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■36847 / inTopicNo.49)  Re[40]: ストア派
  
□投稿者/ akaimi -(2024/03/18(Mon) 08:23:29)
    時さん、おはようございます。

    >akaimiさん、パニチェさんへ。こんにちは。今回も少し、ストア派についての考察を書きたいと思いますが、もしも会話の流れ的にお邪魔なようでしたら、他に移しますので、仰っていただければと思います。

    これからもどうぞ自由に投稿してくださいね。

    ストア派についての本が来たので少しずつ読んでみます。
    エピクテトスの言葉についての本とは違い今度のは難しいと思うので、手こずりそうです。
    マイペース&能力の範囲で読んでみます。^^

引用返信/返信 削除キー/
■36856 / inTopicNo.50)  Re[41]: ストア派
□投稿者/ 時 -(2024/03/18(Mon) 21:07:47)
    akaimiさんへ。こんばんは。

    No36847に返信(akaimiさんの記事)
    > >akaimiさん、パニチェさんへ。こんにちは。今回も少し、ストア派についての考察を書きたいと思いますが、もしも会話の流れ的にお邪魔なようでしたら、他に移しますので、仰っていただければと思います。

    > これからもどうぞ自由に投稿してくださいね。

    ありがとうございます。^^

    https://todays-list.com/i/?q=/%E3%82%A8%E3%83%94%E3%82%AF%E3%83%86%E3%83%88%E3%82%B9%E3%80%8E%E8%AA%9E%E9%8C%B2%E3%80%8F/1/1/

    上記リンク先の「エピクテトス『語録』」というところに

    ・自由意志は盗人の手のとどかざる財宝なり。

    とういう一文があるのですね。

    このエピクテトス語録の中の「自由意志」が何を示しているのか?なのですね。。

    No36837 
    > それならば、運命においては何を行為しても無駄(宿命論)になるという事に帰結する議論が生じ、それに対してクリュシッポスにより、運命論によっても自由意志の存在は否定されず、両者は問題なく両立するとみなす立場(両立論)が主張されました。

    > ここでは、例え運命論であっても自由意志の存在は否定されないと言う両立論が展開されました。そしてその内容は、人間の行為(ないし同意・意欲)の決定的な原因は、各人の性向(性質の上での傾向。気質)にある点に自由意志を担保しようとしたものでした。

    と、私は論文に書かれていた内容について考察したのですが、だとすると、クリュシッポスの主張した両立論における、各人の性向にある点に自由意志を担保しようとしたという事になりそうなのですが、、はたしてストア派においてのエピクテトスの立ち位置で、この意味をもって「自由意志は盗人の手のとどかざる財宝なり。」という言葉を残したものなのかが私には分からなのですね。。

    ストア派は、基本的には運命論で、しかし自由意志の存在をも担保するために両立論が主張されという・・・

    私の誤読かもしれませんので、これはこの辺で(笑)

    > ストア派についての本が来たので少しずつ読んでみます。
    > エピクテトスの言葉についての本とは違い今度のは難しいと思うので、手こずりそうです。
    > マイペース&能力の範囲で読んでみます。^^

    この辺りの事が、もしもストア派の書籍に何か記載がありましたら、また教えていただければ幸いです。^^ しかし、、直感ですが、なかなか簡単ではなさそうな感じがしますね。

    では、また、ご感想を楽しみにしています。^^ ご返信は不要です。
引用返信/返信 削除キー/
■36857 / inTopicNo.51)  Re[42]: ストア派
□投稿者/ akaimi -(2024/03/19(Tue) 10:28:03)
    時さん、おはようございます。
    レスありがとうございます。


    No36856に返信(時さんの記事)

    > https://todays-list.com/i/?q=/%E3%82%A8%E3%83%94%E3%82%AF%E3%83%86%E3%83%88%E3%82%B9%E3%80%8E%E8%AA%9E%E9%8C%B2%E3%80%8F/1/1/
    >
    > 上記リンク先の「エピクテトス『語録』」というところに
    >
    > ・自由意志は盗人の手のとどかざる財宝なり。
    >
    > とういう一文があるのですね。
    >
    > このエピクテトス語録の中の「自由意志」が何を示しているのか?なのですね。。
    >
    > No36837 
    >>それならば、運命においては何を行為しても無駄(宿命論)になるという事に帰結する議論が生じ、それに対してクリュシッポスにより、運命論によっても自由意志の存在は否定されず、両者は問題なく両立するとみなす立場(両立論)が主張されました。
    >
    >>ここでは、例え運命論であっても自由意志の存在は否定されないと言う両立論が展開されました。そしてその内容は、人間の行為(ないし同意・意欲)の決定的な原因は、各人の性向(性質の上での傾向。気質)にある点に自由意志を担保しようとしたものでした。
    >
    > と、私は論文に書かれていた内容について考察したのですが、だとすると、クリュシッポスの主張した両立論における、各人の性向にある点に自由意志を担保しようとしたという事になりそうなのですが、、はたしてストア派においてのエピクテトスの立ち位置で、この意味をもって「自由意志は盗人の手のとどかざる財宝なり。」という言葉を残したものなのかが私には分からなのですね。。
    >
    > ストア派は、基本的には運命論で、しかし自由意志の存在をも担保するために両立論が主張されという・・・
    >
    > 私の誤読かもしれませんので、これはこの辺で(笑)

