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No32218 の記事


■32218 / )  劇薬>時さんへ
□投稿者/ パニチェ -(2023/08/03(Thu) 08:09:34)
    No32044に返信(時さんの記事)

    こんちには、時さん。レスありがとうございます。
    時間できたので返信させてもらいます。

    >>あと実践的な人生哲学としてはニーチェと仏教の複合体(劇薬であるニーチェを仏教で中和するというかなんというか、うまく言えませんが)です。
    > ここで表現されている「劇薬であるニーチェ」という事なのですが、ニーチェ哲学の自らの生に対する全肯定の思考方法の事を、パニチェさんは劇薬と仰っているのでしょうか?
    > 私自身は、多くの専門的な哲学者の思考の世界の事はほぼ知らず、ネットでつまみ食いをする程度の知識ですので、ニーチェに関しても何が劇薬なのかが分からないのですね。
    > 今回は、この件を宜しくお願。

    これはなかなか短い返信では伝えにくいところがあるのと、ニーチェ哲学の別名として「解釈の哲学」というのがありまして、読者がニーチェのアフォリズムを解釈し新たな価値を創造するというのもニーチェならではの特徴です。固定的あるいは普遍的な真理を否定した上で最終的には読者を突き放すのがニーチェです。

    時さんが指摘している「自らの生に対する全肯定」の思想というのは運命愛と永劫回帰のことだと思います。
    この二つは全肯定の両側面で元になるアフォリズムは以下です。

    『最大の重し。──もしある日、もしくはある夜なり、デーモンが君の寂寥きわまる孤独の果てまでひそかに後をつけ、こう君に告げたとしたら、どうだろう、──「お前が現に生き、また生きてきたこの人生を、いま一度、いなさらに無数度にわたって、お前は生きねばならぬだろう。そこに新たな何ものもなく、あらゆる苦痛をあらゆる快楽、あらゆる思想と嘆息、お前の人生の言いつくせぬ巨細のことども一切が、お前の身に回帰しなければならぬ。しかも何から何までことごとく同じ順序と脈絡にしたがって、──さればこの蜘蛛も、樹間のこの月光も、またこの瞬間も、この自己自身も、同じように回帰せねばならぬ。存在の永遠の砂時計は、くりかえしくりかえし巻き戻される──それとともに塵の塵であるお前も同じく!」──これを耳にしたとき、君は地に身を投げ出し、歯ぎしりして、こう告げたデーモンに向かい「お前は神だ、おれは一度もこれ以上に神的なことを聞いたことがない!」と答えるだろうか。もしこの思想が君を圧倒したなら、それは現在あるがままの君自身を変化させ、おそらくは紛糾するであろう。何事をするにつけてもかならず「お前は、このことを、いま一度、いな無数度にわたって、欲するか?」という問いが、最大の重しとなって君の行為にのしかかるであろう!もしくは、この究極の永遠な裏書と確証とのほかにはもはや何ものをも欲しないためには、どれほど君は自己自身と人生を愛惜しなければならないだろうか?──(悦ばしき知識 第341番)』

    現状の自分と生を最も厳しく、かつ高貴に全肯定するには「今まで自分が生きてきた全ての経験(二度と経験したくないようなことも含め)を無数度にわたって生れ変わっても経験するのはどうか?」という問いに対して迷わず「然り!」と答えることが条件であり、これをもって運命愛に至るというような内容です。

    あとスッタニパータにもあるように「犀の角のようにただ独り歩め」的なアフォリズムもあります。
    『ひとはなお隣人を愛し、隣人をわが身にこすりつける。というのは、暖かさが必要だからである。(ツァラトゥストラ 序説)』
    『きみたちは、隣人のまわりに押しかけ、そのことを言い表すのに、美しい言葉の数々をもってする。だが、わたしは、きみたちに言う、きみたちの隣人愛はきみたちの不十分な自己愛なのだ、と。(ツァラトゥストラ 隣人愛について)』

    あと毒(読みようによってはサイコパスっぽい内容もあります)のあるアフォリズムをいくつか引用しておきますが、ニーチェが劇薬であることはなかなかこの返信だけでは伝わらないと思います。

