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■21650 / inTopicNo.13)  Re[86]: :フッサールのデカルトの
  
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/03/19(Sat) 15:09:17)
    フッサールやメルポンはデカルトのについてついて書いてる。
    フッサールの『デカルト的省察』のなかから少しだけ抜粋して見ます。

    【我思うで問題となっているのは疑いの余地がない「公理」であり、それが他の証明されるべき仮説や、また場合によっては、帰納的に基礎づけられる仮説と一体になって、世界について演繹的に説明する学問のための基礎を提供しなければならず、こうしてこの学問は、ちょうど数学的自然科学のように規範に関わる学問、幾何学の秩序にしたがった学問となるかのように、こう考える先入観である。それと関連してまた、あたかも、私たちの疑いのない余地がない純粋な我のうちに、世界の小さな末端(27)を、哲学する自我にとって唯一疑いえない、世界の部分として救い出したかのように、そしていまや、我に生まれつき備わった原理にしたがって正しく導かれた推論により、残りの世界を導き出していくことが問題になっているかのように、こんな考えを決して自明のこととしてはならない。しかし、残念ながらデカルトの場合は、我を思うことの実体とみなし、それと不可分に、人間の魂または霊魂とみなし(28)、因果律による推論のための出発点とするという、目立たないが致命的な転換によって、まさにそんなふうに考えてしまった。】

    訳注(27)〔せっかく発見した「我」を「世界の小さな末端」と解釈してしまった、というのがフッサールがしばしばデカルトに向ける批判点である。デカルト自身「私が事物の総体(宇宙)の部分をなすに過ぎない、ということを否定することができない」(『省察』第四省察)と述べている。〕

    訳注(28)〔デカルトは、「我あり」を発見し、その「我」を「思惟するもの(res cogitans)」と規定したのち、それをさらに、「魂(mens)あるいは霊魂(animus)あるいは知性(intellecyus)あるいは理性(ratio)」と伝統的な用語を使って言い換えている(『省察』第二省察)。〕

    デカルトはせっかく発見した「私」をすみっこに置いちゃった、ってフッサールは見てるみたい。

    そして、メルポンは、
    【フッサールが自分自身を理解するのに長い時間を要した問題はない、――また、この問題ほど彼が繰り返し繰り返し問い直した問題もない。】
    って言ってる。

    フッサールは「私」をまんなかに置いて見てるのかな。

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■21648 / inTopicNo.14)  Re[85]: :What do I want to do?
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/03/19(Sat) 14:56:38)
    ■21640、
    おかげで、メルポンのわたしのだいぶわたしに見えてきたよなので、
    ひとまずおわりにします。
    パニさん、ありがとね。


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■21647 / inTopicNo.15)  Re[84]: :What do I want to do?
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/03/19(Sat) 14:50:24)
    ■21616、
    田秋さん、ありがとございま〜す。
    「でんしゅうしゅか」さんにはお邪魔するかもよ。
引用返信/返信 削除キー/
■21640 / inTopicNo.16)  Re[83]: :What do I want to do?
□投稿者/ パニチェ -(2022/03/19(Sat) 08:53:05)
    No21615に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > なんかさ〜、わたしこのごろ思うのね

    > なにも外人さんの価値をわたしの価値にすることないんじゃないかって。

    > だから、「What do you want to do?」って、外人さんの言葉を使っちゃってるの、なんか恥ずかしくなってきた。

    > パニさん、ここ、8で終わりにしたいと思いま〜す。
    > ここに書くことによっておかげさんでわたしにだいぶ分かってきたから。ありがと。

    > 101まで、しっかり埋めま〜す。

    ちょい残念やけど、了解しました。
    また気が向いたら自分が何の遠慮もなくカキコできる日本語タイトルの板を作って下さい。^^



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■21616 / inTopicNo.17)  Re[83]: :What do I want to do?
□投稿者/ 田秋 -(2022/03/17(Thu) 19:40:31)
    こんばんは、悪魔ちゃん