    『ストア派』ジャン=パティスト・グリナ 著 川本 愛 訳を昨日からぱらぱらと読んでみています。
    全体の印象としてやはり難しい本です。
    第二章に「ストア派の更新」としてエピクテトスについて書かれているので、そこから引用してみますね。

    ===
    彼によれば、私たち次第であるたった一つのものこそが、私たち自身の選択なのである。その結果、ブロアイレシスは私自身と同一のものであり、ゼウス自身ですらそれを強制することはできない。(一・一・二三)
    ===
    同書p121より引用

    プロアイレシスというのは選択のこと。
    文末の数字は『提要』中の番号のようです。

    外的なことは「我々次第ではないもの」だけれど、選択は「我々次第であるもの」だとエピクテトスは考えていたのだろう、と私は現時点では捉えています。


    > ・自由意志は盗人の手のとどかざる財宝なり。

    同書p117によると、財産、名誉、身体、健康は選択の外にあるものとエピクテトスはしていたそうです。
    外的なものは選択のための素材にすぎず、したがって善でも悪でもなく、伝統的な枠組みにおける無差別なものである。


    貧しさは選択の外にあるもので、それは善でも悪でもなく無差別なものである。
    私たち次第であるたった一つのものであるプロアイレシス(選択)次第で盗みをするかしないかは決められる。
    このようにエピクテトスは考えるのじゃないかな、と想像します。

    時さんが書いてくださったものによると、
    >各人の性向(性質の上での傾向。気質)<
    が両立論としての自由意志に反映される、とするのが前期ストア派の立ち位置で、
    エピクテトスは、各人の性向というよりどういう「選択」をするかがその人である、と考えたのかなと、そのように私は見ました。

    といったところでまたぼちぼちと可能な範囲で最初から読んでいこうと思います。

引用返信/返信 削除キー/
■36859 / inTopicNo.52)  Re[43]: ストア派
□投稿者/ 時 -(2024/03/19(Tue) 13:27:17)
    2024/03/19(Tue) 13:34:02 編集(投稿者)

    akaimiさんへ。こんにちは。返信をありがとうございます。

    No36857に返信(akaimiさんの記事)
    > 『ストア派』ジャン=パティスト・グリナ 著 川本 愛 訳を昨日からぱらぱらと読んでみています。
    > 全体の印象としてやはり難しい本です。
    > 第二章に「ストア派の更新」としてエピクテトスについて書かれているので、そこから引用してみますね。

    毎回、ありがとうございます。m(__)m

    > 彼によれば、私たち次第であるたった一つのものこそが、私たち自身の選択なのである。その結果、ブロアイレシスは私自身と同一のものであり、ゼウス自身ですらそれを強制することはできない。(一・一・二三)

    > プロアイレシスというのは選択のこと。
    > 文末の数字は『提要』中の番号のようです。

    > 外的なことは「我々次第ではないもの」だけれど、選択は「我々次第であるもの」だとエピクテトスは考えていたのだろう、と私は現時点では捉えています。

    はい。エピクテトス自身は、事象を内界(我々次第であるもの)と外界(我々次第ではないもの)に分けて、その内界(我々次第であるもの)自体が私自身と同一であり、何者からの束縛やなにがしかの制約等を受けない。そして、その内界(我々次第であるもの)が唯一、私たち自身の選択という内界での行為なのだという事だと解釈しました。

    >>・自由意志は盗人の手のとどかざる財宝なり。

    > 同書p117によると、財産、名誉、身体、健康は選択の外にあるものとエピクテトスはしていたそうです。
    > 外的なものは選択のための素材にすぎず、したがって善でも悪でもなく、伝統的な枠組みにおける無差別なものである。

    はい。そうですよね。彼の思考世界を想像すると、財産、名誉、身体、健康等自体は、内界(我々次第であるもの)での選択のための単なる素材だという事でしょう。当然この考え方では、それらは善でも悪でもないですね。

    > 貧しさは選択の外にあるもので、それは善でも悪でもなく無差別なものである。
    > 私たち次第であるたった一つのものであるプロアイレシス(選択)次第で盗みをするかしないかは決められる。
    > このようにエピクテトスは考えるのじゃないかな、と想像します。

    > 時さんが書いてくださったものによると、
    > >各人の性向(性質の上での傾向。気質)<
    > が両立論としての自由意志に反映される、とするのが前期ストア派の立ち位置で、
    > エピクテトスは、各人の性向というよりどういう「選択」をするかがその人である、と考えたのかなと、そのように私は見ました。

    ありがとうございます。akaimiさんの現時点でのご認識は了解しました。^^

    なるほど。この場合、選択が起こるのではなくて選択するとなるのですね。。そしてその選択を”する”のが、その本人だという事なのでしょうね。

    やはり出てくるんですよね。。同じストア派での前期とか後期とか。。私にとっては、ややこしいのですね(笑)今のところ、メタでの視点で全体像を把握することは私には出来そうにありませんかね。

