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■3939 / inTopicNo.25)  pipitさんへ
  
□投稿者/ minori -(2020/07/13(Mon) 21:04:43)

    > 厳密には主観しか直知できない私たちの、共有、をつくる能力を、人間の能力に注視して、探求しているのが、カントの『純粋理性批判』かなと思っています。


    ああ、そうですね。共有というのがキーワードだと私も思います。
    (思います、じゃなくて、今、pipitさんの書かれたのを見て今、思った。)


    > これに関連してなのですが、まだ未勉強ですが、
    > この優れた能力ゆえに人間には尊厳がある、と、もしカントが考えてるなら、
    > そこは私は同感しないところです。
    > その論理でいうと例えば認知症になったら、その人の尊厳は危うくなるし、
    > 動物の尊厳も成り立たないのではないか。
    > こう思う人はたくさんいて、だから、
    > 『ぼけたカントに理性はあるのか』みたいなタイトルの本を出されたりするのだと思います。
    > その著者の方はお医者様で、認知症の方の尊厳も大切に考えられてるのだと思います。


    へ〜、そんな本が出されてるんだね。カント人気あるな。
    カントがそのあたりどう考えてたのか、わかりえないけど・・・
    定言命法とか、きっちりしてるところがどう反映されるのかにもなるのかな。

    レスはお気遣いなく。♪

引用返信/返信 削除キー/
■3938 / inTopicNo.26)  悪魔ちゃんへ
□投稿者/ pipit -(2020/07/13(Mon) 21:04:18)
    こんばんは!

    わたしは、ほんとうのこと、が、ここで手にしてるもの以外のものだと
    どうしても思ってしまってるんだね。

    目の前にあるものですべてと、思えないんだね。

    救いを求めてるのかもしれないね。


    > ほんとうのことってどういうことなのかしら?
    >
    > わたしは、見、聞き、嗅ぎ、触り、味わい、立って歩くとができる。
    >
    > ジルボイトテイラーの講演動画見た。これ、メビウスで誰かの情報で前に見たことある。
    >
    > 彼女は右脳と左脳の”どちらを選ぶか”って言ってる。
    > でも、ひとは、ふつう、右脳と左脳のどちらも持ってる。
    > どちらかを選ぶ必要があるのかしら?<

    今苦しんでると自分で感じてる人は
    苦しまないことを夢見て、右脳を選べたら、と、夢見るのかもだね
    私自身の今の実際の行為としては、選ぶ、ではなく、夢見てる、だね。


    > メルロの、見えるものと見えないもの、この分節の仕方、わたし好み。<

    メルロは、見えないもの、について、どんなこと言ってるの?
    悪魔ちゃんは、見えないもの、について、どんな意見もってるの?

引用返信/返信 削除キー/
■3937 / inTopicNo.27)  Re[29]: pipitさんへ
□投稿者/ おくったがわ -(2020/07/13(Mon) 20:58:42)
    No3900に返信(pipitさんの記事)
    こんばんは

    >>カントの言う「アプリオリな綜合判断」って、ニーチェの言うように、
    >>人間の「一つの能力」にすぎない。<
    >
    > 一応カントの言い分だと、
    > 人間の持つ能力によって、アプリオリな綜合判断が可能だ、って言ってるんだと思ってるよ。
    > だから、人間の能力にすぎない、というのは、カントもそう言うと思ってるよ。

    以下のように整理したのですが、合ってると思いますか?

    アプリオリな綜合判断があるためには、対象より先に直観がなければならない。対象を受け止めて直観→表彰化するだけなら、すべての認識や判断はアポステリオリになるから。
    仮に、もの自体が直観の対象なら、直観はもの自体のありようを受け止め表象するものとなり、対象より先にあることができない。
    ・(もの自体に触発されて)心の中に実現する「現象」が対象である。
    ・その現象より先に直観があるー純粋直観(時間・空間の形式)  現象を成立させる形式が純粋直観で、それは現象より先にある。
    ・現象より先にある純粋直観によって、総合的判断が可能になる。 

    (カントの文章分かりにくいと言いながら、自分で書いてみるとやっぱり分かりにくく書いてしまう。整理になってない)

    > だから、幼児はまだ、自分の持つ能力から、総合判断を可能にするアプリオリな概念を引き出してない、手元に使えるように獲得してない、と考えられるのかな?