    新しいトピックはもう立てないの?一休みして(しなくてもいいけど)気分一新、母国語タイトルのトピでまた悪魔ちゃん節を読みたいなあ。
引用返信/返信 削除キー/
■21615 / inTopicNo.18)  Re[82]: :What do I want to do?
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/03/17(Thu) 18:19:42)
    なんかさ〜、わたしこのごろ思うのね

    なにも外人さんの価値をわたしの価値にすることないんじゃないかって。

    だから、「What do you want to do?」って、外人さんの言葉を使っちゃってるの、なんか恥ずかしくなってきた。

    パニさん、ここ、8で終わりにしたいと思いま〜す。
    ここに書くことによっておかげさんでわたしにだいぶ分かってきたから。ありがと。

    101まで、しっかり埋めま〜す。
引用返信/返信 削除キー/
■21614 / inTopicNo.19)  Re[81]: : 意味
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/03/17(Thu) 18:01:52)
    No21433の、

    (24)〔現前しているのはその対象の一側面である射映ないし現出でしかないが、しかし志向的には対象そのものが知覚されている、すなわちそのつどの現出を通して可能的諸現出(地平)をもつ対象が現出している。地平は対象ごとに既知の類型によって枠づけられているから、現在化にはつねに想起と想像としての準現在化が協働している。〕

    現象学では「地平」っていう語を使って何かを表してる。
    〈感性的意味〉の地平は〈単なる知覚+{想像・想起・予期}〉ってして見た。
    メルポンは、〈単なる知覚〉に「地」っていうのがあるっていってるのかな?
    あ、これについては後にする。

    (24)でわたしが気になったのは、
    〔地平は対象ごとに既知の類型によって枠づけられているから〕っていうところ。
    ここにも〔対象〕っていう語が使われてるけど、わたしこれを〈対物〉ってしちゃうよ。
    《地平は対物ごとに既知の類型によって枠づけられている》
    《既知の類型》っていうの、〈分類し名をつけてる〉っていうことじゃないかしら?
    「リンゴ」「ミカン」「イチゴ」・・・、これって分類され名づけられたもの、括られ(枠づけされた)ものの名、だから、地平は対物ごとにすでに分類され名づけられ括られてることのうちで、って見たのね。

    あ、これ、書いとくことにしただけ。

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■21613 / inTopicNo.20)  Re[80]: : 意味
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/03/17(Thu) 18:01:06)
    現象学のわたしの、ここまでのをまとめて見ると、

    〈するもの〉と〈されるもの〉、〈すること〉によって〈されたもの〉が発生する。
    っていう見方から、
    「知覚」を〈するもの〉として、
    知覚されているもの=単なる知覚+{想像・想起・予期}←意味
    ってなった。

    いま話題にしてるのは「意味」だった。
    で、こういう区別をしてみたのね、
    ひとまず、
    *感性の領域でも意味が構成されていて、これを〈感性的意味〉って呼ぶことにして、
    *思-考の領域で意味が構成されていいて、これを〈思-考的意味〉って呼ぶことにして、
    区別して見ていくことにしてみたよ。

    〈思-考的意味〉っていうのは「概念」とも言われてるのかな?
    〈知覚されているもの=単なる知覚+{想像・想起・予期}〉は〈感性的意味〉のほうね。

    知覚されているもの=単なる知覚+{想像・想起・予期}←感性的意味

    このような二つの意味が浮かんだんだけど、これについてはあとでもうちょっと見ていくことにします。

    メルポンは、
    No16450に抜粋したように、
    【人間の意識という問題が決定的な形で論じられるのは、〈知覚〉や〈感覚的なもの〉の段階においてでなければならない】って考えてるみたい。

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■21612 / inTopicNo.21)  Re[79]: : 意味
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/03/17(Thu) 17:58:55)
    No21493のつづき

