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■31738 / inTopicNo.25)  非我と無我の個人的な理解
  
□投稿者/ 時 -(2023/07/13(Thu) 00:08:22)
    自己レスです。
    No31726に返信(時さんの記事)
    > No31616
    >>また機会があれば非我と無我についての時さんの見解を教えて下さい。

    非我は、我に非ず。無我は、我は無い。説明となると難しいですね。もう一度挑戦です。

    ・苦とは一言で表現すると五取蘊です。
    ・五蘊は、過去であれ将来であれ、粗かろうがが細かかろうが(色蘊、受蘊、想蘊、行蘊、識蘊)の事です。
    ・五取蘊は、五蘊とそれに対する貪欲(渇愛)が取ですので、合わせて五取蘊です。これは、〜の色あるものになりたいとか、〜の感受あるものになりたい等の渇愛がある状態で、私は存在する、この私が存在する、私は存在することになろう、私は存在しないことになろう等というのは、全て妄想ですと説かれます。

    ・通常の我々は、「私」と「あなた」という二元の世界での認識等をしていますが、ここでいう「私」の状態が五取蘊の状態です。つまりは、私は将来〜になりたい等という思いがあると思いますが、ここに渇愛が潜んでいるという事です。そしてこの状態と同時に、色は私のものだ、感受は私の感受だ等という思い込みに対して、色はあなたのものではありませんので離れなさいよ。・・・受は、想は、、、五蘊はあなたのものではありませんので、離れなさいよ。というのが五蘊非我の教えです。そしてもしも離れられれば、それ(五取蘊)は単なる五蘊に戻ります。この状態が無我と呼ばれる状態だと理解しています。つまりは、五取蘊の状態から渇愛(五蘊に対する貪欲)や妄想が取り除かれた状態が無我の状態だと理解しています。

    ・通常の我の状態とは、五取蘊の状態を指し、無我の状態とは、五蘊の状態の事を指しています。そして五取蘊の状態の時に、「それは、我のものに非ず、我に非ず」等(非我)という教えの理解によりその状態から離れることができれば、無我の状態になると思います。

    例えば、甲子園出場にかけるこの熱い思い(想)は私のものです。という場合の思い(想)は、あなたのものではありませんから、離れなさいよ。という事です。

    では、仮に五取蘊の状態から五蘊に戻ったとして、その人物が「我は無我だ」「私は五蘊だ」というのは、矛盾を引き起こしていますので、そのような表現はしません。といいますか、できません。ですので、通常表だっては区別がつきにくいと思いますが、会話の際には、通常使われる表現の「私・我」という一人称単数の私を用いての会話となりますが、一元の境地以上の人々が表現する私(無我)の状態というのは、単に二元の世界の人々が表現する通常の私(五取蘊)の状態ではなくて、同じ次元での表現ではありません。

    ですので、実際には、仏陀と弟子の会話、弟子同士の会話、弟子と異教徒との会話、全てで「私は〜」という見かけ上の一人称単数の私を用いての会話がなされていますが、特に仏陀や高位の弟子達の使う「私」には渇愛や妄想等が存在していません。ですので、この場合には無我(五蘊)の境地での「私」になり、通常の弟子たちや異教徒の使う「私」は、五取蘊(苦)の状態だと理解しています。
引用返信/返信 削除キー/
■31748 / inTopicNo.26)  非我と無我
□投稿者/ パニチェ -(2023/07/13(Thu) 20:47:02)
    こんばんは、時さん。今回も丁寧な返信をありがとうございました。
    引用は一部ですが全て拝読しました。^^

    No31726に返信(時さんの記事)
    > 色は私のものだ、感受は私の感受だ等という思い込みに対して、色はあなたのものではありませんので離れなさい。・・・受は、想は、、、五蘊はあなたのものではありませんので、(渇愛を捨棄して)離れなさい。というのが五蘊非我の教えです。そしてもしも離れられれば、それ(五取蘊)は単なる五蘊に戻ります。この状態が無我と呼ばれる状態だと理解しています。

    No31738に返信(時さんの記事)
    > ・通常の我々は、「私」と「あなた」という二元の世界での認識等をしていますが、ここでいう「私」の状態が五取蘊の状態です。つまりは、私は将来〜になりたい等という思いがあると思いますが、ここに渇愛が潜んでいるという事です。そしてこの状態と同時に、色は私のものだ、感受は私の感受だ等という思い込みに対して、色はあなたのものではありませんので離れなさいよ。・・・受は、想は、、、五蘊はあなたのものではありませんので、離れなさいよ。というのが五蘊非我の教えです。そしてもしも離れられれば、それ(五取蘊)は単なる五蘊に戻ります。この状態が無我と呼ばれる状態だと理解しています。つまりは、五取蘊の状態から渇愛(五蘊に対する貪欲)や妄想が取り除かれた状態が無我の状態だと理解しています。

    ありがとうございます。時さんが非我と無我をどのように理解されているかよく分かりました。
    あともう少し質問させて下さい。

    中村元先生の説明によれば(鵜呑みしているわけではないのですが、私はパーリ語が分からないので中村元先生の説明を元に理解しています)原始仏典では「諸法無我(sabbe dhamma anatta)」の“anattan”という語は名詞にも形容詞にも用いられているとのことで、非我の意味でも無我の意味でも使用されているとのことでした。

    そして後世の中観派においてはアートマンの意味を「それ自体」や「自性」と解釈するようになり、そこから無我(anatman nairatmya)と表現するようになったとのことでした。

    時さんが読まれている原始仏典では(パーリ語でも英訳、和訳でも)非我と無我は言葉として違う語として表現されていますか?

