| 2023/07/12(Wed) 06:57:43 編集(投稿者) ■No31565に返信(みのりさんの記事) > 2023/07/06(Thu) 08:27:27 編集(投稿者) > > あるちょっとしたきっかけから『龍樹と語れ!「方便心論」の言語戦略』という > 仏教学者の石飛道子先生が書かれた本を読んでいます。 > > 途中から難しくなるけれど、3分の2ほどなんとか読んだところです。 > それでまた最初から読み直し、読書記録的に感想を2、3回に分けて少し書こうかな、と思ってます。 > 著作権に気を付けながら感想中心に。 > > 「方便心論」というのは、「チャラカ・サンヒター」という当時の内科医学の書の中の討論や論証についての部分を仏教の立場から批判的に取り上げた論理学書だそうです。 > どのような論法を用いて龍樹は議論をしたのかその論法について、また、議論相手の論法について書かれている内容が中心の本と私は見ています。
感想を2,3回に分けて書いてみようかな、と思ったけれど、いざとなるとそれも難しい。。。 今、また最初から読み直ししていて3分の1ぐらいまで来て、そこで感じているものを。
チャラカという内科医は現代風に言うと医療哲学といったらいいのか、彼のそれによれば、アートマンを認めそれが輪廻の主体であると考えていたので、アートマンの有無をはっきりさせず、業が輪廻するという仏教は批判の対象でした。 そうしたことからチャラカと龍樹は対話をしてくことになります。
チャラカは名声も大切にする人で、議論に勝つ論法をたくさん考えていて、その中には、相手を煙にまいたりといういわゆる汚い方法もあったようです。 一般的には、チャラカをまったく知らなくても龍樹のほうが逆に煙にまく詭弁論者のように思われているイメージがあると思います。 しかし、龍樹は仏陀の「言い争ってはいけない」という教えに忠実でありたいと考え、争わずに議論するという点でまず相手を説得し、それから議論をし、相手の主張に沿ってその主張が成立しなくなってしまう論法を用いて議論していたようなのです。
チャラカや後に継承したニヤーヤ学派と言われる人々にとっては、龍樹の論法は批判されるものであったであろうのは、逆から言えばあったのだと思います。 それはもしかしたら、自分は主張もせずに否定だけしてきてなんなのだ。。、というものだったのかも。。と、今、なんとなく考えています。 (私が考えているだけなのでまったくの的外れである可能性が高いので、ここ、信用しないでくださいね。)
言い争ってもしかたないよ、と龍樹は言いたかったのだろうか。 仏陀が、人の苦しみを抜くには方法があると説いたように、言い争うという苦しみから離れるためには方法があると。 漠然とですがそんなふうに読みながら考えました。
細かいところまでの感想を書くとなると難しいですし、著作権にも関わってしまうので龍樹の論法についてはここでは書かずにおきます。 仏教、特に龍樹に詳しい方が読むなら、私とは違いかなりの部分を理解できると思いますし、きっと興味深い本だと思います。
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