
□投稿者/ パニチェ -(2020/07/11(Sat) 08:30:24)
    横レス、失礼します。

    No3807に返信(pipitさんの記事)
    > あ、彼はカントのことで、
    > カントがカント自身に認めた価値を、
    > 今や至るところで(様々な哲学者たちが)越えようと努めてるように思える、
    > という意味かな、と、さっき思いました。

    そうだと思います。

    No3810に返信(pipitさんの記事)
    > 私の今の段階の理解では、カントは、人間は認識する際に、
    > 人間特有の形式を認識過程で使用するゆえに、
    > アプリオリな総合判断が可能になると言ってるのかなと思ってます。(勘違い可能性あり。)
    > アプリオリな総合判断を可能にした能力とは、
    > 人間の認識能力の仕様に帰すると思ってます。
    > ニーチェは、人間の認識能力の仕様をカントが発見したことは認めてるけど
    > 人間能力の結果物、は、人間能力により可能、と言っても、
    > 当たり前のことしか言ってないやん、ということかな?
    > 絶対的真理としてのアプリオリな総合判断がカント哲学において成り立ってるわけではなく、
    > 人間にとっての、アプリオリな総合判断が成り立ってるにすぎない、と言ってるのかな、と、思いました。
    > もしそうなら、カントにとっても違和感ない意見だと思うんだけど、

    同意です。素晴らしい読解力!

    いかにして先天的総合判断は可能か?人間の能力により可能となる。
    何故人間には理性が備わっているのか?人間は理性的な存在だからである。

    ナンセンス!カントは上記のような新たな信仰を構築し、ドイツの道徳論を停滞させた。
    今や、ここを見直すべき時に来ているのではないか?ってことをニーチェは述べているのだと思います。
    ニーチェが最も気に入らないのは最終的にカントが神を持ち出したことです。

    以下は私の意見です(ニーチェの影響もありますが。。)

    デカルトの第一原理も、カントのコペルニクス的転回も、歴史に残る哲学的な大仕事をやってのけたが、両名と前期においては神を棚上げした偉大な哲学を試みたが、最終的に神を持ち出した時点で思考停止に陥っている。
引用返信/返信 削除キー/

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