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■21480 / inTopicNo.49)  Re[21]: 宇都宮芳明先生の解説
  
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/03/12(Sat) 20:14:25)
    pipitさま、お邪魔するね

    No21382
    >『(略)したがって「直観と概念はわれわれのあらゆる認識の構成要素」である。
    カントはこのように
    「なんらかの仕方で触発されることで表象を受け取るわれわれの心の受容性」を「感性」と呼び、
    「それに反して表象そのものを生み出す能力、すなわち認識の自発性」を「悟性」とよぶ。
    つまり感性とはいわば直観の能力であり、悟性とは概念の能力である。
    経験の世界において対象を認識する際には、この二つの能力がつねに協調していなければならない。<

    わたしもこういうの、現象学のから、”だいたい”そう思ってる。
    どうやら、「直感」っていうの、「感性の領域」で、「概念」っていうの「悟性の領域」(わたしのばあい「思-考の領域」ってしてるけど)みたい。

    「心の受容性」「認識の自発性」、前者は「感性」、後者が「悟性」ね。
    現象学では前者を「受動的総合」、後者を「能動的総合」って呼んでるんだとわたし見てる。

    でね、わたしが気になったところは、
    「なんらかの仕方で触発されることで」、っていうところ。

    メルポンの『行動の構造』の訳注に、

    〔『純粋理性批判』の第二版は、〈感性〉から「形式的直観」、つまり「超越論的感性論」のいう「われわれの触発される仕方」を奪って、それを〈悟性〉に与え、また〈超越論的想像力〉の三段の綜合――を放棄して、意識のすべての水準――それは、抽象的分析によってのみ区別される――に「我思う」が現前しているということを第二版よりもいっそう明らかにしようとする。〕

    〔カントの有名な言葉。直観に与えられる多様な表象が綜合されて、〈一つの経験〉ないし〈一つの認識〉となるためには、それらの表象がすべて「我思う」に関係づけられていなくてはならない、というわけである。〕

    ってあるのね。ほら、これ、訳注だし〜、

    どうなの? 実際、カントの、そこらへん。

    メルポンのを読んでるなかで気になってるところなのね。




引用返信/返信 削除キー/
■21449 / inTopicNo.50)  pipitさんへ (;´・ω・)
□投稿者/ うましか -(2022/03/12(Sat) 09:20:31)
    おはようございますー


    宇都宮芳明監訳の『純粋理性批判』を購入されたんですねー\(^o^)/

    私も古本で手に入れました。

    カント沼先輩の書き込みのおかげで?安かった(^^♪


    うましかはカント沼に潜るとき、基本、原佑印のゴーグルをつけますが、目的によって、中山元印、石川文康印、有福孝岳印、宇都宮他印、などなどつけ替えます。あと英訳も少々(;´Д`A ```

    かりにドイツ語を読む力があっても、やっぱり訳本や解説本、哲学史本等は欠かせないかなーとおもいます。

    それにしても、もし身近にカントみたいな知り合いがいたら退屈しないだろうなー。


    ともあれ、なんとか感性論を読んで、消化していきたい! (・ω・)ノ


    それでは〜


引用返信/返信 削除キー/
■21382 / inTopicNo.51)  Re[19]: 宇都宮芳明先生の解説
□投稿者/ pipit -(2022/03/10(Thu) 18:51:57)
    みなさまこんにちは。

    No21356

    No21359 『論理学と数学と自然科学』

    No21370『形而上学の変革』

    今回は、『感性と悟性』についての宇都宮先生解説文の引用です。

    『純粋理性批判 下』
    I.カント 宇都宮芳明監訳
    以文社
    p911より引用。

    『(略)したがって「直観と概念はわれわれのあらゆる認識の構成要素」である。
    カントはこのように
    「なんらかの仕方で触発されることで表象を受け取るわれわれの心の受容性」を「感性」と呼び、
    「それに反して表象そのものを生み出す能力、すなわち認識の自発性」を「悟性」とよぶ。
    つまり感性とはいわば直観の能力であり、悟性とは概念の能力である。
    経験の世界において対象を認識する際には、この二つの能力がつねに協調していなければならない。
    (略)』