    非我と無我が区別されていても、区別されていなくても、文脈も含めて意味合い的にはどちらの言葉(言葉の意味)が多用されているでしょうか?(非我と無我のどちらが説かれていることが多いでしょうか?)
    分かる範囲で教えていただければ有難いです。

    > 暑い日が続きますね。お体を大切になさってください。

    ありがとうございます。いよいよ夏本番ですね。
    今年は南米の太平洋岸沖合〜東中部太平洋にエルニーニョが発生しているにもかかわらず、本来は海水温が下がるはずの東南アジアにラニーニャ現象の影響がまだ残っているため、両方の海域でともに海水温が高いままになっているそうで観測史上初の現象とのことです。何か起こるかも予想できないとのことでした。
    時さんもお体を大切になさって下さい。

引用返信/返信 削除キー/
■31759 / inTopicNo.27)  Re[20]: 非我と無我
□投稿者/ 時 -(2023/07/14(Fri) 12:07:53)
    パニチェさんへ。こんにちは。ご返信をありがとうございます。

    No31748に返信(パニチェさんの記事)

    > あともう少し質問させて下さい。

    了解しました。

    > 中村元先生の説明によれば(鵜呑みしているわけではないのですが、私はパーリ語が分からないので中村元先生の説明を元に理解しています)原始仏典では「諸法無我(sabbe dhamma anatta)」の“anattan”という語は名詞にも形容詞にも用いられているとのことで、非我の意味でも無我の意味でも使用されているとのことでした。

    > そして後世の中観派においてはアートマンの意味を「それ自体」や「自性」と解釈するようになり、そこから無我(anatman nairatmya)と表現するようになったとのことでした。

    先生の研究によると、歴史的にはそういう事だったのですね。私自身もパーリ語は、日本語訳としての文脈がおかしいかな?と感じるところだけを確認するために調べる程度ですので、全く読めませんし書けません。

    > 時さんが読まれている原始仏典では(パーリ語でも英訳、和訳でも)非我と無我は言葉として違う語として表現されていますか?

    日本語訳で非我や無我と訳されているのは、パーリでのanattaやanattatoのようです。非我は、常住のアートマンは我ではないという意味で非我と訳され、それゆえに常住の我はどこにもないという意味で無我と訳されているイメージがありますね。しかしどちらの語源も同じanattaやanattatoからの訳のようです。

    当時を想像しますと、バラモン教が全盛時だったと思います。現代でいうヒンドゥー教になるのでしょうか。歴史的事実は調べてはいませんので、はっきりとは認識できていないのですが、我の本質は常住なるアートマンであり、このアートマンとブラフマンは同一であるとか、ここからこの世には神(ブラフマン)しか存在しないという論に至ったとかなんとか、この辺りも一応は学んだのですが、言葉的には忘れました。しかし一時は私も神に対しての完全なる帰依、バクティを知らず知らずの内に2年ほど実践していたという事は覚えていますので、一応は、この世には神しか存在していないというお話は体感として理解しています。そして私が仏教を学ぶ切っ掛けになりましたのが、このバクティの結果としての境地、不二一元のアドヴァイタといわれる境地、ブラフマンのみが存在するという境地、、、あるとき、そこにはまだ無知が存在するのですよと、その神の処には、まだほころびのある可能性があることをある方からご指摘頂いたからです。昔話にはなりますが、神への完全なる帰依で問題のないブラフマンのみの世界を垣間見て、一安心していたその処には無知が存在する?、、これは、どういう事だろう?という思い、、ここからが仏教の何だろう?何故だろう?の始まりでした。

    この常住のアートマン(我)という思想の人々が、当時のバラモン教全盛時には、当然のことながら仏陀の周りには多くいたのでしょう。この常住なる我=アートマンを否定するために、仏陀は、論理的に非我(それは我に非ず)という事を説いていたものと思いますが。

    ですので、上記をお読みいただければ一応のご理解はいただけると思いますが、文法だ名詞だ形容詞だ、バガヴァッド・ギーターがどうの、歴史的事実だといった事は、学問的に学んではいないのですね。ですので上手く人に説明ができないものと思っています。当時は、宗教的儀式は全く抜きにした単純に神への帰依のみであり、次には単純に仏典を通読したというだけでの学問的ではない、個人的な理解と実践だけだったのです。今から思うと、相当単純な変わり者だと自身でも思います(笑)

    というわけで、アートマンが我である等、常住論の否定の可能性から仏教に入りましたので、最初から我=アートマンの否定で非我という表現は、基本的に確認も何もなくすんなりと入っていけたと思っています。

    > 非我と無我が区別されていても、区別されていなくても、文脈も含めて意味合い的にはどちらの言葉(言葉の意味)が多用されているでしょうか?(非我と無我のどちらが説かれていることが多いでしょうか?)
    > 分かる範囲で教えていただければ有難いです。

    実際は違うかもしれませんが、今までに持っているイメージでは、9対1くらいの比率で意味的には無我よりも非我が多いと感じます。語源が同じで、文脈による訳文の違いという意味でですが。ですので、一般に表現されている三法印や四法印の中の諸法無我という表現は、昔から何かしっくりと来ないイメージがあります。諸法非我ならば、しっくりときそうなのですが。

    それと蛇足ですが、多分仏陀が「私」があるとかないとかと表現しなかったのは、あるといえば常住論に、ないといえば断滅論に、それを聞いた当時の人々が迷妄の道に陥るからだと思います。つまりは、そのこと自体が涅槃や解脱に役に立たず、中道を外すという判断があったからだと思います。
引用返信/返信 削除キー/
■31765 / inTopicNo.28)  Re[21]: 非我と無我
□投稿者/ パニチェ -(2023/07/14(Fri) 20:53:11)
    こんばんは、時さん。返信ありがとうございます。

    No31759に返信(時さんの記事)

    > 日本語訳で非我や無我と訳されているのは、パーリでのanattaやanattatoのようです。非我は、常住のアートマンは我ではないという意味で非我と訳され、それゆえに常住の我はどこにもないという意味で無我と訳されているイメージがありますね。しかしどちらの語源も同じanattaやanattatoからの訳のようです。

    なるほど。中村元先生も非我については上記のように説明されていました。

    > 当時を想像しますと、バラモン教が全盛時だったと思います。現代でいうヒンドゥー教になるのでしょうか。歴史的事実は調べてはいませんので、はっきりとは認識できていないのですが、我の本質は常住なるアートマンであり、このアートマンとブラフマンは同一であるとか、ここからこの世には神(ブラフマン)しか存在しないという論に至ったとかなんとか、この辺りも一応は学んだのですが、言葉的には忘れました。しかし一時は私も神に対しての完全なる帰依、バクティを知らず知らずの内に2年ほど実践していたという事は覚えていますので、一応は、この世には神しか存在していないというお話は体感として理解しています。そして私が仏教を学ぶ切っ掛けになりましたのが、このバクティの結果としての境地、不二一元のアドヴァイタといわれる境地、ブラフマンのみが存在するという境地、、、あるとき、そこにはまだ無知が存在するのですよと、その神の処には、まだほころびのある可能性があることをある方からご指摘頂いたからです。昔話にはなりますが、神への完全なる帰依で問題のないブラフマンのみの世界を垣間見て、一安心していたその処には無知が存在する?、、これは、どういう事だろう?という思い、、ここからが仏教の何だろう?何故だろう?の始まりでした。
    > この常住のアートマン(我)という思想の人々が、当時のバラモン教全盛時には、当然のことながら仏陀の周りには多くいたのでしょう。この常住なる我=アートマンを否定するために、仏陀は、論理的に非我(それは我に非ず)という事を説いていたものと思いますが。