    まだそこまで育ってないと。後、この場合のアプリオリは総合判断を修飾していて、能力を修飾しているのではないので、万が一後天的学習なり訓練で可能になる場合でもアプリオリな綜合判断といえるのでは。
引用返信/返信 削除キー/
■3936 / inTopicNo.28)  (削除)
□投稿者/ -(2020/07/13(Mon) 20:55:16)
    この記事は(投稿者)削除されました
引用返信/返信 削除キー/
■3932 / inTopicNo.29)  Re[34]: 日記
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2020/07/13(Mon) 20:41:14)
    ここ、いろんなひと来ていろんなこと言ってる。
    わたしもそのひとりだけど、ごめんなさい。

    ほんとうのことってどういうことなのかしら?

    わたしは、見、聞き、嗅ぎ、触り、味わい、立って歩くとができる。

    ジルボイトテイラーの講演動画見た。これ、メビウスで誰かの情報で前に見たことある。

    彼女は右脳と左脳の”どちらを選ぶか”って言ってる。
    でも、ひとは、ふつう、右脳と左脳のどちらも持ってる。
    どちらかを選ぶ必要があるのかしら?

    メルロの、見えるものと見えないもの、この分節の仕方、わたし好み。









引用返信/返信 削除キー/
■3931 / inTopicNo.30)  Re[33]: 理性という神秘
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2020/07/13(Mon) 20:14:57)
    ■3900
    pipitさま、ありがとうございます。
    カントの、よく知ってますね、すごい。

    わたし、メルロ=ポンティ派。
    で、彼の書物を読んで理解しようとしてるんだけど、そのなかにデカルトやカントについて書いてあるところがあって、でもカントのを知らないとメルロのもよくわからない。そこでカントのをいろいろ調べているところです。でもわたしには彼の本を読む余裕はないです、いまのところメルロの世界でていっぱい。

    <カントのアプリオリは、生まれつきという意味ではなくて根源的獲得、という意味合いみたい。>
    ありがとうございます。やっぱ哲学者によって用語の意味が異なってる。

    pipitさまの、<自分自身の能力から、自ら獲得する、ってしてると私は今の所思ってるの>っていうとこ、カントがそう思ってたのかどうかは別として、minoriさまとおなじように?わたし、賛成。

    ■3899 、読みました。
    カントの、なんとなく見えてきた感じかな、でもわたしのこの感にいつ裏切られるかわからないけど。
    カントの「理性」っていう用語、どんな意味で使ってるのかな〜?

    わたしも「私」について考えたことある。
    「私とは何か?」って聞かれたら、わたしのばあい「私とは自分自身のこと」って答える。「じゃ、自分自身とは何か?」って聞かれたら「自分自身とは・・・」って答えてゆくんだけど、長くなるからやめときます。
    ちなみにわたしは、
    「わたし」、「私」という表言で両者を区別してます。

    素朴的意識の実在論、経験的実在論――っていうの、わたしのオリジナル語じゃないです。
    メルロの『行動と構造』の訳注にこんなことが書いてありました。

    〔カントにとっては、〈空間〉と〈時間〉とは人間精神の主観的構造に属するものであり、感性(=対象受容の能力)が働く場合の基本形式である。したがって、それらは認識主観を離れた〈物自体〉の性質や関係ではない。そこで空間、時間は、われわれに〈経験〉されるいっさいのもの(=現象)に関しては客観的であり、空間、時間のなかに存在しないような対象は、経験のなかにないことになる。その意味で、それらは〈経験的実在性〉を持つと言われる。が、他方、それらがわれわれの感性を離れて実在するものではないとすれば、経験を超えた実在性は持たないわけであり、そのことが空間・時間の〈超越論的観念性〉と言われるのである。そこでカントは、自分の立場が観念論ではあるにしても、それはあくまでも〈超越論的〉観念論であって、〈経験的〉観念論ではない、と主張している。メルロ=ポンティは、カントの用語をかりて、素朴的意識の実在論は、〈経験的〉実在論であって、〈超越論的〉実在論ではない、というわけである。〕

    哲学における「〜論」っていうの、なんかややこしくって、いまいち明確に捉えられてないけど、わたしメルロ派、彼のをちょっと使ってみたかっただけ。

引用返信/返信 削除キー/
■3930 / inTopicNo.31)  独裁者?
□投稿者/ 田秋 -(2020/07/13(Mon) 19:56:59)
    pipitさん、こんばんは。

    pipitさんの少し前の書き込みに

    >カント入門』石川康文先生.ちくま新書、p217〜220
    >カントの考える最高善についての記述からの抜粋引用です。
    >石川先生の文章です。
    >『(略)完全な幸福とは、世界において理性的存在者が一切を意のままになしうる?状態を言う。わかりやすく言えば、世界のために自分があるのではなく、自分のために全世界がある状態である(略)。

    というのがありましたね。この最後の部分「自分のために全世界がある状態である」ですが、何か独裁者の理想形のように感じたのですが、、、カントさんがそう仰ってるのですか?

