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No32219 の記事


■32219 / )  Re[25]: 劇薬的アフォリズム
□投稿者/ パニチェ -(2023/08/03(Thu) 08:33:26)
    『神のまえではすべての「魂」が平等となったが、しかし、これこそまさしくすべての可能な価値評価のうちで最も危険なものである!個々人が平等視されれば、類は疑問視され、ついには類の壊滅をひきおこす実践がよしとされる。すなわち、キリスト教は淘汰にそむくその反対の原理である。・・・真正の人間愛は類の最善のための犠牲を要求する、──それは冷酷であり、それは自己超克に満ちている、とうのは、それは人身御供を必要とするからである。ところがキリスト教とよばれる似非ヒューマニティーは、誰ひとりとして犠牲にされないということをこそ貫徹しようと欲するのである。(力への意志 第246番)』

    『万人向きの書物はつねに悪臭を放つ書物であり、そこには小人臭がこびりついている。(善悪の彼岸 自由な精神30)』

    『私の哲学は、あらゆる他の思考法が最後にはそれで徹底的に没落するところの、勝ちほこれる思想をもたらす。それは、育成する偉大な思想である。すなわち、この思想に耐えられない種属は断罪されており、この思想を最大の恩恵として受けとる種属は、支配者たるべく選びだされている。(力への意志 第1053番)』

    『いまや、わたしはきみたちに、わたしを失い、みずからを見出せ、と命じる。そして、きみたちがみな私を否認したときに初めて、わたしはきみたちのもとへ帰って来ようと思う。まことに、わたしたちの兄弟たちよ、そのときわたしは、違った目で、自分の失った者たちを捜し求めるであろう。そのときわたしは、或る違った愛で、きみたちを愛するであろう。そして、さらにいつの日か、きみたちはわたしの友となり、同じ希望の子となっているであろう。そのとき、わたしは三たびきみたちのもとにあって、きみたちと共に大いなる正午を祝おうと思う。ところで、大いなる正午とは、人間が自分の軌道の真ん中にあって、動物と超人の中間に立ち、自分が歩み行くべき夕暮れへの道を自分の最高の希望として祝う時である。というのは、それは或る新しい朝への道だからだ。そのとき、没落して行く者は、自分がかなたへ渡って行く者であるというので、みずから自分を祝福するであろう。そして、彼の認識の太陽は、彼にとって真南に位置しているであろう。「すべての神々は死んだ。いまやわれわれは、超人が生きんことを欲する」──これが、いつの日か大いなる正午において、われわれの最後の意志であらんことを!──このようにツァラトゥストラは語った。(ツァラトゥストラ 贈与する徳について3)』

    『あまりにもユダヤ的。──神は愛の対象になろうと欲するなら、何よりもまず審判と正義を断念せねばならぬことだろう。──審判者というものは、それが恵み深い審判者であったにしても、決して愛の対象とはならない。キリスト教の開祖は、この点にかけての繊細な感受性を十分に持ちあわせていなかった──ユダヤ人であったゆえに。(悦ばしき知識 第140番)』

    『あまりにも東洋的。──何ですって?人間が彼を信仰するならば、人間を愛してくれる神だって!この愛を信じない者には怖るべき眼光と威嚇を投げつける神だって!何ですって?全能の神の感情としての但し書きつきの愛だって!名誉心や復讐欲をどうしても制しきれない愛だって!なにもかもが何と東洋的であることだ!「私が君を愛したとて、それが君に何のかかわりがあろう?」──こういうだけでもすでにキリスト教全体に対する十分の批判である。(悦ばしき知識 第141番)』

    『道徳的に表現すれば、世界は偽である。しかも道徳自身がこの世界の一部であるかぎり、道徳は偽である。真理への意志とは、固定的なものをでっちあげること、真なる・持続的なものをでっちあげること、あの偽りの性格を度外視すること、このものを存在するものへと解釈し変えることである。それゆえ「真理」とは、現存する或るもの、見出され、発見されるべき或るものではなく、──つまりつくりださるべ或るもの、過程に代わる、それのみならず、それ自体では終わることのない征服の意志に代わる名称の役目をつとめる或るもののことである。すなわち、真理を置き入れるのは、無限過程、能動的に規定するはたらきとしてであって──それ自体で固定し確定しているかにみえる或るものの意識化としてではない。それは「権力への意志」の代名詞である(力への意志 第552番)』

    『現象に立ちどまって「あるのはただ事実のみ」と主張する実証主義者に反対して、私は言うであろう、否、まさしく事実なるものはなく、あるのはただ解釈のみと。私たちはいかなる事実「自体」をも確かめることはできない。おそらく、そのようなことを欲するのは背理であろう。
    「すべてのものは主観的である」と君たちは言う。しかしこのことがすでに解釈なのである。「主観」はなんらあたえられたものではなく、何か仮構し加えられたもの、背後へと挿入されたものである。──解釈の背後にはなお解釈者を立てることが、結局は必要なのだろうか?すでにこのことが、仮構であり、仮設である。
    総じて「認識」という言葉が意味をもつかぎり、世界は認識されうるものである。しかし、世界には別様にも解釈されうるものであり、それはおのれの背後にいかなる意味をももってはおらず、かえって無数の意味をもっている。──「遠近法主義。」(力への意志 第481番)』
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