    そうしますと、エピクテトスの思想では、運命論では無くなるような気がしましたが、下記(運命論 wiki)の「世の中の出来事はすべて」が彼の言う外界(我々次第ではないもの)に当てはまるのであれば、運命論と言ってもよいのかもしれませんね。その運命での出来事を外界(我々次第ではないもの)として、それとは無関係に内界(我々次第であるもの)は、本来的にはその影響を受けないのだという事でしょう。

    ・運命論(wiki)
    > 宿命論(しゅくめいろん)あるいは運命論(うんめいろん、英: fatalism)とは、世の中の出来事はすべて、あらかじめそうなるように定められていて、人間の努力ではそれを変更できない、とする考え方[1][2]。宿命論の考え方をする人を宿命論者と言う。

    一方、あらゆる出来事は、その出来事に先行する出来事のみによって決定しているとする決定論(wiki)は、仏教の十二支縁起に示されるような、因果の関係を言うのでしょうか。この場合も、内面に沸き起こる心の状態を平安に導くべく教えだと思いますので、その内面にも関係してくるように思いますね。

    ・決定論(wiki)
    > 決定論(けっていろん、英: determinism、羅: determinare)とは、あらゆる出来事は、その出来事に先行する出来事のみによって決定している、とする哲学的な立場。

    ここまでで、ストア派のエピクテトスは、運命論でのよりよく生きるための教えであり、仏教は、決定論での心を平安に至らすための教えと言えるでしょうか。(勿論、この辺りのお話は、仏教では無記とされますが)

    下記の定義で考えますと、アドヴァイタは汎神論ですね。これが仏教以外では、私には、一番しっくりときそうです。

    ・汎神論(wiki)
    > 汎神論(はんしんろん、英: pantheism)または万有神論とは、現実は神性と同一である[1]、あるいは、すべてのものはすべてを包含する内在的な神を構成しているという信条[2]。神を擬人化した人格神を認めず[3]、一切全てを神と同一視する神学的・宗教的・哲学的立場[4]。

    > といったところでまたぼちぼちと可能な範囲で最初から読んでいこうと思います。

    教えていただいてありがとうございました。お陰様でざっくりとした外観は理解できるように感じましたが、お話の脱線および読書のお邪魔をしてしまったようで、すみません。m(__)m

    では、ぼちぼちと読書にお戻りくださいませ。(^^)
引用返信/返信 削除キー/
■36863 / inTopicNo.53)  Re[39]: エピクテトス
□投稿者/ パニチェ -(2024/03/20(Wed) 08:21:30)
    おはようございます、akaimiさん。レスありがとうございます。

    No36845に返信(akaimiさんの記事)

    > ストア派の本が来ましたので、読んでみてまとめられそうでしたらまた投稿させてください。

    興味津々です。
    自分で買って読まなくても情報が得られるってラッキーだなぁ〜。
    楽しみにロムします。
引用返信/返信 削除キー/
■36934 / inTopicNo.54)  ストア派
□投稿者/ akaimi -(2024/03/26(Tue) 08:40:23)
    2024/03/26(Tue) 08:42:30 編集(投稿者)

    『ストア派』ジャン=パティスト・グリナ 著 川本 愛 訳
    を一通り読んでみました。

    著者は、フランス国立科学研究センター研究部長、古代思想研究所所長で、古代哲学の国際的な研究者であり、一般向けの書物でストア派の普及にも貢献。と、紹介にあります。


    興味深く感じたところを断片的に引用していってみます。

    ヘレニズム期にゼノンにより始まったとされるストア派。
    ===
    とくに、ゼノンが火を特別な構成要素として重視したことはヘラクレイトスに負っている。
    ===p18より

    ===
    同様に、ゼノンが、魂は物体でありプラトンの「イデア」は思考の対象でしかないとして、非物体的な実体が存在するというプラトン的な主張を批判したのも、キュニコス派とメガラ派の流れを汲んでいる。
    ===p19より

    ===
    倫理学においてゼノンは、ただ徳だけが善であり悪徳だけが悪であるが、善悪無差別のもののうち、たとえば健康のようなものは優先される価値をもつものであると主張した。
    「義務(適切な行為)」という概念を発明し、義務のうちに完全な義務というカテゴリ―を区別した。
    あらゆる情念を否定し、情念を誤った判断として考えた。
    ===p19〜p20より

    しなければならないとされることを現代では「義務」とするけど、ゼノンは「義務」を「適切な行為」と定義していたようです。

    情念というのは感情に支配されることを意味するのだろうと考えます。
    そしてそれは適切な行為ではない(義務ではない)となるのかな。


    ゼノンには何人か弟子がいて、ゼノンの後継者として選ばれたクレアンテスという人は元拳闘家だそうです。
    ===
    クレアンテスはゼノンの自然学におけるヘラクレイトス的な部分、とくに魂が「プネウマ(気息)」であるという理論を強調した。「トノス(緊張力)」の理論、つまり万物の実体が、火によって生みだされた緩むことのない緊張力を受けているという理論を初めて提唱したのは、クレアンテスだったようである。
    ===p21より