    以上で、宇都宮先生の解説文の引用を終わります。

    私は宇都宮先生監訳のこの『純粋理性批判』(以文社)を読んでいくのが楽しみです!
    いろんなご縁に感謝です
    (*^ω^*)♪

引用返信/返信 削除キー/
■21370 / inTopicNo.52)  Re[18]: 宇都宮芳明先生の解説
□投稿者/ pipit -(2022/03/09(Wed) 20:18:56)
    2022/03/09(Wed) 21:27:55 編集(投稿者)

    No21356

    No21359 『論理学と数学と自然科学』

    今回は『形而上学の変革』についてです。

    『純粋理性批判 下』
    I.カント 宇都宮芳明監訳
    以文社
    巻末の宇都宮先生による解説より抜粋引用。p907-909

    (宇都宮先生の解説文章)
    『形而上学の変革
    (略)
    形而上学においても、対象の直観にかんして、同じ変革を試みることができる。
    もし「直観が対象の性状に依拠しなければならない」と考えるなら、その対象について確実なア・プリオリな知を獲得することはできない。
    しかし感覚の客観としての対象が「われわれの直観能力の性状に依拠する」としたら、対象についてなにかをア・プリオリに知る可能性が開かれる。
    さらにこの直観内容が客観的な認識となるためには、表象としての直観内容を対象に関係づけ、後者を前者によって規定しなければならないが、それにはさらに「概念」が必要である。
    ところでこの概念についても、それが対象に依拠すると考えると、やはり対象について確実なア・プリオリな知を得るのは困難である。
    そこでこの場面でも、「対象」が、あるいは「対象がそのうちでのみ(与えられた対象として)認識される経験」が、「この概念」に依拠すると考えるならば、問題は解決する。と言うのも、「経験そのものが悟性を必要とする一種の認識」であって、「私はこの悟性の規則を、対象が私に与えられる前に、したがってア・プリオリに、私のうちに前提しなければならない」し、「この規則はア・プリオリな諸概念に必然的に依拠し、それに合致しなければならない」からである。
    (略)
    カントはさらに、「自然探求者を模倣したこの方法は、純粋理性の諸要素を、実験によって確証されたり反証されたりするもののうちに求めることにある」と語っていて、ここからまた、カントが形而上学に実験的方法を採用したとも言われるのである。』

    以上で引用終わります。
    次は宇都宮先生の説明『直観と概念』に続きます。

引用返信/返信 削除キー/
■21369 / inTopicNo.53)  Re[17]: 宇都宮芳明先生の解説
□投稿者/ pipit -(2022/03/09(Wed) 19:27:34)
    No21367に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > お邪魔しちゃうよ、「純粋理性批判を読んでみる」さん
    >
    > 原本の訳本は「の」、訳注は「の、の」、解説は「の、の、の」、って、わたし見てる。「の」が増えるほど原本から遠ざかっていくんじゃないかしら?
    >
    > 言いかえると、人の数だけ「の」がある、っていうこと。だから、結局、あなた”の”はなんなのよ?っていうことになるじゃないかしら?
    >

    悪魔ちゃん、こんばんは。

    わたしは宇都宮先生の解説を読んで、前よりカントの文章の日訳の内容の推測が、自分に納得できるものになったよ。

    宇都宮先生のメガネ越し理解になるのかな??


引用返信/返信 削除キー/
■21368 / inTopicNo.54)  スピンオフ!
□投稿者/ pipit -(2022/03/09(Wed) 19:24:26)
    2022/03/10(Thu) 12:10:23 編集(投稿者)

    みなさまこんにちは。

    No21359
    > まず論理学であるが、カントによると、(略)われわれの認識の客観には一切関与しないで、(略)思考の形式的な諸規則しか扱わないから(略)それは客観についての認識によってわれわれの知を拡張するということをしないから、(略)諸学のためのいわば「予備学」であって、その限りでまだ「客観的に学とよばれるもの」には属していない。<

    ちなみに、上記はその当時の形式論理学的なものについてのカントの考え方かな?ってpipitは思っていて、
    それで、上記が(認識のすべての内容)を切り捨てる論理学とすれば、
    (認識のすべての内容)を切り捨てない(認識のアプリオリな内容を含む)論理学が、カントの超越論的論理学なのではないかと思っています。