    イエスがユダヤ教徒であったように、釈尊もバラモン教徒でした。
    キリスト教がユダヤ教の発展形(旧約による民族宗教から新約による全人類を対象とした新宗教へ)だったように、仏教もバラモン教の発展形(アーリア人による民族宗教から全人類を対象とした新宗教へ)だったのだと思います。

    > ですので、上記をお読みいただければ一応のご理解はいただけると思いますが、文法だ名詞だ形容詞だ、バガヴァッド・ギーターがどうの、歴史的事実だといった事は、学問的に学んではいないのですね。ですので上手く人に説明ができないものと思っています。当時は、宗教的儀式は全く抜きにした単純に神への帰依のみであり、次には単純に仏典を通読したというだけでの学問的ではない、個人的な理解と実践だけだったのです。今から思うと、相当単純な変わり者だと自身でも思います(笑)

    変わり者ではなく純粋な仏道だと思います。

    > というわけで、アートマンが我である等、常住論の否定の可能性から仏教に入りましたので、最初から我=アートマンの否定で非我という表現は、基本的に確認も何もなくすんなりと入っていけたと思っています。

    なるほど。

    > 実際は違うかもしれませんが、今までに持っているイメージでは、9対1くらいの比率で意味的には無我よりも非我が多いと感じます。語源が同じで、文脈による訳文の違いという意味でですが。ですので、一般に表現されている三法印や四法印の中の諸法無我という表現は、昔から何かしっくりと来ないイメージがあります。諸法非我ならば、しっくりときそうなのですが。

    中村元先生の見解も全く同じです。
    もともとは非我の説法であった。無我は後に付加された、と。

    > それと蛇足ですが、多分仏陀が「私」があるとかないとかと表現しなかったのは、あるといえば常住論に、ないといえば断滅論に、それを聞いた当時の人々が迷妄の道に陥るからだと思います。つまりは、そのこと自体が涅槃や解脱に役に立たず、中道を外すという判断があったからだと思います。

    同意です。
    ありがとうございました。
    また原始仏典で聞きたいことがあれば質問しますのでよろしくお願いします。
引用返信/返信 削除キー/
■31874 / inTopicNo.29)  多世界解釈に対する反論
□投稿者/ パニチェ -(2023/07/23(Sun) 11:58:28)
    〈私〉という事実から導き出される「この世界が多世界解釈ではありえない」という帰結(反論)。

    これを主張しているのはパニチェだけではなく、「意識の難問(物質および電気的・化学的反応の集合体である脳から、どのようにして主観的な意識体験というものが生まれるのか?)」を提起したデヴィット・チャーマーズも指摘していた。


    ***** 以下、D.チャーマーズ著『意識する心』からの引用 *****

    すなわち、どうして重なり合った脳の状態と結びつく心だけが、優先基底に即したその分野に対応するのか。なぜ、他の分解から生じる心がないのか、あるいは、それこそ重なり合った状態から生じる心がないのか。これは、ああいう規範的な分解を要するらしいエヴェレット本人のバージョンに対しては、理に適った反論である。(P.427)

    私自身という単一の感じがどうして、他のどこかでなくこのランダムに選ばれた分岐を伝播していくのか。私自身がたどっていくと私が感じるこの分岐を選び出すランダムな選択の根底には、どんな法則があるのか。なぜ私の私自身という感じは、分岐したときに他の道をたどってできた他の私がもつ感じには付随していないのか。(P.429)

    つまり、この領域にはいくつかの心があって、たまたまその一つが私なのだ、というのである。(P.431)

    私はなぜ他の誰でもなくこの人物ということになるのかという、指標性そのものの謎としっかり結びついた難しい問いである。(P.432)

    *************** 引用終わり ***************


    上記は〈私〉を理解していない人にとっては分かりにくい反論だと思う。

    タイムマシンで過去に遡り、自分が過去の自分を客観視するというシーンがある。
    有名なところでは「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のほぼラストにあたるワンシーン(若きブラウン博士の協力を得、落雷を電力源として過去から現在に戻ってきた主人公のマーティが、映画の冒頭シーンにあたる改造車デロリアンに乗り込むもう一人のマーティを目撃するというシチュエーション)

    自分を客観視(客体視)している時点で、その対象は〈私〉ではなく他者の次元に成り下がっているということ。
    つまり「実際にこの〈私〉の眼から世界を見ている」という事実がない「もう一人の私」が同一時空に存在していることになり、それは〈私〉ではありえないだろ、というパラドックス。

    世界が分岐していたたら「実際にこの〈私〉の眼から多世界を見ている」ことになるが、実際に〈私〉は多世界を見ていないことから、多世界はありえないという主張。

    ある意味において上記のD.チャーマーズによる反論は「意識の難問」と「意識の超難問(なぜ私は他の誰かでもなく、この私なのか?)」との接点ではある。

引用返信/返信 削除キー/
■32044 / inTopicNo.30)  パニチェさんへ
□投稿者/ 時 -(2023/07/30(Sun) 11:32:01)
    2023/07/31(Mon) 20:50:51 編集(投稿者)
    2023/07/30(Sun) 11:55:43 編集(投稿者)

    パニチェさんへ。おはようございます。今回は少し質問がありますので、お時間のある時にでも宜しくお願いします。

    No31313

    > あと実践的な人生哲学としてはニーチェと仏教の複合体(劇薬であるニーチェを仏教で中和するというかなんというか、うまく言えませんが)です。

    ここで表現されている「劇薬であるニーチェ」という事なのですが、ニーチェ哲学の自らの生に対する全肯定の思考方法の事を、パニチェさんは劇薬と仰っているのでしょうか?