    魂はプネウマ(気息)である、と考えていたのですね。
    気息は非物体的な存在ではないものね。



    続きはまた。


引用返信/返信 削除キー/
■37001 / inTopicNo.55)  Re[45]: ストア派
□投稿者/ akaimi -(2024/04/03(Wed) 14:55:01)
    2024/04/05(Fri) 17:07:04 編集(投稿者)
    2024/04/03(Wed) 15:14:48 編集(投稿者)

    前回に続き『ストア派』ジャン=パティスト・グリナ 著 川本 愛 訳
    からです。

    ===
    神、あるいは理性は、素材が原初の火の状態にあるときからすでに素材に内在し、種子として、すなわち、動物と植物をつくる生物的な原理としてはたらく理性的な原理である。人間のうちにあるものとしては、それは魂として人間を指導する指導的な原理である。
    ===p87より

    理性=神であり、人間のうちとしては魂としてその人間を指導する原理と言っているようです。
    このあたりなんとなくブラフマン=アートマンとも少し似ているのかな。
    神はどうやら宇宙の外にあるものではなく、素材(のちに宇宙のさまざまなものに変化するもの)が原初の火だった時から種子として内在していた理性的な原理、と考えていたようです。


    p91から「宿命と原因」という見出しで、もしもすべてが宿命に従って生じるならば、人間の責任はどのように位置づけられるのだろうか?についてのクリュシッポスの回答があります。

    クリュシッポスというのは、前回で触れたクレアンテスの弟子でストア派の体系を整えた人だそうです。

    宿命論と怠惰が帰結するだろうという問い、具体的には、
    ===
    「もし病気から快復するのが君の宿命なら、医者を呼んでも呼ばなくても、君は回復するだろう。だがもし回復しないのが君の宿命なら、医者を呼んでも呼ばなくても君は回復するだろう。
    しかるに君の宿命は回復するかしないかのどちらかである。
    したがって、君が医者を呼ぶのは無駄である。」
    ===p95より

    上記引用を訂正します。
    ===
    「もし病気から快復するのが君の宿命なら、医者を呼んでも呼ばなくても、君は回復するだろう。だがもし回復しないのが君の宿命なら、医者を呼んでも呼ばなくても君は回復しないだろう。
    しかるに君の宿命は回復するかしないかのどちらかである。
    したがって、君が医者を呼ぶのは無駄である。」
    ===p95より (4月5日訂正)


    回復するかしないかのどちらかになることは宿命づけられているなら、医者を呼ぶか呼ばないかについては無関係だと質問者は言っています。

    それに対してクリュシッポスは、
    ===
    私たちが医者のおかげで回復するということと、私たちが医者を呼ぶことは「一緒に宿命づけられている」と述べた。
    ===p95より

    ここからは私の考察です。

    1.医者を呼んで回復した
    2.医者を呼んだが回復しなかった
    3.医者を呼ばなかったが回復した
    4.医者を呼ばず回復もしなかった

    この4通りが考えられますね。
    そしてクリュシッポスの説に従うなら、どのパターンも宿命によるもの、になるのだと思います。

    「病気になった」ということが医者を呼ぶか呼ばないかの原因となるもので、病気になった際に医者を呼ぶか呼ばないかはその人の判断によるけれど、どういう判断をするかも含めての宿命である、と言いたいのかな。 
    回復する、しないという結果だけに注目するのではなく因果関係に注目し、選択は自分でできうるということを言いたかったのだろうと思います。






引用返信/返信 削除キー/
■37013 / inTopicNo.56)  Re[46]: ストア派
□投稿者/ 時 -(2024/04/05(Fri) 12:49:15)
    2024/04/05(Fri) 15:58:26 編集(投稿者)
    2024/04/05(Fri) 15:55:25 編集(投稿者)

    akaimiさんへ。こんにちは。

    No37001に返信(akaimiさんの記事)

    > 前回に続き『ストア派』ジャン=パティスト・グリナ 著 川本 愛 訳
    > からです。

    > ===
    > 神、あるいは理性は、素材が原初の火の状態にあるときからすでに素材に内在し、種子として、すなわち、動物と植物をつくる生物的な原理としてはたらく理性的な原理である。人間のうちにあるものとしては、それは魂として人間を指導する指導的な原理である。
    > ===p87より

    > 理性=神であり、人間のうちとしては魂としてその人間を指導する原理と言っているようです。
    > このあたりなんとなくブラフマン=アートマンとも少し似ているのかな。

    そうですね。古代インドの梵我一如の思想に似ていそうですね。
    梵我一如の思想は、ブラフマン=アートマンだという事でしょうから。

    > 神はどうやら宇宙の外にあるものではなく、素材(のちに宇宙のさまざまなものに変化するもの)が原初の火だった時から種子として内在していた理性的な原理、と考えていたようです。

    私の知るインドの思想では、一切の源泉を神とするようです。ですので、火を原初とはしないように思いますが、これも表現の違いだけで、原初の火だった時から、原初の水だった時から、原初の風だった時から、原初の土だった時から種子として内在していた理性的な原理と言っても違和感はなさそうですね。そしてこの中でストア派は、その始まりであるゼノンが火を特別な構成要素として重視したことはヘラクレイトス由来のものだったという事だったという事なのですね。

