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No32264 の記事


■32264 / )  Re[26]: 劇薬的アフォリズム
□投稿者/ 時 -(2023/08/04(Fri) 16:32:55)
    パニチェさん、こんにちは。お忙しいところ、返信をありがとうございます。

    No32218 No32219

    > これはなかなか短い返信では伝えにくいところがあるのと、ニーチェ哲学の別名として「解釈の哲学」というのがありまして、読者がニーチェのアフォリズムを解釈し新たな価値を創造するというのもニーチェならではの特徴です。固定的あるいは普遍的な真理を否定した上で最終的には読者を突き放すのがニーチェです。

    > 時さんが指摘している「自らの生に対する全肯定」の思想というのは運命愛と永劫回帰のことだと思います。
    > この二つは全肯定の両側面で元になるアフォリズムは以下です。

    > 現状の自分と生を最も厳しく、かつ高貴に全肯定するには「今まで自分が生きてきた全ての経験(二度と経験したくないようなことも含め)を無数度にわたって生れ変わっても経験するのはどうか?」という問いに対して迷わず「然り!」と答えることが条件であり、これをもって運命愛に至るというような内容です。

    なるほど。簡潔なご説明でよく分かるつもりでいます。ありがとうございます。この視点としての発想で考えたことはありませんでしたが、考えてみると、私の理解する仏教でのゴールは解脱ですので、ニーチェの永遠回帰と仏陀の解脱は、反対の帰結を仮定していますね。まぁ、少なくとも生きている間の私には、死んだあとが永遠回帰なのか輪廻転生なのかは確信をもっては分かりはしないでしょうから、大切なのは今ある生なのだと思います。ニーチェは、仮にという事で悪魔の言葉として・・という事での問いかけですね。

    最初ネットで拾い読みをしていた時の第一印象は、ニーチェの言葉等の表現は違っても、最終的なその観念的な世界観は、アドヴァイタの世界観によく似ているなぁというものでした。結論的には、同じところに行きつくという、生の肯定がテーマだったようにも思えます。

    > あと毒(読みようによってはサイコパスっぽい内容もあります)のあるアフォリズムをいくつか引用しておきますが、ニーチェが劇薬であることはなかなかこの返信だけでは伝わらないと思います。

    ありがとうございます。了解しました。勿論これらのレスを多く繰り返したとしても、パニチェさんのご認識と私の理解では、そこに食い違いが生じるでしょうし、同時にそれを埋めることも完全には不可能だろうとも思っています。

    > 『私の哲学は、あらゆる他の思考法が最後にはそれで徹底的に没落するところの、勝ちほこれる思想をもたらす。それは、育成する偉大な思想である。すなわち、この思想に耐えられない種属は断罪されており、この思想を最大の恩恵として受けとる種属は、支配者たるべく選びだされている。(力への意志 第1053番)』

    > 『怪物と闘う者は、その過程で自分自身も怪物になることがないよう、気をつけねばならない。深淵をのぞきこむとき、その深淵もこちらを見つめているのだ。(善悪の彼岸 箴言と間奏第146番)』

    少し話はずれるかもしれないのですが、善悪の彼岸とは善と悪を超越したところのもの、つまり、既存の道徳的価値観を超えたもの、従来の道徳からの解放を意味している。とのネット上での説明がありますが、もしもこの説明が正しいのであれば、やはりこれは、既存の道徳的価値観を超越したという意味だけではなく、不二一元の世界観とも被って解釈できそうだなと思いました。善と悪を超越した、既存の道徳的価値観の縛りを超えた一元的な視点の獲得です。だからといって、非道徳的な行為を行う事を推奨しているという意味でもないのは、当然のことですね。

    もしも善と悪を超越した立ち位置に至れたのであれば、従来の道徳等の判断基準は偏らずに崩壊、消滅しますね。もとより、これはその基準自体が、作り上げられた極論で意味のない幻想であるという意味の理解が起こるという事になるでしょうか。ここは誤読かもしれませんが、現在の感想としては、ニーチェの超人は、指導者としての自身の行為の価値評価を必要とするのかなと思いましたが、アドヴァイタのゴールには指導者というもの自体は存在しませんので、もしもそうならば、ここの違いがあるように感じました。

    > 『現象に立ちどまって「あるのはただ事実のみ」と主張する実証主義者に反対して、私は言うであろう、否、まさしく事実なるものはなく、あるのはただ解釈のみと。私たちはいかなる事実「自体」をも確かめることはできない。おそらく、そのようなことを欲するのは背理であろう。
    > 「すべてのものは主観的である」と君たちは言う。しかしこのことがすでに解釈なのである。「主観」はなんらあたえられたものではなく、何か仮構し加えられたもの、背後へと挿入されたものである。──解釈の背後にはなお解釈者を立てることが、結局は必要なのだろうか?すでにこのことが、仮構であり、仮設である。
    > 総じて「認識」という言葉が意味をもつかぎり、世界は認識されうるものである。しかし、世界には別様にも解釈されうるものであり、それはおのれの背後にいかなる意味をももってはおらず、かえって無数の意味をもっている。──「遠近法主義。」(力への意志 第481番)』

    あるのは解釈のみだというニーチェ。だから、世界には別様にも解釈されうるものであり、それはおのれの背後にいかなる意味をももってはおらず、かえって無数の意味をもっている。という、言わば一元的な視点での捉え方をしているようにやはり観えます。

    パニチェさんも仰るように、短いレスのやり取りだけでは仰る劇薬という言葉の解釈、意味が現在の私には理解できないでしょう。最初は、ニーチェのアフォリズムのどこかに劇薬というワードがあるのかな?と思っていましたので探してみましたが、どうも違うようですね。

    実は前回、興味が起こった事柄が2つありました。それは、パニチェさんが表現された劇薬というワードと、善悪の彼岸というニーチェの表現の2つでした。もしもよろしければ、次回、お時間のある時にでも善悪の彼岸についてのパニチェさんの考察をお聞かせ頂ければ有難いです。勿論、スルーでもかまいません。
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