    私自身は、多くの専門的な哲学者の思考の世界の事はほぼ知らず、ネットでつまみ食いをする程度の知識ですので、ニーチェに関しても何が劇薬なのかが分からないのですね。

    今回は、この件を宜しくお願いします。
引用返信/返信 削除キー/
■32218 / inTopicNo.31)  劇薬>時さんへ
□投稿者/ パニチェ -(2023/08/03(Thu) 08:09:34)
    No32044に返信(時さんの記事)

    こんちには、時さん。レスありがとうございます。
    時間できたので返信させてもらいます。

    >>あと実践的な人生哲学としてはニーチェと仏教の複合体(劇薬であるニーチェを仏教で中和するというかなんというか、うまく言えませんが)です。
    > ここで表現されている「劇薬であるニーチェ」という事なのですが、ニーチェ哲学の自らの生に対する全肯定の思考方法の事を、パニチェさんは劇薬と仰っているのでしょうか?
    > 私自身は、多くの専門的な哲学者の思考の世界の事はほぼ知らず、ネットでつまみ食いをする程度の知識ですので、ニーチェに関しても何が劇薬なのかが分からないのですね。
    > 今回は、この件を宜しくお願。

    これはなかなか短い返信では伝えにくいところがあるのと、ニーチェ哲学の別名として「解釈の哲学」というのがありまして、読者がニーチェのアフォリズムを解釈し新たな価値を創造するというのもニーチェならではの特徴です。固定的あるいは普遍的な真理を否定した上で最終的には読者を突き放すのがニーチェです。

    時さんが指摘している「自らの生に対する全肯定」の思想というのは運命愛と永劫回帰のことだと思います。
    この二つは全肯定の両側面で元になるアフォリズムは以下です。

    『最大の重し。──もしある日、もしくはある夜なり、デーモンが君の寂寥きわまる孤独の果てまでひそかに後をつけ、こう君に告げたとしたら、どうだろう、──「お前が現に生き、また生きてきたこの人生を、いま一度、いなさらに無数度にわたって、お前は生きねばならぬだろう。そこに新たな何ものもなく、あらゆる苦痛をあらゆる快楽、あらゆる思想と嘆息、お前の人生の言いつくせぬ巨細のことども一切が、お前の身に回帰しなければならぬ。しかも何から何までことごとく同じ順序と脈絡にしたがって、──さればこの蜘蛛も、樹間のこの月光も、またこの瞬間も、この自己自身も、同じように回帰せねばならぬ。存在の永遠の砂時計は、くりかえしくりかえし巻き戻される──それとともに塵の塵であるお前も同じく!」──これを耳にしたとき、君は地に身を投げ出し、歯ぎしりして、こう告げたデーモンに向かい「お前は神だ、おれは一度もこれ以上に神的なことを聞いたことがない!」と答えるだろうか。もしこの思想が君を圧倒したなら、それは現在あるがままの君自身を変化させ、おそらくは紛糾するであろう。何事をするにつけてもかならず「お前は、このことを、いま一度、いな無数度にわたって、欲するか?」という問いが、最大の重しとなって君の行為にのしかかるであろう!もしくは、この究極の永遠な裏書と確証とのほかにはもはや何ものをも欲しないためには、どれほど君は自己自身と人生を愛惜しなければならないだろうか?──(悦ばしき知識 第341番)』

    現状の自分と生を最も厳しく、かつ高貴に全肯定するには「今まで自分が生きてきた全ての経験(二度と経験したくないようなことも含め)を無数度にわたって生れ変わっても経験するのはどうか?」という問いに対して迷わず「然り!」と答えることが条件であり、これをもって運命愛に至るというような内容です。

    あとスッタニパータにもあるように「犀の角のようにただ独り歩め」的なアフォリズムもあります。
    『ひとはなお隣人を愛し、隣人をわが身にこすりつける。というのは、暖かさが必要だからである。(ツァラトゥストラ 序説)』
    『きみたちは、隣人のまわりに押しかけ、そのことを言い表すのに、美しい言葉の数々をもってする。だが、わたしは、きみたちに言う、きみたちの隣人愛はきみたちの不十分な自己愛なのだ、と。(ツァラトゥストラ 隣人愛について)』

    あと毒(読みようによってはサイコパスっぽい内容もあります)のあるアフォリズムをいくつか引用しておきますが、ニーチェが劇薬であることはなかなかこの返信だけでは伝わらないと思います。

    『犯罪者は何よりも先ず一種の破壊者なのだ。全体に対し契約と約束を破った者、彼がそれまでの分け前を受けてきた共同生活のあらゆる財産と便宜に関連していえば、これを破壊した者なのである。犯罪者は自分が受けてきた利益や前借を返済しないばかりか、その債権者たる共同体に向かって楯つきさえする債権者にほかならない。だからこういう者は、当然ながら、そのすべての財産と利益を失うだけにとどまらないで──これらの財産がいかに貴重なものであるかを今や思いしらされる破目になるのだ。被害者たる債権者、すなわち共同体の怒りは、これまでその男がその保護によってまぬかれていた野蛮な追放の状態へ、ふたたびこの男をつきもどす。共同体は犯罪者を閉め出す──今やこの男に対してはどんな敵意を爆発させても天下御免ということになるのだ。「刑罰」はこういう段階の開化状態では、憎みてもなお余りある敵に対する普通の処置を模倣したもの、「真似事」にすぎない。なぜなら敵は屈服した以上、武装解除を受け、いっさいの権利と保護のみならず、いっさいの恩恵をも失うことになるのが、普通の処置だからである。こうして刑罰の場合も、「征服サレタル者ハ禍イナルカナ!」式の戦争法規と戦勝祝賀式がまことに情容赦もなく残虐のかぎりをつくすのだ。──このことから、戦争というもの(戦時の犠牲祭もふくめて)こそ、歴史上にあらわれる刑罰のすべての形式をあたえた淵源であったことが説明されたのである。(道徳の系譜 『罪』、『良心の呵責』、その他 第9番)』

    『生そのものは本質的に他者や弱者をわがものにすること、傷つけること、制圧することであり、抑制であり、冷酷であり、自己の形式を押しつけることであり、他者を併合することであり、少なくとも、もっとおだやかに言っても搾取である、・・・それは力への意志の化身でなくてはならないであろう。それは生長し、広がり、独占し、優勢を占めようと欲するだろう、──それも何らかの道徳性や不道徳性からではなく、それが生きているから、生がまさに力への意志であるから、そうするのである。・・・「搾取」は、堕落した、あるいは不完全で原初的な社会に属するのではない。それは有機的な根本機能として、生けるものの本質に属しており、まさに生の意志である本来の力への意志の、一つの帰結なのである。──かりに、これが理論として革新的なものであるとしても、──現実としては、それはすべての歴史に含まれる根本事実である…せめてこれを認めるほどには、自らに対して正直であってほしいものだ!──(善悪の彼岸 高貴とは何か 第257番)』