    石川さんの筆の運びは後で神さまを引っ張り出すための無理な布石のようにも見えます。

    文意の捉え方が頓珍漢だとしたらすみません・・・m(_ _)m

引用返信/返信 削除キー/
■3928 / inTopicNo.32)  Re[18]: カントをディスるニーチェ
□投稿者/ おくったがわ -(2020/07/13(Mon) 19:08:31)
    No3796に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    こんばんわ。
    ニーチェのカント批判の引用おもしろいです。

    >>「いかにして《先天的》綜合判断は可能であるか」とカントは自問した。――そして彼は果たして何と答えたか。一つの能力によって、と。しかし残念ながら、この簡潔な言葉をもってではなく、むしろあんなに廻りくどく、勿体らしく、かつドイツ語的な深意と虚飾癖とをもってしたので、そういう答えのうちに潜む愉しい《ドイツ語風の愚かさ》は聞き洩らされてしまった。

    >> 「何故にかのような判断に対する信仰が必要であるか」という他の問いによって補充すべき時である。――すなわち、われわれの如き種類の生物を保持する目的のためには、このような判断が真理として信じられなければならないことを理解すべき時である。

    ニーチェの意図は違うのだろうと思いますが、
    カント自身の書くところでは、意義のある形而上学が可能でなければならない。そのためには、アプリオリな綜合判断が可能でなければならない。
    というのが動機かと思います。
    経験によらず(形而上)+知識を拡張できる(綜合判断)ーそのような学問

    >> しかし一体これは答えであるか。説明であるか。或いは、却って問いの繰り返しにすぎないのではないか。果たして阿片はいかにして眠らせるのか。「一つの能力によって」、すなわち《催眠力》によって、――とモリエール*の作中の医者は答える。

    (答えになってるのか、証明になってるのか? と自分も感じることはあるけれど、批判できるほど把握してない(泣


    >わたしが気になってるのは「一つの能力」っていうところ。
    >カントは人間の或る一つの能力を”発見した”って、ニーチェは言ってるんだと思うんだけど、これはいったい何?っていうことね。

    アプリオリな綜合判断を可能にする能力とすると、  
    空間や時間という形式(純粋直観)によって物自体の世界とは別に、認識の対象である「現象」を実現する能力
    となるかな と思いました。これはpipitさんにも確認してみます。
引用返信/返信 削除キー/
■3924 / inTopicNo.33)  ピピットさんへ
□投稿者/ パニチェ -(2020/07/13(Mon) 18:22:26)
    No3919に返信(pipitさんの記事)
    > こんばんは!
    > 『純粋理性批判を読んでみる。6』の102番目のコメントを
    > 書き込んでもらってありがとうございます。
    > 講演動画見ました。
    > めちゃめちゃ興味深かったです!(◎_◎;)
    > んー不思議。。。。。

    > 見ることができてとても嬉しいです、ありがとうございます!!

    それはよかったです。私も動画があるのは知りませんでした。
    やっぱ、説得力がありますね。^^

    > 『純粋理性批判を読んでみる。6』の102番目に投稿していただいたパニチェさんの記事のコピペです。↓↓↓

    コピペありがとうございます。

引用返信/返信 削除キー/
■3921 / inTopicNo.34)  日記
□投稿者/ pipit -(2020/07/13(Mon) 18:16:08)
引用返信/返信 削除キー/
■3919 / inTopicNo.35)  パニチェさんへ
□投稿者/ pipit -(2020/07/13(Mon) 17:47:51)
    こんばんは!
    『純粋理性批判を読んでみる。6』の102番目のコメントを
    書き込んでもらってありがとうございます。
    講演動画見ました。
    めちゃめちゃ興味深かったです!(◎_◎;)
    んー不思議。。。。。

    見ることができてとても嬉しいです、ありがとうございます!!

    『純粋理性批判を読んでみる。6』の102番目に投稿していただいたパニチェさんの記事のコピペです。↓↓↓


    No3605に返信(pipitさんの記事)
    > 書こうかどうか迷ったんだけど、、、
    > つぶやきぎみに、、、文字小さくなるといいんだけど、、、
    > 瞑想で経験できる世界にもあこがれてしまう、、、
    > でも、わたしのなかのこれは、中学生が超能力にあこがれるようなあさはかさで
    > きっと、こういう気持ちは、リスクも含んでるんだと思う、、、
    > パニチェさんはいろいろ知識としてもわかられてるんだと思う
    > 、、、つぶやきでした m(._.)m

    参考までに以前に引用した投稿が見つかりましたのでコピペしておきます。
    著者のジル・ボルト・テイラーは世界的な脳科学者(ハーバード大学で脳神経科学の専門家として活躍していた女性)で、37歳に脳卒中で倒れ復帰するまでの記録です。