    (β)〔ノエマは広義での「意味」(Sinn)と解され、「いかなる志向的体験もみなあるノエマを持ち、そのノエマにおいてある意味を持ち、この意味を介して、その体験は対象へと関係する」〕
                ↓
    (β)‘《〈されたもの〉は広義での「意味」と解され、「いかなる志向的体験もみなある〈されたもの〉を持ち、その〈されたもの〉においてある意味を持ち、この意味を介して、その体験は対象へと関係する」》
    の、
    〔「いかなる志向的体験もみなある〈されたもの〉を持ち、その〈されたもの〉においてある意味を持ち、この意味を介して、その体験は対象へと関係する」〕
    のところ、

    こんどは、「A,Bの会話」で見て見るね。
    「A,Bの会話」を〔志向的体験〕ってして見ると、
    《いかなるA,Bの会話もみなある〈されたもの〉を持ち、その〈されたもの〉においてある意味を持ち、この意味を介して、そのA,Bの会話は対象へと関係する》
    ってなるんだけど、やっぱ「対象」って何?って、ここでまた分かんなくなっちゃうのよね〜。

    (α)〔ノエシスは意識の作用的側面を、そしてノエマはその対象的側面を表す。〕
    をもう一回見て見る、
    〈意識の二つの側面として、作用(ノエシス)と、その作用の対象(ノエマ)〉
    《意識の二つの側面として、作用〈すること〉と、〈すること〉の対象〈されたもの〉》
    ってして見ると、
    「ノエシス−ノエマ」→「作用−対象」だがら、「ノエマ」=「対象」=〈されたもの〉でいいのかな?

    で、
    〔A,Bの会話で、AがBに何か話した〕っていうので見て見て、
    「Aが話したこと」っていうのは、Aが何かを話す〈すること〉ことによって、話〈されたもの〉があって、この話〈されたもの〉を「対象」ってして見と、
    《Aの「話したこと」は、Aによって言葉で表現〈されたもの〉、そしてその〈されたもの〉においてある意味をもち、この意味を介して、そのA,Bの会話はAが話したこと〈されたもの〉へと関係する。》
    ん〜ん、こうして見るとなんとなくわかる感じなんだけど、

    もっとわたしに分かりやすく見ちゃうと、
    「会話」っていうのは両者の「言葉」によるやりとりだけど、「言葉」っていう「表現されてるもの」は〈見えるもの〉としての「記号」でしかなく、その「言葉(記号)」がもつ“意味”によって会話してる。A、Bの“意味”のやりとりを「言葉(記号)」を使ってやってる、っていうこと。もし“意味で”通じないと会話は成立しないんじゃないかって。

    (β)はだいたいこんなことを言ってるんじゃないかって。

引用返信/返信 削除キー/
■21593 / inTopicNo.22)  Re[78]: : 間想
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/03/16(Wed) 19:29:41)
    生活に余裕のある人の話、つまんないね〜

引用返信/返信 削除キー/
■21499 / inTopicNo.23)  Re[77]: : メルポンのカントの
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/03/13(Sun) 16:58:45)
    お話しが違うけど、メルポンの『行動と構造』から書き写して見ます、