    ↑そういうことを言ってるのではないかとpipitが思っているカントの文章を引用します。↓

    『純粋理性批判2』カント、中山元先生訳、p25-29より抜粋引用。[]は中山先生の注釈。
    『すでに指摘したように一般論理学は、認識のすべての内容を切り捨て、認識と客観との関係をすべて無視しながら、認識相互の関係の論理的な形式、すなわち思考一般の形式を考察するのである。
    ところで直観に、純粋な直観と経験的な直観の区別があるように(略)対象について考察する場合にも、対象についての純粋な思考と経験的な思考の区別があることになるだろう。
    というのは、対象の純粋な思考の規則だけを含む論理学[一般論理学]で排除されるのは、経験的な内容からなるすべての認識だからである。
    この[認識の内容を排除しない]論理学は、さまざまな対象についてのわたしたちの認識の起源についても考察することになるだろう(ただしこうした認識が対象によって生まれたものである場合を除く)。
    (略)
    、わたしたちは純粋な知性と純粋な理性認識の学の理念を、ここに前もって構築することにしたい。
    これによってわたしたちは対象を完全にアプリオリに思考できるはずなのである。
    このような学は、これらの[知性や理性による]認識の起源と、範囲と、客観的な妥当性を規定する学であり、超越論的な論理学と呼ばねばならないであろう。
    [これが超越論的であるのは]知性と理性の法則だけについて、それがアプリオリに対象に関係するかぎりで考察するからである。(略)』
引用返信/返信 削除キー/
■21367 / inTopicNo.55)  Re[16]: 宇都宮芳明先生の解説
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/03/09(Wed) 19:12:39)
    お邪魔しちゃうよ、「純粋理性批判を読んでみる」さん

    原本の訳本は「の」、訳注は「の、の」、解説は「の、の、の」、って、わたし見てる。「の」が増えるほど原本から遠ざかっていくんじゃないかしら?

    言いかえると、人の数だけ「の」がある、っていうこと。だから、結局、あなた”の”はなんなのよ?っていうことになるじゃないかしら?

引用返信/返信 削除キー/
■21359 / inTopicNo.56)  Re[15]: 宇都宮芳明先生の解説
□投稿者/ pipit -(2022/03/09(Wed) 10:24:45)
    2022/03/09(Wed) 10:29:07 編集(投稿者)
    2022/03/09(Wed) 10:26:46 編集(投稿者)

    No21356

    『純粋理性批判 下』
    I.カント 宇都宮芳明監訳
    以文社
    巻末の宇都宮先生による解説より抜粋引用。p906-907

    『論理学と数学と自然科学

     まず論理学であるが、カントによると、(略)われわれの認識の客観には一切関与しないで、(略)思考の形式的な諸規則しか扱わないから(略)それは客観についての認識によってわれわれの知を拡張するということをしないから、(略)諸学のためのいわば「予備学」であって、その限りでまだ「客観的に学とよばれるもの」には属していない。

     これに反して、数学と自然科学は、いずれも認識の客観にかかわり、しかもその客観について、たんに経験的な不確実な知ではなく、経験に先立つア・プリオリな、確実な知を獲得する。(略)
    それが確実な学の道を歩むようになったのは、そこに革命的とも言える、思考法の一種の変革があったからである。
    カントの説明によると、「二等辺三角形」という図形を最初に描いたひとは、(略)二等辺三角形という概念にしたがって、自分で経験に先立ってア・プリオリに考えを投入して描くことによって、その図形をいわば「産出」しなければならないことを悟ったのである。つまり彼は、「なにかを確実にア・プリオリに知るためには、彼が自らの概念に即して自ら事物のうちに置いたものから必然的に結果したものだけを事物に付け加え、それ以外のものを付け加えてはならないことを見てとった」のである。

     (略)自然科学が学の大道に踏み出したのは、(略)ここにも「急速に生じた思考法の革命」がある。(略)実験という操作によって自然の法則を求めたとき、彼らが気づいたのは、「理性はただ、理性自身が自らの企画にしたがって生み出したものだけを洞察する」ということであった。
    つまり「理性が自然から学ばねばならないことを、そして理性がひとり理性だけでは知ることができないことを、理性自身が自然のうちに投げ入れたものにしたがって、自然のうちに求める」という思考法の改革が、自然科学を確実な学の道へと導いたのである。』

    以上宇都宮先生解説文の引用でした、次の解説『形而上学の変革』へ続きます。

引用返信/返信 削除キー/
■21356 / inTopicNo.57)  宇都宮芳明先生の解説
□投稿者/ pipit -(2022/03/09(Wed) 09:47:57)
    みなさま、こんにちは。
    No21294で引用したカントの序文の文章