    『犯罪者は何よりも先ず一種の破壊者なのだ。全体に対し契約と約束を破った者、彼がそれまでの分け前を受けてきた共同生活のあらゆる財産と便宜に関連していえば、これを破壊した者なのである。犯罪者は自分が受けてきた利益や前借を返済しないばかりか、その債権者たる共同体に向かって楯つきさえする債権者にほかならない。だからこういう者は、当然ながら、そのすべての財産と利益を失うだけにとどまらないで──これらの財産がいかに貴重なものであるかを今や思いしらされる破目になるのだ。被害者たる債権者、すなわち共同体の怒りは、これまでその男がその保護によってまぬかれていた野蛮な追放の状態へ、ふたたびこの男をつきもどす。共同体は犯罪者を閉め出す──今やこの男に対してはどんな敵意を爆発させても天下御免ということになるのだ。「刑罰」はこういう段階の開化状態では、憎みてもなお余りある敵に対する普通の処置を模倣したもの、「真似事」にすぎない。なぜなら敵は屈服した以上、武装解除を受け、いっさいの権利と保護のみならず、いっさいの恩恵をも失うことになるのが、普通の処置だからである。こうして刑罰の場合も、「征服サレタル者ハ禍イナルカナ!」式の戦争法規と戦勝祝賀式がまことに情容赦もなく残虐のかぎりをつくすのだ。──このことから、戦争というもの(戦時の犠牲祭もふくめて)こそ、歴史上にあらわれる刑罰のすべての形式をあたえた淵源であったことが説明されたのである。(道徳の系譜 『罪』、『良心の呵責』、その他 第9番)』

    『生そのものは本質的に他者や弱者をわがものにすること、傷つけること、制圧することであり、抑制であり、冷酷であり、自己の形式を押しつけることであり、他者を併合することであり、少なくとも、もっとおだやかに言っても搾取である、・・・それは力への意志の化身でなくてはならないであろう。それは生長し、広がり、独占し、優勢を占めようと欲するだろう、──それも何らかの道徳性や不道徳性からではなく、それが生きているから、生がまさに力への意志であるから、そうするのである。・・・「搾取」は、堕落した、あるいは不完全で原初的な社会に属するのではない。それは有機的な根本機能として、生けるものの本質に属しており、まさに生の意志である本来の力への意志の、一つの帰結なのである。──かりに、これが理論として革新的なものであるとしても、──現実としては、それはすべての歴史に含まれる根本事実である…せめてこれを認めるほどには、自らに対して正直であってほしいものだ!──(善悪の彼岸 高貴とは何か 第257番)』

    『無節度な連中の口にする同情の道徳。──自己を十分に統制できず、また道徳性というものは大事につけ小事につけ絶えず実践される自制であり克己であることを知らない連中はすべて、知らず知らずのうちに、善良で思いやり深く親切なさまざまなか感動の賛美者、〔分別的な〕頭脳を持たず、ただ心胸と人助けの好きな手だてからできあがっているみたいな、例の本能的な道徳心の賛美者となる。実際、理性の道徳性には疑義を示して、それとは別の、例の本能的な道徳性を唯一のものとすることが彼らの関心事である。(人間的、あまりに人間的U46)』

    『私の哲学は階序をめざしている。個人主義的道徳をめざしているのではない。畜群の感覚は畜群のうちで支配すべきである。──しかしそれ以上に手をのばしてはならない。畜群の指導者は、これとは根本的に異なったおのれ自身の行為の価値評価を必要とする、同様に独立者、ないしは「猛獣」その他も。(力への意志 第287番)』

    『怪物と闘う者は、その過程で自分自身も怪物になることがないよう、気をつけねばならない。深淵をのぞきこむとき、その深淵もこちらを見つめているのだ。(善悪の彼岸 箴言と間奏第146番)』

    最期に「非倫理的な行為を推奨してるわけではないよ」というニーチェの言葉も引用しておきます。

    『自明なことであるが、──私が愚か者でないとすれば──、非倫理的と呼ばれる多くの行為は避けられるべきであり、克服されるべきであるということを、私は否定しない。同様に、倫理的と呼ばれる多くの行為は実践されるべきものであり、促進されるべきであるということを私は否定しない。──しかし前者も後者も、これまでとは別な理由からであると私は考える。われわれは学び直さなければならない。──結局おそらく極めて後のことかもしれないが、さらにそれ以上に到達するために、感じ直すために。(曙光103)』

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