    【身体について言えば、それも意識の面前で構成される対象のひとつとなって、客観的世界の内に加えられる。そしていかなる自然も能産的認識の相関者としてしか考えられないから、〈認識〉を自然の一出来事として扱うことはもはや問題とならないことになる。もちろん意識は、知覚という意識の出来事の秩序が身体や身体的諸現象の函数として、自然法則によって決定されるとうことを自分でも認める。その意味では、意識は、世界を構成している諸関係のなかに組み入れられうるわけであり、したがって世界の一部としてもあらわれる。そこで意識には、2面があるように思われる。一方では、意識は〈宇宙の場〉であり、世界のいかなる肯定も意識を予想しなければならないが、他方では、意識は世界によって条件づけられるものでもあるわけである。従って、批判哲学の第一の契機は、いかなる身体的・心的出来事からも導出されえない〈意識の一般形式〉と、しかじかの外的出来事やわれわれの心理―生理的機構の特殊性に結びつけられてはじめて現実的に存在する〈経験内容〉とを区別することになろう。前者は、自分のしている認識分析の正当性を主張するために、後者は、知覚を支配する外的諸条件や、知覚の際に感じられる知覚の受動性を説明するために必要なのである。カントの「超越論的感性論」の意味は、だいたいこのようなものである(原注33)。
    だが、この批判主義的態度は暫定的なものでしかありえないはずであり、『純粋理性批判』の第二版がそれを示している。実際われわれは、「〔感性〕に与えられたもの」と「〔悟性によって〕思考されたもの」との関係とか、純粋感覚ともいうべき〈惰性的な「物」〉に対する意識の作用とか、また「触発」と認識の関連、感覚的意識と悟性的意識の連関などをどう考えたらよいであろうか。そのように反省してみると、カントにおいては、結局のところ、感覚的と言える意識は存在せず、「感性論」と「分析論」の分裂とか、所産的意識といったものは存在しないことになってくる(原注34)。
    つまり、知覚内容だけを取り出そうと分析してみたところで、何も見出せないであろう。なぜなら、〈何ものかの意識〉はすべて、その〈何ものか〉が不定な存在であることをやめるやいなや、つまりそれが例えば、「ひとつの色」とか、さらには「この特有の色」として見分けられ、認識されるやいなや、それは体験の〈印象〉を超えて、その印象には含まれてもおらず、またその印象の実在的部分でもないような〈ある意味〉の把捉を予想するものとなるからである。
    認識の〈質料〉は、意識の自己反省に際して、意識によって設けられる極限概念となり、もはや、認識を構成するものではなくなるのである。だが、そのときから、知覚は「悟性的認識」の一変種となり、またそれのもっている積極的な面から言えば〈判断〉となるわけである。】

    (原注33):「超越論的感性論」は、〈経験内容〉ばかりではなく、ついには〈空間形式〉それ自身をさえ、人間の構成した〈偶然的なもの〉にもとづけているほどである。

    (原注34):よく知られているように、『純粋理性批判』の第二版は、〈感性〉から「形式的直観」、つまり「超越論的感性論」の言う「われわれの触発される仕方」を奪って、それを〈悟性〉に与え、また〈超越論的想像力〉の三段の綜合――を放棄して、意識のすべての水準‐−それは抽象的分析によってのみ区別される――に「我思う」が現前してるということを、第一版よりもいっそう明らかにしようとしているのである。


    わたし、カントの知らないから、メルポンの言っているここんとこ、よくわかんないのね。

引用返信/返信 削除キー/
■21493 / inTopicNo.24)  Re[76]: : 意味
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/03/13(Sun) 09:44:41)
    No21479の、
    *「ノエシス」→〈すること〉
    *「ノエマ」→〈されたもの〉
    *「ヒュレー」=〈素材〉
    *「統握」→「統覚」
    *「契機」→〈きっかけ〉とか〈動機〉
    で、
    No21433のを置き換えて見ていって見るよ。

    (α)〔ノエシス的契機あるいはノエシスは意識の作用的側面を、そしてノエマ的契機あるいはノエマはその対象的側面を表す。〕
    を、簡単に〔ノエシスは意識の作用的側面を、ノエマはその対象的側面を表す。〕ってして、
    これはこうなる、
    《〈すること〉は意識の作用的側面を、〈されたもの〉はその対象的側面を表す。》(α)‘
    〈すること〉は作用的側面、っていうのは分かるけど、〈されたもの〉が対象?「ノエシス−ノエマ」は「作用−対象」っていう関係見たいなんだけど、これちょっと分かんない。
    で、こう考えてみたのね。
    ある二人(A,B)が会話してるとき、Aが〈話したこと〉は、Aに対しての象(対象)となり、と同時にBに対しての象(対象)にもなる、ってして見たのね。
    Aが〈話したこと〉っていうのは、Aによって「表現されたもの」=〈されたもの〉。そして〈それ〉はA、B両者に対しての象(対象)となる。ん〜ん、こう見ると〔ノエマ〈されたもの〉は対象的側面〕っていうのも分かる気がする。