    >第二版序文]Wあたりです。
    『理性はこうした原理を片方の手にもち、実験を他方の手にして、自然に立ち向かわねばならないのである。
    それは[すなわち、理性が自然に立ち向かうのは]自然から教わるためではあるが、生徒としての資格においてではなく、任命された裁判官としての資格において、学ばねばならないのである。
    生徒であれば、教師である自然の望むままに口移しに語らされるのであるが、裁判官であれば、みずから提示した問いに答えることを、証人たちに要求することができるのである。』
    『純粋理性批判1』カント、中山元先生訳、p152より引用。<

    のここでは引用していない前後を含めて、このあたりの話題に関しての、宇都宮芳明先生の解説がすごくわかりやすかったので引用させていただきます。

    『純粋理性批判 下』
    I.カント 宇都宮芳明監訳
    以文社

    です。この訳本(上下)は、『純粋理性批判』を五名の先生方が分担して訳され、またご自分の担当箇所の注解が区切りごとに載せられています。
    総監修者の宇都宮芳明先生による全体の解説が下巻巻末に収録されています。
    また、下巻巻末の索引が、B版のページで表記されており、困った時に調べやすそうと思いました。

    それでは、下巻巻末の宇都宮芳明先生『純粋理性批判』解読への手引きより、小題部分三つの連続を(抜粋しながら)引用させていただこうと思っています。
    『論理学と数学と自然科学』
    『形而上学の変革』
    『直観と概念』
    です。
引用返信/返信 削除キー/
■21312 / inTopicNo.58)  うましかさんへ
□投稿者/ pipit -(2022/03/08(Tue) 00:06:41)
    うましかさん、こんばんは(^○^)

    No21308

    > うましかがラッセルによるカントの説明文中からイメージした科学的方法の「帰納」−「演繹」について、「演繹」を、カント的な法学的なニュアンス、つまり中山元訳すところの「根拠づけ」が表現されている文章で読み換えて(やんわり修整)くださったのかなー(゚Д゚;)<

    いえいえ、全然わかりきれないまま思うままに書いてるので、いろいろ勘違いしてると思います、すみませんm(_ _)m
    先に投稿した時は、わたしの中では科学的方法としての帰納と演繹を思い浮かべてましたけど、うましかさんの返信みて、改めて、あーもしかしたらカント的演繹論にも繋がってるのかもと可能性を思いました。


    > いま、段ボール箱から、米盛裕二『アブダクション − 仮説と発見の論理』を出してきました、、、関係あるかどうか私には分からないけれど、C.S.パースは『純理』を熱心に読んでいたそうですね(;´・ω・)
    >
    > 沼にはまってまた身動きとれなくなると困るので、この辺でストップ(;´Д`A ```<

    うぅ、うましかさんの文章に触発されて?黒崎政男先生(の文章)が頭に浮かぶー
    『カントが確立した経験の地平は、したがって真なる認識も偽なる認識をも許容する、というか、むしろそれらを初めて可能にする地平なのである。
    この地平の上でのみ、我々は初めて認識の客観的妥当性を主張しうる。
    その主張はあるいは誤謬であるかもしれないが、この主張の修正・改変は、「超越論的真理」を前提にして初めて可能なのである。』
    『カント『純粋理性批判』入門』黒崎政男先生、p184より引用。

    ※※※※※※※※

    私がNo21294で引用した、第二版序文の箇所に関して、宇都宮芳明先生が丁寧に解説されていて、わかりやすく思えたので、
    後日引用しようと思っています。
    お忙しそうなので、返信はお気遣いなさらないでくださいね
    (^ ^)

    とても勉強になっています、ありがとうございます!

引用返信/返信 削除キー/
■21308 / inTopicNo.59)  pipitさんへ (;´・ω・)
□投稿者/ うましか -(2022/03/07(Mon) 19:49:34)
    2022/03/07(Mon) 20:16:18 編集(投稿者)

    こんばんはー

    No.21294 (pipitさん)

    >理性はこうした原理を片方の手にもち、実験を他方の手にして、自然に立ち向かわねばならないのである。
    >それは[すなわち、理性が自然に立ち向かうのは]自然から教わるためではあるが、生徒としての資格においてではなく、任命された裁判官としての資格において、学ばねばならないのである。
    >生徒であれば、教師である自然の望むままに口移しに語らされるのであるが、裁判官であれば、みずから提示した問いに答えることを、証人たちに要求することができるのである。