    ヘラクレイトスで思い出しましたが、過去に一瞬だけ何かで見た記憶があります。万物流転の思想の方ですよね。同じ川には同じ人は入れない、だったでしょうか。これを見たときには、それはそうでしょう。。で、後は調べてはいませんが^^

    なるほど、このヘラクレイトスが火を重要視し、それを基本的にゼノンが取り入れて受け継いだという事だったのですね。

    > p91から「宿命と原因」という見出しで、もしもすべてが宿命に従って生じるならば、人間の責任はどのように位置づけられるのだろうか?についてのクリュシッポスの回答があります。

    ここですね。問題点は(笑)

    > 宿命論と怠惰が帰結するだろうという問い、具体的には、
    > ===
    > 「もし病気から快復するのが君の宿命なら、医者を呼んでも呼ばなくても、君は回復するだろう。だがもし回復しないのが君の宿命なら、医者を呼んでも呼ばなくても君は回復するだろう。
    > しかるに君の宿命は回復するかしないかのどちらかである。
    > したがって、君が医者を呼ぶのは無駄である。」
    > ===p95より

    上記の「回復しないのが君の宿命なら、医者を呼んでも呼ばなくても君は回復するだろう。」というところが理解できません。「回復しないのが君の宿命なら、医者を呼んでも呼ばなくても君は回復しないだろう。」ではないのでしょうか?

    > 回復するかしないかのどちらかになることは宿命づけられているなら、医者を呼ぶか呼ばないかについては無関係だと質問者は言っています。

    > それに対してクリュシッポスは、
    > ===
    > 私たちが医者のおかげで回復するということと、私たちが医者を呼ぶことは「一緒に宿命づけられている」と述べた。
    > ===p95より

    > ここからは私の考察です。

    > 1.医者を呼んで回復した
    > 2.医者を呼んだが回復しなかった
    > 3.医者を呼ばなかったが回復した
    > 4.医者を呼ばず回復もしなかった

    > この4通りが考えられますね。
    > そしてクリュシッポスの説に従うなら、どのパターンも宿命によるもの、になるのだと思います。

    > 「病気になった」ということが医者を呼ぶか呼ばないかの原因となるもので、病気になった際に医者を呼ぶか呼ばないかはその人の判断によるけれど、どういう判断をするかも含めての宿命である、と言いたいのかな。 
    > 回復する、しないという結果だけに注目するのではなく因果関係に注目し、選択は自分でできうるということを言いたかったのだろうと思います。

    私自身が考えるときには、運命と宿命の定義の違いをあまり考えませんで、もっぱら運命と表現していますが、今回は、それを宿命と表現してみます。

    上記を読みますと、クリュシッポスの回答は、至極当然な答え方をしていると思います。akaimiさんが仰るように、どのパターンでも宿命なのだから、医者を呼ぼうが呼ぶまいが、病気が治ろうが治ろまいが、それらはどのパターにおいても宿命なのだという事でしょう。ですので、その全ての因果関係においてはそれら自体が宿命なのだから、自由意志での選択により医者を呼ぶ、呼ばないという選択も自由なのだという事だろうと思いました。だから自由意志はあるのだというのが、クリュシッポスの回答だと理解しました。

    しかし、自由意志での選択を否定することを否定するためにクリュシッポスの主張としての回答があるように思いますが、主張ですので仕方ないという想いもありますが、少し無理があるのかなと感じました。

    以下は、病気になったとある人が認識した瞬間を起点とします。

    医者を呼んだ。
    医者を呼んだので、医者が来た。
    医者を呼んだが、医者が来ない。

    医者を呼ぼとしたが、呼べなかった。
    医者を呼ぼとしたが、呼べなかった。しかし医者が来た。
    医者を呼ぼとしたが、呼べなかったので、医者は来なかった。

    医者を呼ばない。
    医者を呼んでいないが、医者が来た。
    医者を呼んでいないので、医者は来ない。

    医者を呼んで回復した。
    医者を呼ばなかったので回復した。
    医者を呼ばなかったが回復した。

    医者を呼ばず回復もしなかった。
    医者を呼んだので回復しなかった。
    医者を呼んだが回復しなかった。(ry)

    つまりは、思考の結果として、本人に能動的な行動(医者を呼ぶ行為)が起こるときには、自由意志での選択はあり、受動的な行動が起こるときには、自由意志での選択とは無関係の結果が生じるように思います。

    もしも"全て"が宿命ならば、その自由意志の選択で起こること以外の出来事も宿命ですね?ですので、自由意志での選択はあると同時に、自由意志での選択はないのだとなるのではないでしょうか。

