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No36845 の記事


■36845 / )  Re[38]: エピクテトス
□投稿者/ akaimi -(2024/03/18(Mon) 08:13:11)
    パニチェさん、レスありがとうございます。

    No36826に返信(パニチェさんの記事)


    >>「我々次第であるもの」と「我々次第ではないもの」。
    >>つまり、自分の裁量でコントロールできることと出来ないことを分け、「我々次第であるもの」だけを欲望の対象とする、ことをストア派では説いています。
    >>また事実と評価を区別した上で、評価は「我々次第であるもの」であるとし、善用することを勧めています。
    >>個人的に感じるのは、ニーチェの運命愛の考え方ともそう遠くないように感じるのですが、パニチェさんはどんな印象を持たれますか?
    >
    > 少し調べました。
    >
    > 『エピクテトスは、ちょうど彼が影響を受けたソクラテスや犬儒派と同じく、自らは著作を残さず、門弟のアリアノスの伝える言行録によってのみその活動と教説が知られる(これはコイネーで書かれている)。主人の暴力に対して、身体は衣服として見なして耐えたと伝えられているように、解放奴隷としての彼の前歴は、運命を受け入れ、感情に左右されない不動心(アパテイア)を保つ、ストア派の賢者にふさわしい逸話を提供している。(岩波『哲学・思想事典』よりの引用)』
    >
    > まさしく運命愛の先駆けですね。

    病に苦しみながらも自らの意志を強く持ち哲学に希望を見出したニーチェ。
    雇い主からの暴行によるもの、リューマチによるものとの説がありますがエピクテトスも足が不自由でした。
    病気であっても意志は外的なものに妨げられるものではない、という言葉を残しています。


    > akaimiさんが引用された言説から、私は以下のニーチェの言葉が思い浮かびました。
    >
    > 『さらにこういう比喩を、わたしはきみたちに述べておく。自分たちの悪魔を追い払おいとして、かえって、みずからブタの群れの中へ入りこんだ者たちが、少なくないのだ。(ツァラトゥストラ 純潔について13−13)』
    >
    > 『おまえはわたしのサルと呼ばれている。おまえ、口からあわをふいている阿呆よ。しかし、わたしはおまえをわたしのぶうぶうブタと呼ぼう、──ぶうぶうと不平を鳴らすことによって、おまえは私の痴愚礼賛までも、だいなしにしてしまうのだ。最初おまえにぶうぶう不平を鳴らせたゆえのものは、いったい何であったか?誰も充分追従してくれなかったということだ。──おまえがこんな汚物のもとに腰をすえるのは、大いにぶうぶうと不平を鳴らすための根拠を得んがためなのだ。──大いに復讐するための根拠を得んがためなのだ!つまり、おまえ、虚栄心の強い阿呆よ、おまえが口からあわを吹いているのは、すべての復讐なのだ。わたしはおまえの正体を見事に察知したのだ! … 中略 … だが、おまえ、阿呆よ、別れに際して、わたしはおまえにこういう教えを与えよう。もはや愛することのできない場合、とるべき態度は──通りすぎることだ!──ツァラトゥストラはこのように語って、阿呆と大都市のそばを通り過ぎた。(ツァラトゥストラ 通り過ぎることについて7−32)』
    >
    > 『怪物と闘う者は、その過程で自分自身も怪物になることがないよう、気をつけねばならない。深淵をのぞきこむとき、その深淵もこちらを見つめているのだ。(善悪の彼岸 箴言と間奏第146番)』

    久しぶりのニーチェの言葉。やはり刺激的でいいですね。
    そこには周りに振り回されないで自分を大切に、という願いを感じます。

    ストア派の本が来ましたので、読んでみてまとめられそうでしたらまた投稿させてください。


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