    『無節度な連中の口にする同情の道徳。──自己を十分に統制できず、また道徳性というものは大事につけ小事につけ絶えず実践される自制であり克己であることを知らない連中はすべて、知らず知らずのうちに、善良で思いやり深く親切なさまざまなか感動の賛美者、〔分別的な〕頭脳を持たず、ただ心胸と人助けの好きな手だてからできあがっているみたいな、例の本能的な道徳心の賛美者となる。実際、理性の道徳性には疑義を示して、それとは別の、例の本能的な道徳性を唯一のものとすることが彼らの関心事である。(人間的、あまりに人間的U46)』

    『私の哲学は階序をめざしている。個人主義的道徳をめざしているのではない。畜群の感覚は畜群のうちで支配すべきである。──しかしそれ以上に手をのばしてはならない。畜群の指導者は、これとは根本的に異なったおのれ自身の行為の価値評価を必要とする、同様に独立者、ないしは「猛獣」その他も。(力への意志 第287番)』

    『怪物と闘う者は、その過程で自分自身も怪物になることがないよう、気をつけねばならない。深淵をのぞきこむとき、その深淵もこちらを見つめているのだ。(善悪の彼岸 箴言と間奏第146番)』

    最期に「非倫理的な行為を推奨してるわけではないよ」というニーチェの言葉も引用しておきます。

    『自明なことであるが、──私が愚か者でないとすれば──、非倫理的と呼ばれる多くの行為は避けられるべきであり、克服されるべきであるということを、私は否定しない。同様に、倫理的と呼ばれる多くの行為は実践されるべきものであり、促進されるべきであるということを私は否定しない。──しかし前者も後者も、これまでとは別な理由からであると私は考える。われわれは学び直さなければならない。──結局おそらく極めて後のことかもしれないが、さらにそれ以上に到達するために、感じ直すために。(曙光103)』

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■32219 / inTopicNo.32)  Re[25]: 劇薬的アフォリズム
□投稿者/ パニチェ -(2023/08/03(Thu) 08:33:26)
    『神のまえではすべての「魂」が平等となったが、しかし、これこそまさしくすべての可能な価値評価のうちで最も危険なものである!個々人が平等視されれば、類は疑問視され、ついには類の壊滅をひきおこす実践がよしとされる。すなわち、キリスト教は淘汰にそむくその反対の原理である。・・・真正の人間愛は類の最善のための犠牲を要求する、──それは冷酷であり、それは自己超克に満ちている、とうのは、それは人身御供を必要とするからである。ところがキリスト教とよばれる似非ヒューマニティーは、誰ひとりとして犠牲にされないということをこそ貫徹しようと欲するのである。(力への意志 第246番)』

    『万人向きの書物はつねに悪臭を放つ書物であり、そこには小人臭がこびりついている。(善悪の彼岸 自由な精神30)』

    『私の哲学は、あらゆる他の思考法が最後にはそれで徹底的に没落するところの、勝ちほこれる思想をもたらす。それは、育成する偉大な思想である。すなわち、この思想に耐えられない種属は断罪されており、この思想を最大の恩恵として受けとる種属は、支配者たるべく選びだされている。(力への意志 第1053番)』

    『いまや、わたしはきみたちに、わたしを失い、みずからを見出せ、と命じる。そして、きみたちがみな私を否認したときに初めて、わたしはきみたちのもとへ帰って来ようと思う。まことに、わたしたちの兄弟たちよ、そのときわたしは、違った目で、自分の失った者たちを捜し求めるであろう。そのときわたしは、或る違った愛で、きみたちを愛するであろう。そして、さらにいつの日か、きみたちはわたしの友となり、同じ希望の子となっているであろう。そのとき、わたしは三たびきみたちのもとにあって、きみたちと共に大いなる正午を祝おうと思う。ところで、大いなる正午とは、人間が自分の軌道の真ん中にあって、動物と超人の中間に立ち、自分が歩み行くべき夕暮れへの道を自分の最高の希望として祝う時である。というのは、それは或る新しい朝への道だからだ。そのとき、没落して行く者は、自分がかなたへ渡って行く者であるというので、みずから自分を祝福するであろう。そして、彼の認識の太陽は、彼にとって真南に位置しているであろう。「すべての神々は死んだ。いまやわれわれは、超人が生きんことを欲する」──これが、いつの日か大いなる正午において、われわれの最後の意志であらんことを!──このようにツァラトゥストラは語った。(ツァラトゥストラ 贈与する徳について3)』

    『あまりにもユダヤ的。──神は愛の対象になろうと欲するなら、何よりもまず審判と正義を断念せねばならぬことだろう。──審判者というものは、それが恵み深い審判者であったにしても、決して愛の対象とはならない。キリスト教の開祖は、この点にかけての繊細な感受性を十分に持ちあわせていなかった──ユダヤ人であったゆえに。(悦ばしき知識 第140番)』

    『あまりにも東洋的。──何ですって?人間が彼を信仰するならば、人間を愛してくれる神だって!この愛を信じない者には怖るべき眼光と威嚇を投げつける神だって!何ですって?全能の神の感情としての但し書きつきの愛だって!名誉心や復讐欲をどうしても制しきれない愛だって!なにもかもが何と東洋的であることだ!「私が君を愛したとて、それが君に何のかかわりがあろう?」──こういうだけでもすでにキリスト教全体に対する十分の批判である。(悦ばしき知識 第141番)』

    『道徳的に表現すれば、世界は偽である。しかも道徳自身がこの世界の一部であるかぎり、道徳は偽である。真理への意志とは、固定的なものをでっちあげること、真なる・持続的なものをでっちあげること、あの偽りの性格を度外視すること、このものを存在するものへと解釈し変えることである。それゆえ「真理」とは、現存する或るもの、見出され、発見されるべき或るものではなく、──つまりつくりださるべ或るもの、過程に代わる、それのみならず、それ自体では終わることのない征服の意志に代わる名称の役目をつとめる或るもののことである。すなわち、真理を置き入れるのは、無限過程、能動的に規定するはたらきとしてであって──それ自体で固定し確定しているかにみえる或るものの意識化としてではない。それは「権力への意志」の代名詞である(力への意志 第552番)』