    > 私たちが医者のおかげで回復するということと、私たちが医者を呼ぶことは「一緒に宿命づけられている」と述べた。

    そうだとは限らないかなぁと思いました。一緒に宿命づけられている場合もあるだろうし、宿命として、そうではない場合もあるだろうという事です。

    私たちの病気が回復するということと、私たちが医者を呼ぶこと、医者を呼ばないことは、両者一緒に宿命づけられている。となるように感じました。

    もしも時が、当時のクリュシッポスに尋ねることができたとしたならば、

    「もし病気から快復するのが君の宿命なら、医者を呼んでも呼ばなくても、君は回復するだろう。だがもし回復しないのが君の宿命なら、医者を呼んでも呼ばなくても君は回復しないだろう。しかるに君の宿命は回復するかしないかのどちらかである。したがって、君が医者を呼ぶのは無益であり、かつ有益である。よって、そのどちらを選択するのかはあなたにその決定権があるという主張ですか?」と尋ねると思いました。
引用返信/返信 削除キー/
■37015 / inTopicNo.57)  Re[47]: ストア派
□投稿者/ akaimi -(2024/04/05(Fri) 17:03:11)
    2024/04/05(Fri) 17:22:33 編集(投稿者)
    時さん、こんにちは。レスありがとうございます。


    No37013に返信(時さんの記事)
    > 2024/04/05(Fri) 15:58:26 編集(投稿者)
    > 2024/04/05(Fri) 15:55:25 編集(投稿者)


    > なるほど、このヘラクレイトスが火を重要視し、それを基本的にゼノンが取り入れて受け継いだという事だったのですね。

    p18に、
    ===
    とくに、ゼノンが火を特別な構成要素として重視したことはヘラクレイトスに負っている。
    ===
    とあります。とりあえずそういうことだというのだけで今はいいかなと。^^


    >>宿命論と怠惰が帰結するだろうという問い、具体的には、
    >>===
    >>「もし病気から快復するのが君の宿命なら、医者を呼んでも呼ばなくても、君は回復するだろう。だがもし回復しないのが君の宿命なら、医者を呼んでも呼ばなくても君は回復するだろう。
    >>しかるに君の宿命は回復するかしないかのどちらかである。
    >>したがって、君が医者を呼ぶのは無駄である。」
    >>===p95より
    >
    > 上記の「回復しないのが君の宿命なら、医者を呼んでも呼ばなくても君は回復するだろう。」というところが理解できません。「回復しないのが君の宿命なら、医者を呼んでも呼ばなくても君は回復しないだろう。」ではないのでしょうか?


    そうです、すみません。打ち間違えです。
    >>「もし病気から快復するのが君の宿命なら、医者を呼んでも呼ばなくても、君は回復するだろう。だがもし回復しないのが君の宿命なら、医者を呼んでも呼ばなくても君は回復しないだろう。
    >>しかるに君の宿命は回復するかしないかのどちらかである。
    >>したがって、君が医者を呼ぶのは無駄である。」
    >>===p95より

    に訂正します。

    >>回復するかしないかのどちらかになることは宿命づけられているなら、医者を呼ぶか呼ばないかについては無関係だと質問者は言っています。
    >
    >>それに対してクリュシッポスは、
    >>===
    >>私たちが医者のおかげで回復するということと、私たちが医者を呼ぶことは「一緒に宿命づけられている」と述べた。
    >>===p95より
    >
    >>ここからは私の考察です。
    >
    >>1.医者を呼んで回復した
    >>2.医者を呼んだが回復しなかった
    >>3.医者を呼ばなかったが回復した
    >>4.医者を呼ばず回復もしなかった
    >
    >>この4通りが考えられますね。
    >>そしてクリュシッポスの説に従うなら、どのパターンも宿命によるもの、になるのだと思います。
    >
    >>「病気になった」ということが医者を呼ぶか呼ばないかの原因となるもので、病気になった際に医者を呼ぶか呼ばないかはその人の判断によるけれど、どういう判断をするかも含めての宿命である、と言いたいのかな。 
    >>回復する、しないという結果だけに注目するのではなく因果関係に注目し、選択は自分でできうるということを言いたかったのだろうと思います。
    >
    > 私自身が考えるときには、運命と宿命の定義の違いをあまり考えませんで、もっぱら運命と表現していますが、今回は、それを宿命と表現してみます。
    >
    > 上記を読みますと、クリュシッポスの回答は、至極当然な答え方をしていると思います。akaimiさんが仰るように、どのパターンでも宿命なのだから、医者を呼ぼうが呼ぶまいが、病気が治ろうが治ろまいが、それらはどのパターにおいても宿命なのだという事でしょう。ですので、その全ての因果関係においてはそれら自体が宿命なのだから、自由意志での選択により医者を呼ぶ、呼ばないという選択も自由なのだという事だろうと思いました。だから自由意志はあるのだというのが、クリュシッポスの回答だと理解しました。
    >
    > しかし、自由意志での選択を否定することを否定するためにクリュシッポスの主張としての回答があるように思いますが、主張ですので仕方ないという想いもありますが、少し無理があるのかなと感じました。
    >
    > 以下は、病気になったとある人が認識した瞬間を起点とします。
    >
    > 医者を呼んだ。
    > 医者を呼んだので、医者が来た。
    > 医者を呼んだが、医者が来ない。
    >
    > 医者を呼ぼとしたが、呼べなかった。
    > 医者を呼ぼとしたが、呼べなかった。しかし医者が来た。
    > 医者を呼ぼとしたが、呼べなかったので、医者は来なかった。
    >
    > 医者を呼ばない。
    > 医者を呼んでいないが、医者が来た。
    > 医者を呼んでいないので、医者は来ない。
    >
    > 医者を呼んで回復した。
    > 医者を呼ばなかったので回復した。
    > 医者を呼ばなかったが回復した。
    >
    > 医者を呼ばず回復もしなかった。
    > 医者を呼んだので回復しなかった。
    > 医者を呼んだが回復しなかった。(ry)
    >
    > つまりは、思考の結果として、本人に能動的な行動(医者を呼ぶ行為)が起こるときには、自由意志での選択はあり、受動的な行動が起こるときには、自由意志での選択とは無関係の結果が生じるように思います。
    >
    > もしも"全て"が宿命ならば、その自由意志の選択で起こること以外の出来事も宿命ですね?ですので、自由意志での選択はあると同時に、自由意志での選択はないのだとなるのではないでしょうか。
    >
    >>私たちが医者のおかげで回復するということと、私たちが医者を呼ぶことは「一緒に宿命づけられている」と述べた。
    >
    > そうだとは限らないかなぁと思いました。一緒に宿命づけられている場合もあるだろうし、宿命として、そうではない場合もあるだろうという事です。
    >
    > 私たちの病気が回復するということと、私たちが医者を呼ぶこと、医者を呼ばないことは、両者一緒に宿命づけられている。となるように感じました。
    >
    > もしも時が、当時のクリュシッポスに尋ねることができたとしたならば、
    >
    > 「もし病気から快復するのが君の宿命なら、医者を呼んでも呼ばなくても、君は回復するだろう。だがもし回復しないのが君の宿命なら、医者を呼んでも呼ばなくても君は回復しないだろう。しかるに君の宿命は回復するかしないかのどちらかである。したがって、君が医者を呼ぶのは無益であり、かつ有益である。よって、そのどちらを選択するのかはあなたにその決定権があるという主張ですか?」と尋ねると思いました。