    *****以下、『奇跡の脳』からの引用*****

    P.53
    左脳がこれまで支配していた神経線維の機能が停止したので、右脳は左脳の支配から解放されています。知覚は自由になり、意識は、右脳の静けさを表現できるように変わっていきました。解放感と変容する感じに包まれて、意識の中心はシータ村にいるかのようです。仏教徒なら、涅槃(ニルヴァーナ)の境地に入ったと言うのでしょう。

    P.96
    左脳は自分自身を、他から分離された固体として認知するように訓練されています。今ではその堅苦しい回路から解放され、わたしの右脳は永遠の流れへの結びつきを楽しんでいました。もう孤独ではなく、淋しくもない。魂は宇宙と同じように大きく、そして無限の海のなかで歓喜に心を躍らせていました。自分を流れとして、あるいは、そこにある全てのエネルギーの流れに結ばれた、宇宙と同じ大きさの魂を持つものとして考えることは、わたしたちを不安にします。

    しかしわたしの場合、自分は固まりだという左脳の判断力がないため、自分についての認知は、本来の姿である「流れ」に戻ったのです。わたしたちは確かに、静かに振動する何十兆個という粒子なのです。わたしたちは、全てのものが動き続けて存在する、流れの世界のなかの、流体でいっぱいになった嚢(ふくろ)として存在しています。異なる存在は、異なる密度の分子で構成されている。しかし結局のところ、全ての粒は、優雅なダンスを踊る電子や陽子や中性子といったものからつくられている。あなたとわたしの全て微塵を含み、そして、あいだの空間にあるように見える粒は、原子的な物体とエネルギーでできている。

    わたしの目はもはや、物を互いに離れた物としては認識できませんでした。それどころか、あらゆるエネルギーが一緒に混ざり合っているように見えたのです。視覚的な処理はもう、正常ではありませんでした。(わたしはこの粒々になった光景が、まるで印象派の点描画のようだと感じました)

    P.175
    この体験から、深い心の平和というものは、いつでも、誰でもつかむことができるという知恵をわたしは授かりました。涅槃(ニルヴァーナ)の体験は右脳の意識の中に存在し、どんな瞬間でも、脳のその部分の回路に「つなぐ」ことができるはずなのです。

    ************* 引用終わり ***********

    講演動画:ジル・ボルト・テイラーのパワフルな洞察の発作
    https://www.ted.com/talks/jill_bolte_taylor_my_stroke_of_insight?language=ja#t-363552
引用返信/返信 削除キー/
■3916 / inTopicNo.36)  minoriさんへ
□投稿者/ pipit -(2020/07/13(Mon) 17:18:23)
    こんにちは!

    これから読んでいくつもりなんですけど、
    悪魔ちゃんさんに引用してもらった中島義道先生の文章の中に以下のものがあります。

    『カントの問題をやや普遍化して言い換えるならば(別の語り方ではなく)「物の空間・時間的配置ならびに運動を記述することによってのみわれわれが世界を客観的・統一的に語ることができるのはなぜか」という問いに関わることが「超越論的」なのである。これは、今日なお大きな問いであろう。物理学が世界を記述し尽くすことができないことは明らかであるが、別の仕方で世界をより客観的・統一的に語ることができるわけでもない。客観的・統一的な世界記述を求める限り、やはりわれわれは時空における物の配置と運動に着目する以外の仕方ないのだとすれば、それはなぜなのか。この問いに関わることが狭義の「超越論哲学」である。〕』

    主観しかないわたしたちが、その主観から共有しようとすると、
    ある基準データならかろうじて、語り合うことができる。
    100メートルを15秒で走る。ということなら、その『知』に含まれる一部は
    かろうじて、共有もどきであろうとも、話を合わせられる。

    厳密には主観しか直知できない私たちの、共有、をつくる能力を、人間の能力に注視して、探求しているのが、カントの『純粋理性批判』かなと思っています。

    これに関連してなのですが、まだ未勉強ですが、
    この優れた能力ゆえに人間には尊厳がある、と、もしカントが考えてるなら、
    そこは私は同感しないところです。
    その論理でいうと例えば認知症になったら、その人の尊厳は危うくなるし、
    動物の尊厳も成り立たないのではないか。
    こう思う人はたくさんいて、だから、
    『ぼけたカントに理性はあるのか』みたいなタイトルの本を出されたりするのだと思います。
    その著者の方はお医者様で、認知症の方の尊厳も大切に考えられてるのだと思います。


    意識かぁ。
    意識は本当に不思議ですよね。

    私にはわからないこといっぱいです。

引用返信/返信 削除キー/

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