    『現象に立ちどまって「あるのはただ事実のみ」と主張する実証主義者に反対して、私は言うであろう、否、まさしく事実なるものはなく、あるのはただ解釈のみと。私たちはいかなる事実「自体」をも確かめることはできない。おそらく、そのようなことを欲するのは背理であろう。
    「すべてのものは主観的である」と君たちは言う。しかしこのことがすでに解釈なのである。「主観」はなんらあたえられたものではなく、何か仮構し加えられたもの、背後へと挿入されたものである。──解釈の背後にはなお解釈者を立てることが、結局は必要なのだろうか?すでにこのことが、仮構であり、仮設である。
    総じて「認識」という言葉が意味をもつかぎり、世界は認識されうるものである。しかし、世界には別様にも解釈されうるものであり、それはおのれの背後にいかなる意味をももってはおらず、かえって無数の意味をもっている。──「遠近法主義。」(力への意志 第481番)』
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■32264 / inTopicNo.33)  Re[26]: 劇薬的アフォリズム
□投稿者/ 時 -(2023/08/04(Fri) 16:32:55)
    パニチェさん、こんにちは。お忙しいところ、返信をありがとうございます。

    No32218 No32219

    > これはなかなか短い返信では伝えにくいところがあるのと、ニーチェ哲学の別名として「解釈の哲学」というのがありまして、読者がニーチェのアフォリズムを解釈し新たな価値を創造するというのもニーチェならではの特徴です。固定的あるいは普遍的な真理を否定した上で最終的には読者を突き放すのがニーチェです。

    > 時さんが指摘している「自らの生に対する全肯定」の思想というのは運命愛と永劫回帰のことだと思います。
    > この二つは全肯定の両側面で元になるアフォリズムは以下です。

    > 現状の自分と生を最も厳しく、かつ高貴に全肯定するには「今まで自分が生きてきた全ての経験(二度と経験したくないようなことも含め)を無数度にわたって生れ変わっても経験するのはどうか?」という問いに対して迷わず「然り!」と答えることが条件であり、これをもって運命愛に至るというような内容です。

    なるほど。簡潔なご説明でよく分かるつもりでいます。ありがとうございます。この視点としての発想で考えたことはありませんでしたが、考えてみると、私の理解する仏教でのゴールは解脱ですので、ニーチェの永遠回帰と仏陀の解脱は、反対の帰結を仮定していますね。まぁ、少なくとも生きている間の私には、死んだあとが永遠回帰なのか輪廻転生なのかは確信をもっては分かりはしないでしょうから、大切なのは今ある生なのだと思います。ニーチェは、仮にという事で悪魔の言葉として・・という事での問いかけですね。

    最初ネットで拾い読みをしていた時の第一印象は、ニーチェの言葉等の表現は違っても、最終的なその観念的な世界観は、アドヴァイタの世界観によく似ているなぁというものでした。結論的には、同じところに行きつくという、生の肯定がテーマだったようにも思えます。

    > あと毒(読みようによってはサイコパスっぽい内容もあります)のあるアフォリズムをいくつか引用しておきますが、ニーチェが劇薬であることはなかなかこの返信だけでは伝わらないと思います。

    ありがとうございます。了解しました。勿論これらのレスを多く繰り返したとしても、パニチェさんのご認識と私の理解では、そこに食い違いが生じるでしょうし、同時にそれを埋めることも完全には不可能だろうとも思っています。

    > 『私の哲学は、あらゆる他の思考法が最後にはそれで徹底的に没落するところの、勝ちほこれる思想をもたらす。それは、育成する偉大な思想である。すなわち、この思想に耐えられない種属は断罪されており、この思想を最大の恩恵として受けとる種属は、支配者たるべく選びだされている。(力への意志 第1053番)』

    > 『怪物と闘う者は、その過程で自分自身も怪物になることがないよう、気をつけねばならない。深淵をのぞきこむとき、その深淵もこちらを見つめているのだ。(善悪の彼岸 箴言と間奏第146番)』

    少し話はずれるかもしれないのですが、善悪の彼岸とは善と悪を超越したところのもの、つまり、既存の道徳的価値観を超えたもの、従来の道徳からの解放を意味している。とのネット上での説明がありますが、もしもこの説明が正しいのであれば、やはりこれは、既存の道徳的価値観を超越したという意味だけではなく、不二一元の世界観とも被って解釈できそうだなと思いました。善と悪を超越した、既存の道徳的価値観の縛りを超えた一元的な視点の獲得です。だからといって、非道徳的な行為を行う事を推奨しているという意味でもないのは、当然のことですね。

    もしも善と悪を超越した立ち位置に至れたのであれば、従来の道徳等の判断基準は偏らずに崩壊、消滅しますね。もとより、これはその基準自体が、作り上げられた極論で意味のない幻想であるという意味の理解が起こるという事になるでしょうか。ここは誤読かもしれませんが、現在の感想としては、ニーチェの超人は、指導者としての自身の行為の価値評価を必要とするのかなと思いましたが、アドヴァイタのゴールには指導者というもの自体は存在しませんので、もしもそうならば、ここの違いがあるように感じました。

    > 『現象に立ちどまって「あるのはただ事実のみ」と主張する実証主義者に反対して、私は言うであろう、否、まさしく事実なるものはなく、あるのはただ解釈のみと。私たちはいかなる事実「自体」をも確かめることはできない。おそらく、そのようなことを欲するのは背理であろう。
    > 「すべてのものは主観的である」と君たちは言う。しかしこのことがすでに解釈なのである。「主観」はなんらあたえられたものではなく、何か仮構し加えられたもの、背後へと挿入されたものである。──解釈の背後にはなお解釈者を立てることが、結局は必要なのだろうか?すでにこのことが、仮構であり、仮設である。
    > 総じて「認識」という言葉が意味をもつかぎり、世界は認識されうるものである。しかし、世界には別様にも解釈されうるものであり、それはおのれの背後にいかなる意味をももってはおらず、かえって無数の意味をもっている。──「遠近法主義。」(力への意志 第481番)』

    あるのは解釈のみだというニーチェ。だから、世界には別様にも解釈されうるものであり、それはおのれの背後にいかなる意味をももってはおらず、かえって無数の意味をもっている。という、言わば一元的な視点での捉え方をしているようにやはり観えます。

