■21308 / ) |
pipitさんへ (;´・ω・)
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□投稿者/ うましか -(2022/03/07(Mon) 19:49:34)
| 2022/03/07(Mon) 20:16:18 編集(投稿者)
こんばんはー
No.21294 (pipitさん)
>理性はこうした原理を片方の手にもち、実験を他方の手にして、自然に立ち向かわねばならないのである。 >それは[すなわち、理性が自然に立ち向かうのは]自然から教わるためではあるが、生徒としての資格においてではなく、任命された裁判官としての資格において、学ばねばならないのである。 >生徒であれば、教師である自然の望むままに口移しに語らされるのであるが、裁判官であれば、みずから提示した問いに答えることを、証人たちに要求することができるのである。
いやーこういう文章が引用できるところ、やっぱりpipitさんは柱だ!(`・ω・´)ゞ
うましかがラッセルによるカントの説明文中からイメージした科学的方法の「帰納」−「演繹」について、「演繹」を、カント的な法学的なニュアンス、つまり中山元訳すところの「根拠づけ」が表現されている文章で読み換えて(やんわり修整)くださったのかなー(゚Д゚;)
感謝です(・∀・)
「根拠づけ」(演繹)、メモっておこう。。。
・中山元訳1、p.152
>[理性が]あらかじめ定めておいた計画にしたがって観察するのでなければ、たんに偶然の観察が行われるだけであって、こうした観察結果をいくら集めても、理性が求め、必要としているような必然的な法則がえられるはずはないのである。現象がたがいに一致するときに、そこに法則をみいだすのは理性の原理だけであって、理性はこうした原理にしたがって、[自然を研究するための]さまざまな実験を考案するのである。<
・中山元訳2、p.91 ・中山元訳2、p.319〜p.331
ありがとうございました! (/・ω・)/沼
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【追記】
いま、段ボール箱から、米盛裕二『アブダクション − 仮説と発見の論理』を出してきました、、、関係あるかどうか私には分からないけれど、C.S.パースは『純理』を熱心に読んでいたそうですね(;´・ω・)
沼にはまってまた身動きとれなくなると困るので、この辺でストップ(;´Д`A ```
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