□投稿者/ ザビビのふくろう -(2023/07/07(Fri) 23:56:53)
| みのりさん、こんばんは。 ほんとうは、もうストップにしようと思っていたんですが、どうしても気になることがあって、レスさせてもらいます。 私の都合なので、スルーでも全然構いません。 ************ 前回、
>場当たり的で不完全な説明になって申し訳ないんですが、 >あえて目的刑論的に言えば、 >社会正義の実現のため、法における人権平等、裁きにおける公正性担保のために、罰則として死刑は必要、と言えるかな。
と述べたんですが、少しミスリーディングかなと思って気になっていました。 訂正がてら補足させてください。 細かすぎてあまりわからなかったら、特にコメントはいいので、気になさらないでください。
[訂正] 簡単に言うと、目的刑論的には、刑罰はある目的(犯罪抑止)を達成するための手段になりますが、 応報刑論に立つ同害報復解釈は、刑罰それ自体の意義を同害報復と解釈するのであって、刑罰が同害報復を達成するための手段であるというわけではありません。 同様に、応報刑論的立場でいう「社会正義実現のための刑罰」は、刑罰自体の意義を表しており、手段ではありません。
************** 刑罰というのは、行為に対する報い(応報)として与えられるものであると思います。 しかし私見では、「報い」といっても「報復(仕返し)」の意を持つべきものではなく、したがって国家による被害者の「代理報復」の意も持つべきものでもありません。 「応報」なのに「報復」ではない、というのは一見腑に落ちないかもしれないので、説明します。
たとえば、スポーツにおけるルール違反に対して与えられるペナルティーは、行為に対する報い(応報)であっても、報復(仕返し)の意味はありません。 また、「天罰」も当然、報復ではありません。 報復(仕返し)が本質的に加害者と被害者、国民vs国民といういわば当事者同士の水平次元で成立するものであるのに対して、これらはいわば垂直次元あるいはメタレベルの第三者による、悪行為に対する法によるいわば「正義の裁き」を本質とします(閻魔様も?)。 つまり、ざっくり言うと、この立場から捉える刑罰とは、法の支配の下で国家(第三者)が、犯罪行為の責任主体である犯罪者に対して応報として科すペナルティーであり、その意義は報復(仕返し)ではなく、社会正義の実現である、ってことになります。
国民⇔国民という水平次元のタリオのロジックではなく、 国家⇒(国民⇔国民) というメタレベルからの正義のロジックに基づく裁き。 それが可能であるためには、その根拠となる公正な法が必要です。 すなわち、正義の裁きが正義であることの根拠は、公正な法にあるわけです。 そこで、問題は。 正義の裁きを可能にする公正な法とは何か? 死刑なき法は、公正な法でありうるのか? ************** と、何か調子に乗って書いてきましたが、 「公正な法って、そりゃ目には目を、歯には歯やんけ」 って、元の木阿弥に戻るって、ありがちなんですね(笑) 実際、上に述べたことを重々承知していたと思われるカントら死刑を肯定した近代の哲学者たちの多くが刑罰を同害報復とみなしていたようです。 また、閻魔様の罰は仕返しではないにせよ、目には目を、であってもおかしくない気もしますしね。 なので、ここをもっときちんと述べるには、さらに詳しい議論が必要で、また、法哲学的にはすごく面白いところなんですが、とりあえず、今回はこのへんにしておきます。 一応、スポーツのペナルティーのようなものを考えたら、同害報復ではないペナルティーの可能性もあるかも、と感じてもらえたら十分です。
みのりさん。 悪い癖で気になることがあると長くなってしまうので、 レスは気にしないでください。
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