□投稿者/ 時 -(2024/04/05(Fri) 12:49:15)
| 2024/04/05(Fri) 15:58:26 編集(投稿者) 2024/04/05(Fri) 15:55:25 編集(投稿者)
akaimiさんへ。こんにちは。
■No37001に返信(akaimiさんの記事)
> 前回に続き『ストア派』ジャン=パティスト・グリナ 著 川本 愛 訳 > からです。
> === > 神、あるいは理性は、素材が原初の火の状態にあるときからすでに素材に内在し、種子として、すなわち、動物と植物をつくる生物的な原理としてはたらく理性的な原理である。人間のうちにあるものとしては、それは魂として人間を指導する指導的な原理である。 > ===p87より
> 理性=神であり、人間のうちとしては魂としてその人間を指導する原理と言っているようです。 > このあたりなんとなくブラフマン=アートマンとも少し似ているのかな。
そうですね。古代インドの梵我一如の思想に似ていそうですね。 梵我一如の思想は、ブラフマン=アートマンだという事でしょうから。
> 神はどうやら宇宙の外にあるものではなく、素材(のちに宇宙のさまざまなものに変化するもの)が原初の火だった時から種子として内在していた理性的な原理、と考えていたようです。
私の知るインドの思想では、一切の源泉を神とするようです。ですので、火を原初とはしないように思いますが、これも表現の違いだけで、原初の火だった時から、原初の水だった時から、原初の風だった時から、原初の土だった時から種子として内在していた理性的な原理と言っても違和感はなさそうですね。そしてこの中でストア派は、その始まりであるゼノンが火を特別な構成要素として重視したことはヘラクレイトス由来のものだったという事だったという事なのですね。
ヘラクレイトスで思い出しましたが、過去に一瞬だけ何かで見た記憶があります。万物流転の思想の方ですよね。同じ川には同じ人は入れない、だったでしょうか。これを見たときには、それはそうでしょう。。で、後は調べてはいませんが^^
なるほど、このヘラクレイトスが火を重要視し、それを基本的にゼノンが取り入れて受け継いだという事だったのですね。
> p91から「宿命と原因」という見出しで、もしもすべてが宿命に従って生じるならば、人間の責任はどのように位置づけられるのだろうか?についてのクリュシッポスの回答があります。
ここですね。問題点は(笑)
> 宿命論と怠惰が帰結するだろうという問い、具体的には、 > === > 「もし病気から快復するのが君の宿命なら、医者を呼んでも呼ばなくても、君は回復するだろう。だがもし回復しないのが君の宿命なら、医者を呼んでも呼ばなくても君は回復するだろう。 > しかるに君の宿命は回復するかしないかのどちらかである。 > したがって、君が医者を呼ぶのは無駄である。」 > ===p95より
上記の「回復しないのが君の宿命なら、医者を呼んでも呼ばなくても君は回復するだろう。」というところが理解できません。「回復しないのが君の宿命なら、医者を呼んでも呼ばなくても君は回復しないだろう。」ではないのでしょうか?
> 回復するかしないかのどちらかになることは宿命づけられているなら、医者を呼ぶか呼ばないかについては無関係だと質問者は言っています。
> それに対してクリュシッポスは、 > === > 私たちが医者のおかげで回復するということと、私たちが医者を呼ぶことは「一緒に宿命づけられている」と述べた。 > ===p95より
> ここからは私の考察です。
> 1.医者を呼んで回復した > 2.医者を呼んだが回復しなかった > 3.医者を呼ばなかったが回復した > 4.医者を呼ばず回復もしなかった
> この4通りが考えられますね。 > そしてクリュシッポスの説に従うなら、どのパターンも宿命によるもの、になるのだと思います。
> 「病気になった」ということが医者を呼ぶか呼ばないかの原因となるもので、病気になった際に医者を呼ぶか呼ばないかはその人の判断によるけれど、どういう判断をするかも含めての宿命である、と言いたいのかな。 > 回復する、しないという結果だけに注目するのではなく因果関係に注目し、選択は自分でできうるということを言いたかったのだろうと思います。
私自身が考えるときには、運命と宿命の定義の違いをあまり考えませんで、もっぱら運命と表現していますが、今回は、それを宿命と表現してみます。
上記を読みますと、クリュシッポスの回答は、至極当然な答え方をしていると思います。akaimiさんが仰るように、どのパターンでも宿命なのだから、医者を呼ぼうが呼ぶまいが、病気が治ろうが治ろまいが、それらはどのパターにおいても宿命なのだという事でしょう。ですので、その全ての因果関係においてはそれら自体が宿命なのだから、自由意志での選択により医者を呼ぶ、呼ばないという選択も自由なのだという事だろうと思いました。だから自由意志はあるのだというのが、クリュシッポスの回答だと理解しました。
しかし、自由意志での選択を否定することを否定するためにクリュシッポスの主張としての回答があるように思いますが、主張ですので仕方ないという想いもありますが、少し無理があるのかなと感じました。
以下は、病気になったとある人が認識した瞬間を起点とします。
医者を呼んだ。 医者を呼んだので、医者が来た。 医者を呼んだが、医者が来ない。
医者を呼ぼとしたが、呼べなかった。 医者を呼ぼとしたが、呼べなかった。しかし医者が来た。 医者を呼ぼとしたが、呼べなかったので、医者は来なかった。
医者を呼ばない。 医者を呼んでいないが、医者が来た。 医者を呼んでいないので、医者は来ない。
医者を呼んで回復した。 医者を呼ばなかったので回復した。 医者を呼ばなかったが回復した。
医者を呼ばず回復もしなかった。 医者を呼んだので回復しなかった。 医者を呼んだが回復しなかった。(ry)
つまりは、思考の結果として、本人に能動的な行動(医者を呼ぶ行為)が起こるときには、自由意志での選択はあり、受動的な行動が起こるときには、自由意志での選択とは無関係の結果が生じるように思います。
もしも"全て"が宿命ならば、その自由意志の選択で起こること以外の出来事も宿命ですね?ですので、自由意志での選択はあると同時に、自由意志での選択はないのだとなるのではないでしょうか。
> 私たちが医者のおかげで回復するということと、私たちが医者を呼ぶことは「一緒に宿命づけられている」と述べた。
そうだとは限らないかなぁと思いました。一緒に宿命づけられている場合もあるだろうし、宿命として、そうではない場合もあるだろうという事です。
私たちの病気が回復するということと、私たちが医者を呼ぶこと、医者を呼ばないことは、両者一緒に宿命づけられている。となるように感じました。
もしも時が、当時のクリュシッポスに尋ねることができたとしたならば、
「もし病気から快復するのが君の宿命なら、医者を呼んでも呼ばなくても、君は回復するだろう。だがもし回復しないのが君の宿命なら、医者を呼んでも呼ばなくても君は回復しないだろう。しかるに君の宿命は回復するかしないかのどちらかである。したがって、君が医者を呼ぶのは無益であり、かつ有益である。よって、そのどちらを選択するのかはあなたにその決定権があるという主張ですか?」と尋ねると思いました。
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