    パニチェさんも仰るように、短いレスのやり取りだけでは仰る劇薬という言葉の解釈、意味が現在の私には理解できないでしょう。最初は、ニーチェのアフォリズムのどこかに劇薬というワードがあるのかな?と思っていましたので探してみましたが、どうも違うようですね。

    実は前回、興味が起こった事柄が2つありました。それは、パニチェさんが表現された劇薬というワードと、善悪の彼岸というニーチェの表現の2つでした。もしもよろしければ、次回、お時間のある時にでも善悪の彼岸についてのパニチェさんの考察をお聞かせ頂ければ有難いです。勿論、スルーでもかまいません。
引用返信/返信 削除キー/
■32272 / inTopicNo.34)  時さんへ1>劇薬的アフォリズム
□投稿者/ パニチェ -(2023/08/05(Sat) 09:46:10)
    2023/08/05(Sat) 18:07:50 編集(投稿者)

    おはようございます、時さん。レスありがとうございます。

    No32264に返信(時さんの記事)

    > 少なくとも生きている間の私には、死んだあとが永遠回帰なのか輪廻転生なのかは確信をもっては分かりはしないでしょうから、大切なのは今ある生なのだと思います。ニーチェは、仮にという事で悪魔の言葉として・・という事での問いかけですね。

    全くもってその通りです。あのアフォリズムからそこまで読み込める時さんの読解力は素晴らしいです!
    ニーチェは最後の審判や死後世界などプラトニズムを代表する背後世界を否定あるいは無記としていることから重要なのは生であり、生は生に自己完結するという実存主義の先駆けでもあります。

    あと先のアフォリズムにもあったように生の中で『何事をするにつけてもかならず「お前は、このことを、いま一度、いな無数度にわたって、欲するか?」と』問いつつ物事を決断し為すべきだ、また絶えざる自己超克を生のベクトルとしないかぎり、この悪魔の問いに耐えられないだろう?というような教訓?挑発?めいた意味も含まれていると思います。

    > 最初ネットで拾い読みをしていた時の第一印象は、ニーチェの言葉等の表現は違っても、最終的なその観念的な世界観は、アドヴァイタの世界観によく似ているなぁというものでした。結論的には、同じところに行きつくという、生の肯定がテーマだったようにも思えます。

    ここもその通りです。前にも返信しかたかもしれませんが、以下のアフォリズムからしてニーチェは静養先で仏教的な見性体験にかすっていると思います。
    このアフォリズムは道元禅師著『正法眼蔵 画餅』ともの凄く似ています(参照:Panietzsche Room > ニーチェU > 第11章永劫回帰 > 3.ニーチェと道元)。

    『完全な忘我の状態にありながらも、爪先にまで伝わる無数の微妙な戦きと悪寒とを、このうえなく明確に意識している。これはまた幸福の潜む深所でもあって、そこでは最大の苦痛も最高の陰惨さも幸福に逆らう反対物としては作用せず、むしろ幸福を引き立てるための条件として、挑発として、いいかえればこのような光の氾濫の内部におけるなくてはならない一つの色どりとして作用するのである。これはまたリズムの釣り合いを見抜く本能でもあって、さまざまな形の広大な場所を張り渡している。──その長さ、広く張り渡されたリズムへの欲求が、ほとんどインスピレーションの圧力と緊張に対抗する一種の調節の役目をも果たしている。…いっさいが最高の度合いにおいて非自由意志的に起こる。しかも、自由の感情の、無制約的な存在の、権力の、神的性格の嵐の中にあるようにして起こる。…形象や比喩が自分の思いの儘にならぬことは、最も注目に値する点だ。われわれはもう何が形象であり、何が比喩であるのかが分からない。いっさいが最も手近な、最も適確な、そして最も単純な表現となって、立ち現れる。実際、ツァラトゥストラの言葉を思い出して頂くなら、事物の方が自らに近寄って来て、比喩になるよう申し出ているかのごとき有様にみえる。(この人を見よ ツァラトゥストラ)』

    あと超人に至る精神の三変化という例えがツァラトゥストラで語られます。
    駱駝、獅子、無垢なる小児への変化です。

    「汝為すべし」というキリスト教道徳を背負い強靭な精神とともに砂漠を行く駱駝は、「我欲す」という雄叫びとともに既存価値との闘争に挑みます、これは本来の自己に回帰するという意味も含まれます。闘争によってかちえた自分の世界にあって、さらなる価値創造のためには「否」という闘争ではなく「然り」という遊戯が必要であるからこそ、シシは子供に変化します。「無垢なる戯れ」とは自己と存在の戯れのことであり、自らが創造した世界では何ものも反対物としては存在せず、自己の存在と万物の存在が一体化する世界となるというような世界観です。

    > 少し話はずれるかもしれないのですが、善悪の彼岸とは善と悪を超越したところのもの、つまり、既存の道徳的価値観を超えたもの、従来の道徳からの解放を意味している。とのネット上での説明がありますが、もしもこの説明が正しいのであれば、やはりこれは、既存の道徳的価値観を超越したという意味だけではなく、不二一元の世界観とも被って解釈できそうだなと思いました。善と悪を超越した、既存の道徳的価値観の縛りを超えた一元的な視点の獲得です。だからといって、非道徳的な行為を行う事を推奨しているという意味でもないのは、当然のことですね。

    はい。但しニーチェが否定した道徳観は日本人の道徳観とは異なりますね(次の投稿でまとめてみます)。

    > もしも善と悪を超越した立ち位置に至れたのであれば、従来の道徳等の判断基準は偏らずに崩壊、消滅しますね。もとより、これはその基準自体が、作り上げられた極論で意味のない幻想であるという意味の理解が起こるという事になるでしょうか。ここは誤読かもしれませんが、現在の感想としては、ニーチェの超人は、指導者としての自身の行為の価値評価を必要とするのかなと思いましたが、アドヴァイタのゴールには指導者というもの自体は存在しませんので、もしもそうならば、ここの違いがあるように感じました。

    超人は指導者というイメージは私にはないです。
    動物→人間→超人という進化のベクトルの延長でもある人間の理想的進化系(精神的進化)でもあり、神のアンチテーゼであることから、神とは異なり読者に対して固定的なイメージは強要しません(読者を突き放します)。
    但し、方向性というか、きわめて抽象的な表現で神なき次世代の理想的人間像として語られています。