    そもそもの質問者は、「なんでもかんでも宿命で定められているというなら、なにしたってしかたないんじゃないか? 各人の努力は無駄になる場合もあるよね?」ってなことをクリュシッポスにぶつけたかったのだろうな、と私は考えました。
    しかし、クリュシッポス的にはそうではない、と。

    p96に、
    ===
    衝動と同意は、「私たち次第である」。なぜなら、「同意は表象によって引き起こされないかぎりは生じることがない」(表象は「外的な刺激」として働きかける)のだが、この表象は、同意の先行的な原因であり完全な原因ではないからである。
    ===とあります。

    上の例でいえば、「どこかが痛くなった」というのが表象で、その時に「医者を呼ぶ」あるいは「医者を呼ばない」という選択をするのが衝動と同意になるのだと思います。
    そして衝動と同意は「私たち次第である」と。


    時さんの考察に対しての直接のレスになっていなくてすみません。

    本がもう一つわかりやすくはないのもあり、ストア派についてはこのあたりで終わりにしようかな、と思っていたところでした。
    もし続けて考察されるときは自由に投稿してくださいね。

    それから、忘れてたので加えます。
    クリュシッポスのいう「宿命」というのは、現代の私たちの考える「宿命」とはどうも違うのではないか、というのは感じました。
    自分の選択で決められることも含めて宿命だというのであれば、それはわざわざ宿命と言わなくてもいいのではないかと思います。
    (身分や生まれ持っての健康状態などは宿命といってもいいでしょうけれど。)







引用返信/返信 削除キー/
■37017 / inTopicNo.58)  Re[48]: ストア派
□投稿者/ 時 -(2024/04/05(Fri) 18:57:15)
    akaimiさんへ。こんにちは。返信をありがとうございます。

    No37015に返信(akaimiさんの記事)

    > そもそもの質問者は、「なんでもかんでも宿命で定められているというなら、なにしたってしかたないんじゃないか? 各人の努力は無駄になる場合もあるよね?」ってなことをクリュシッポスにぶつけたかったのだろうな、と私は考えました。
    > しかし、クリュシッポス的にはそうではない、と。

    > p96に、
    > ===
    > 衝動と同意は、「私たち次第である」。なぜなら、「同意は表象によって引き起こされないかぎりは生じることがない」(表象は「外的な刺激」として働きかける)のだが、この表象は、同意の先行的な原因であり完全な原因ではないからである。
    > ===とあります。

    > 上の例でいえば、「どこかが痛くなった」というのが表象で、その時に「医者を呼ぶ」あるいは「医者を呼ばない」という選択をするのが衝動と同意になるのだと思います。
    > そして衝動と同意は「私たち次第である」と。

    質問者の「なんでもかんでも宿命で定められているというなら、なにしたってしかたないんじゃないか?」は「なにしたって仕方なくないんじゃないか」と、別にどちらでもよいと思いますし「各人の努力は無駄になる場合もあるよね?」というのは、その通りではないですかね?努力は報われるときも報われないときもある。という風に現実での私は考えましたが。

    もしかすると自身に起こる「衝動と同意」のみについて、クリュシッポスは語っているのでしょうか。だとすると、質問者の質問とクリュシッポスの回答は、ずれているのかもしれないなと感じました。。この辺りは、よくわかりませんね。

    > 本がもう一つわかりやすくはないのもあり、ストア派についてはこのあたりで終わりにしようかな、と思っていたところでした。
    > もし続けて考察されるときは自由に投稿してくださいね。

