□投稿者/ pipit -(2020/07/11(Sat) 17:37:21)
| パニチェさんへ いつも解説などありがとうございます(^O^)
> いかにして先天的総合判断は可能か?人間の能力により可能となる。 > 何故人間には理性が備わっているのか?人間は理性的な存在だからである。 > > ナンセンス!カントは上記のような新たな信仰を構築し、ドイツの道徳論を停滞させた。 > 今や、ここを見直すべき時に来ているのではないか?ってことをニーチェは述べているのだと思います。<
今の段階でのpipitの私見を書いてみますね。
元々のカントの思想としては、 人間にとってのアプリオリな総合判断は、人間の感性によって得られたものに対して、人間の悟性によって得られる概念を適用させる過程においてのみ可能としている、と、 私は今の時点では思っています。
ここですごく大切なのは、【感性によって得られたもの】が必要不可欠としてるところだと私は思います。
人間の能力によって、と言っても、 感性に現れるものを欠いたまま、 人間の能力である知性のみで、アプリオリな総合判断が得られるのではない、 逆に、知性のみで、究極を考えるとアンチノミーになる、と、カントは主張した、と思っています。
本来のカントの説は、このように感性の契機を大切に考えてるものだったのに、後に続く一部の人たちが、 人間の知性の信仰にカントを持ち出した面があるのではないかと私は思っています。 中島義道先生のそのような記述も読んだことあるので、興味あれば探して引用しますので何時でもおっしゃってくださいね(^o^)
> ニーチェが最も気に入らないのは最終的にカントが神を持ち出したことです。 > > 以下は私の意見です(ニーチェの影響もありますが。。) > > デカルトの第一原理も、カントのコペルニクス的転回も、歴史に残る哲学的な大仕事をやってのけたが、両名と前期においては神を棚上げした偉大な哲学を試みたが、最終的に神を持ち出した時点で思考停止に陥っている。<
実践理性批判はまったくかじれてもいないので、きちんとしたことは言えないのですが、 神様が道徳を指令した、みたいな単純な話ではないと思います。(それはニーチェもわかっているのかなとは思いますけど。) 人間は自分で善悪を判断でき、自分の意志で道徳行為を選択できる。 根拠は自分自身の内にある、と、言ってるんじゃないかなー、と思っていますが、 ここらへんから、ニーチェに批判される弱さになるとおもうのですが、弱気になって、道徳実践するには理性は神様みたいなものを要請する、と、もしかしたら言ったかもしれませんね。 やっぱ、善行したら報われたいやん?って。
でもですねー、カントの記述はなんでも本当複雑なんですが、もしかしたら、そういう考え方は道徳を実践するにあたって弱い理性にもわかりやすく背中を押してくれる、的な文脈の可能性も私は考えています(実際に読まないとわかりませんけど)
カントの時代はまだ宗教に関してデリケートな時代で、 カント自身、宗教論で発禁になったり、年金(?)ストップされそうになったりしたみたいです(^_^;) 青少年に悪影響みたいな理由で王様からなんか出されてた時もあったようで、いろいろ苦労して、自分の著作を世に出してたところもあったみたいだから、 ちょっと一筋縄では読み解けないなーと私自身は思っています。 (ある時代に、特に宗教論絡みで目をつけられてたみたいです)
まあ、ニーチェの方がストレートでかっこいいのかもですけど、 そのうち自分でカントの善悪に対する思想を読めたらいいな、と、思っています。
このように、自分の考えを思想的にストレートに伝えることのできる場を設けていただき感謝しています。 ありがとうございます(^人^)
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