    人類を超人へと導こうとしている指導者は、超人の告知者というか予言者としてのツァラトゥストラ(ニーチェの主著でもあるツァラトゥストラという物語に登場する主人公にしてニーチェの分身)です。

    > あるのは解釈のみだというニーチェ。だから、世界には別様にも解釈されうるものであり、それはおのれの背後にいかなる意味をももってはおらず、かえって無数の意味をもっている。という、言わば一元的な視点での捉え方をしているようにやはり観えます。

    はい、最終的には無我ですね。

    > パニチェさんも仰るように、短いレスのやり取りだけでは仰る劇薬という言葉の解釈、意味が現在の私には理解できないでしょう。最初は、ニーチェのアフォリズムのどこかに劇薬というワードがあるのかな?と思っていましたので探してみましたが、どうも違うようですね。

    はい、ニーチェは劇薬という言葉は使ってないです。ただ自分の哲学は『丈夫な歯と丈夫な胃、私が君にのぞむのはこれだ!そうして君が私の本を消化してこそ、私と昵懇になれるのは必定!(悦ばしき知識 たわむれ、たばかり、意趣ばらし54)』と述べており、『私の哲学は、あらゆる他の思考法が最後にはそれで徹底的に没落するところの、勝ちほこれる思想をもたらす。それは、育成する偉大な思想である。すなわち、この思想に耐えられない種属は断罪されており、この思想を最大の恩恵として受けとる種属は、支配者たるべく選びだされている。(力への意志 第1053番)』とも述べており、「読者が書籍を選ぶように、高貴な(大衆迎合的ではない)書籍は、書籍の方からも読者が選ばれる」としています。

    > 実は前回、興味が起こった事柄が2つありました。それは、パニチェさんが表現された劇薬というワードと、善悪の彼岸というニーチェの表現の2つでした。もしもよろしければ、次回、お時間のある時にでも善悪の彼岸についてのパニチェさんの考察をお聞かせ頂ければ有難いです。勿論、スルーでもかまいません。

    時さんもおそらくそうだと思いますが、問いに返信するのは自分の考えを再確認し、整理しつつまとめるきっかけになり有益です。このプロセスには思わぬ発見もあり、スルーなんてとんでもありません。

    次の投稿で私が読解するところのニーチェの言う「善悪の彼岸」について投稿させてもらいます。

引用返信/返信 削除キー/
■32273 / inTopicNo.35)  時さんへ2>善悪の彼岸
□投稿者/ パニチェ -(2023/08/05(Sat) 09:47:53)
    2023/08/05(Sat) 13:21:54 編集(投稿者)

    「善悪の彼岸」には二つの意味があります。
    ひとつは言葉としての意味、もうひとつはツァラトゥストラに続いて出版された書籍としての「善悪の彼岸」です。

    最初に言葉としての意味を書いてみます。
    結論から言えば「善悪の彼岸」とはユダヤ・イスラム・キリスト教的道徳(以降はキリスト教道徳と省略します)を超克した超人が立脚する大地(天を重んじたドグマに対するアンチテーゼで人間が立脚する大地)のことです。

    此岸とはキリスト教道徳であり善悪二元論的な倫理観です。
    ニーチェによればキリスト教道徳は奴隷として生まれついた不幸な民族、ユダヤ人のルサンチマン(弱者が強者に抱く怨恨感情と訳されますが、現代風に言えばコンプレックスから生じる反動みたいなものです)によって生み出された奴隷道徳であると断罪します。

    人間によって支配・拘束された自分たちは本来は神に選ばれし民(選民思想)であり、自分たちを支配するのは唯一無二の絶対神であるヤハウェ(ヘブライ語でありアラビア語ではアラー)である。
    神からトップダウン的に与えられた道徳観こそ絶対であり、これによれば原罪を背負う生は罪深いものであり、死後に訪れる神による最後の審判によって神の国へ召されることを生の目的や意義とする。
    生よりも最後の審判が重要視され、欲望は罪深いものであり(禁欲主義の推奨)、隣人愛が説かれる。

    これらは本来無垢でありダイナミックであるべき人間の生を委縮させ、言語を有して生まれ、あらゆるものに意味や価値を付与しうる特権的動物である人間を均一化(弱体化)させ家畜の如く飼いならす畜群的道徳(上から与えられる奴隷道徳)であって、福音どころか禍因の元凶とニーチェは看破します。

    この彼岸にあるのが君主道徳です。
    君主とは高貴な精神の象徴的表現であり、誰に強要されたり与えられるような倫理観ではなく、自らの意志で自らを律する道徳です。
    君主道徳が具体的にどのようなものかは最終的には読者に委ねられており、少なくとも此岸的な奴隷道徳のアンチテーゼである方向性が示されているのみです。
    私個人的には武士道とか自洲・法洲(自灯明・法灯明)に相通じるものとしてのイメージを抱いてます。


    次に書籍としての「善悪の彼岸」ですが、この書籍はあまりに不評というか無視され続けた「ツァラトゥストラ」の補足として書かれた部分もあり、キリスト教道徳を超克した高貴さとは何かについて書かれた書籍です。この書籍の解説をニーチェ自身が「この人を見よ」で解説していますので、以下に引用しておきます。

    『この本(1886年)はすべての本質的な点において近代性の批判である。近代科学、近代芸術、いや近代政治さえも除外されていない。と同時にこの本は、可能なかぎり最も近代的ならざる一つの反対典型、高貴な、然りを言う典型を示唆しようとするものである。この後者の意味においてはこの本は一つの貴公子の学校である。ただし、この貴公子という概念を史上最高に精神的かつラディカルに解していただきたい。この概念に耐えるだけのためにも身によほどの勇気がいる。恐れるなどということを習い知ったらもうだめだ…時代が誇りとしているすべてのものが、この典型に対する矛盾と感じられ、無作法とさえ思われる。たとえばあの有名な「客観性」がそうだ。「すべての悩める者への同情」などというのもそうだし、他人の趣味への屈従、瑣末事』への平伏がつきものであるあの「歴史的感覚」とか、例の「科学性」などもそうだ。(ニーチェ著「この人を見よ」よりの引用)』


    PS.時さんのお陰で久々にPanietzsche Roomの第4章インモラリストにこの返信を追加できました。

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■32279 / inTopicNo.36)  超人
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2023/08/05(Sat) 19:24:40)
    パニさん、
    ニーチェの言う「超人」って、
    性別(男性・女性)は関係ないよね。

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