    いやーこういう文章が引用できるところ、やっぱりpipitさんは柱だ!(`・ω・´)ゞ

    うましかがラッセルによるカントの説明文中からイメージした科学的方法の「帰納」−「演繹」について、「演繹」を、カント的な法学的なニュアンス、つまり中山元訳すところの「根拠づけ」が表現されている文章で読み換えて(やんわり修整)くださったのかなー(゚Д゚;)


    感謝です(・∀・)


    「根拠づけ」(演繹)、メモっておこう。。。

    ・中山元訳1、p.152

    >[理性が]あらかじめ定めておいた計画にしたがって観察するのでなければ、たんに偶然の観察が行われるだけであって、こうした観察結果をいくら集めても、理性が求め、必要としているような必然的な法則がえられるはずはないのである。現象がたがいに一致するときに、そこに法則をみいだすのは理性の原理だけであって、理性はこうした原理にしたがって、[自然を研究するための]さまざまな実験を考案するのである。<

    ・中山元訳2、p.91
    ・中山元訳2、p.319〜p.331


    ありがとうございました! (/・ω・)/沼

    *******

    【追記】

    いま、段ボール箱から、米盛裕二『アブダクション − 仮説と発見の論理』を出してきました、、、関係あるかどうか私には分からないけれど、C.S.パースは『純理』を熱心に読んでいたそうですね(;´・ω・)

    沼にはまってまた身動きとれなくなると困るので、この辺でストップ(;´Д`A ```


引用返信/返信 削除キー/
■21294 / inTopicNo.60)  うましかさんへ
□投稿者/ pipit -(2022/03/06(Sun) 22:12:41)
    うましかさん、こんばんはー (^_^)

    No21290

    > 私はまだ感性論の途中までしか目を通せていませんので、非常にざっくりとした(しかも誤解の可能性大の(;´・ω・))感想しか書けませんが、<

    どのように考えられているのかお聞きするの、派生することも含めて(検索してる間にたどり着く情報なども)とても勉強になります。感謝です。


    > カント認識論の「感性」−「悟性(知性)」(二つの幹: No.17421 )を、今のところ(経験、観察による)「帰納」−「演繹」と重ねて考えてみようかなとおもっています。違うかなー(;´Д`A ```<

    それは私が考えたことなかった当てはめ方だなーΣ(・□・;)
    おもしろいです!
    今ふと思い浮かんだ箇所を引用しますね。

    第二版序文]Wあたりです。
    『理性はこうした原理を片方の手にもち、実験を他方の手にして、自然に立ち向かわねばならないのである。
    それは[すなわち、理性が自然に立ち向かうのは]自然から教わるためではあるが、生徒としての資格においてではなく、任命された裁判官としての資格において、学ばねばならないのである。
    生徒であれば、教師である自然の望むままに口移しに語らされるのであるが、裁判官であれば、みずから提示した問いに答えることを、証人たちに要求することができるのである。』
    『純粋理性批判1』カント、中山元先生訳、p152より引用。


    > いずれにせよ、感性論に一通り目を通したら、第一項を読み直したいとおもっています。
    >
    >
    > 感性くん  悟性くん
    > (;´・ω・) (;゚Д゚)  ふたたび… あれ?ママは? <

    ママの名前は、カントの中ではあったんですかねー
    カントに心あたりがあったのなら、名前がつけられるものなのだったら、未知の根、とか言いっぱなしで放置するのでなく、書いといてほしかったですねー 
    (・・?)エンターテイナー?


    > *******
    >
    > 【追記】
    >
    > ふと気になって段ボール箱からこんな本を探しました。
    >
    > A.F.チャルマーズ『科学論の展開 − 科学と呼ばれているのは何なのか? −』
    >
    > h
    > ttp://www.kouseisha.com/book/b212188.html
    >
    > でもこの本、索引にカントの名が無ーい(゚Д゚;)
    >
    > あと、ついでに…
    >
    > 須藤靖・伊勢田哲治『科学を語るとはどういうことか − 科学者、哲学者にモノ申す』
    >
    > https://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309254272/
    >
    > あら? 増補版が出てた・・・(;゚Д゚)<

    科学哲学とか、興味はあるんだけど難しそう。。。

    あ!宇都宮芳明先生他訳の純粋理性批判買っちゃいましたー
    ( ^ω^ )v
    古本で上下巻別々のところから購入したので、まず下巻がきましたー
    嬉しいです♪

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