    ありがとうございます。了解しました。

    > それから、忘れてたので加えます。
    > クリュシッポスのいう「宿命」というのは、現代の私たちの考える「宿命」とはどうも違うのではないか、というのは感じました。
    > 自分の選択で決められることも含めて宿命だというのであれば、それはわざわざ宿命と言わなくてもいいのではないかと思います。
    > (身分や生まれ持っての健康状態などは宿命といってもいいでしょうけれど。)

    なるほど。日本語の解説や訳として記載のある「宿命」が、もしも現代での辞書の定義等ではないようならば、考察のしようがありませんね。

    では、この辺で私も終了としますね。返信をありがとうございました。
引用返信/返信 削除キー/
■37035 / inTopicNo.59)  Re[49]: ストア派
□投稿者/ akaimi -(2024/04/07(Sun) 07:12:10)
    2024/04/07(Sun) 16:10:54 編集(投稿者)



    ストア派については終了と思ったのですが、自分の勘違いしていた部分に気づいたので仕切り直しです。

    No37015で私は

    >>p96に、
    ===
    衝動と同意は、「私たち次第である」。なぜなら、「同意は表象によって引き起こされないかぎりは生じることがない」(表象は「外的な刺激」として働きかける)のだが、この表象は、同意の先行的な原因であり完全な原因ではないからである。
    ===とあります。

    上の例でいえば、「どこかが痛くなった」というのが表象で、その時に「医者を呼ぶ」あるいは「医者を呼ばない」という選択をするのが衝動と同意になるのだと思います。
    そして衝動と同意は「私たち次第である」と。<<

    と投稿しました。

    私は、クリュシッポスもエピクテトスと同じように「選択」は自分の意志により都度に可能なのだと考えていたのだろう、と思っていました。
    でも違うようです。

    p96に円筒と円錐を譬えとしてクリュシッポスが語ったことが書かれています。
    ===
    これらのものは押されなければ運動しないが、「押されて動きだしたとき、その後に円筒が転がり円錐が回転するのは、自分自身の自然本性によるのである。」さらに続けて彼が言うには、「同意はちょうど円筒の場合のように、外から引きおこされるが、その後に自分自身の力と自然本性に従って動くだろう」
    ===

    考察してみます。
    円筒、円錐、それから四角柱をそれぞれ人間の譬えだとするとわかりやすいです。
    ゆるい坂でそれぞれが押されたとして、円錐と円柱は転がっていくけれど四角柱は容易には転がってはいきません。
    それはそれぞれの人間の自然本性が転がりやすいか転がりにくいかにより違ってくるのだ、ということだと思います。

    そして、円錐と円柱のように「押される」と「転がる」、四角柱のように「押される」けれど「転がらない」はそれぞれに宿命づけられていて、それはそれぞれの持つ自然本性によるのだ。

    つまり、各人の「選択」もその各人の自然本性由縁のものとして宿命にセットされている、そして、各人の宿命というのも宇宙の摂理から起きてきている。
    自分で選択していると見えても宿命に従っているのだ、ということ。


    >>「もし病気から快復するのが君の宿命なら、医者を呼んでも呼ばなくても、君は回復するだろう。だがもし回復しないのが君の宿命なら、医者を呼んでも呼ばなくても君は回復しないだろう。
    >>しかるに君の宿命は回復するかしないかのどちらかである。
    >>したがって、君が医者を呼ぶのは無駄である。」
    >>===p95より
    という質問に対して、

    >>===
    >>私たちが医者のおかげで回復するということと、私たちが医者を呼ぶことは「一緒に宿命づけられている」と述べた。
    >>===p95より
    と答えたというのは、

    その人にとって、「医者を呼んだので回復した」がセットで宿命づけられていた、と言いたかったようです。
    その人にとってはその場合にそれ以外の宿命はなかった、と。

    映画やドラマのストーリーがあらかじめ決められているように、各人のところでは自然本性としての宿命が働いている、ということなのでしょう。
    筋書きは絶対に変わらないドラマを演じている私たち、といったところでしょうか。


    そういえばエピクテトスも、
    「どういう配役を与えられるかは自分では決められない、各人はその役を精一杯していくだけだ」というようなことを語っていたのです。
    しかしエピクテトスの場合は、どういう選択を都度にするかはその人に任されているとも語るので、ストーリーは変化しうる・・・完全な宿命論ではないと思います。

引用返信/返信 削除キー/
■37037 / inTopicNo.60)  Re[50]: ストア派
□投稿者/ akaimi -(2024/04/07(Sun) 09:53:15)
    スマホから手短な追加。

    クリュシッポスも宿命論と自由意志を共存させるために考えてはいたらしいです。
    宿命論だけではあまりにも虚しいですしね。

    自然本性は各人に宿命として備わっていて、選択も自然本性に応じたものがなされるけれど、自然本性次第によってなされるということは、徳を身につけるなどにより自然本性そのものを変化させることにより選択も変化していく、というような考えだったのかな。
    例えば円錐も転がりにくい徳を身につけることにより転がりにくくなる、というように。


引用返信/返信 削除キー/

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