    (β)〔ノエマは広義での「意味」(Sinn)と解され、「いかなる志向的体験もみなあるノエマを持ち、そのノエマにおいてある意味を持ち、この意味を介して、その体験は対象へと関係する」〕
    ほら、ここに「意味」が出てきてた。
    で、これはこうなる、
    《〈されたもの〉は広義での「意味」と解され、「いかなる志向的体験もみなある〈されたもの〉を持ち、その〈されたもの〉においてある意味を持ち、この意味を介して、その体験は対象へと関係する」》(β)‘
    で、まず、
    《〈されたもの〉は広義での「意味」と解され、》っていうところ、
    〈されたもの〉を「意味」としている?

    わたし
    知覚=端的な知覚+{想像・想起・予期}
    ってしたんだけど、〈端的な知覚〉を〈単なる知覚〉って変更するね。
    で、
    知覚=単なる知覚+{想像・想起・予期}
    ってする。

    〈するもの〉と〈されるもの〉、〈すること〉によって〈されたもの〉が発生する。
    という見方で、
    〔今、私の前に、一個の「リンゴ」があって、私は「それ」を見ている。〕をまた見ていって見るね。

    「リンゴ」は、私に対する一個の物、「知覚」の“対物”。「知覚」を〈するもの〉ってすると、知覚〈するもの〉に対して〈されるもの〉は「リンゴ」(対物)よね。知覚〈するもの〉が〈すること〉は、狭い意味で〈単なる知覚作用〉ってして見ると、単なる知覚〈するもの〉における〈されるもの〉は〈感覚〉。〈感覚〉されているのは「リンゴ」の見えている面。単なる知覚〈するもの〉は〈感覚されている〉「リンゴ」の見えている面の異種感覚情報を統合〈すること〉。単なる知覚よって〈されたもの〉が発生(現出)する。っていうことになるよね。

    たぶん、現象学のは、知覚を〈単なる知覚〉とだけしてるんじゃなくて、{想像・想起・予期}が付与されてるもの、ってしてるんだと思う。
    こういう意味で「知覚」を〈するもの〉ってして、知覚〈するもの〉が知覚作用〈すること〉によって知覚〈されたもの〉が発生する。「知覚」という語にはこのような〈するもの〉〈されるもの〉、〈すること〉〈されたもの〉が含まれてるって見るよ。
    知覚〈されたもの〉は、〈単なる知覚+{想像・想起・予期}〉。単なる知覚、想像、想起、予期のそれぞれ〈するもの〉が〈すること〉によって〈されたもの〉ものが〈知覚されたもの〉を構成してる、って見ることにして見た。今、私の前にある一個の「リンゴ」は、私のうち(意識)で〈リンゴ〉となり、これが〈知覚されてるもの〉。

    〈されたもの〉を「意味」とすると、〈知覚されているもの=単なる知覚+{想像・想起・予期}〉が「意味」っていうふうに見えてきちゃうのね。

    ここでちょっと想い出したのが、カントの言う「物そのもの」。上のように見ると、今私の前にある一個の「リンゴ」の私のうち(意識)に知覚されているもの〈リンゴ〉は、「リンゴ」そのものじゃない、っていうことになるんだけど。これについてはまた後で。

    で、ひとまず、
    知覚〈されているもの〉=単なる知覚+{想像・想起・予期}←意味
    ってしとく。

    なんかくどくど〜、

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