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■1933 / inTopicNo.73)  原則の分析論・経験の類推
  
□投稿者/ pipit -(2019/10/09(Wed) 14:12:27)
    20分だけ、14:00まで、勉強します

    経験の類推の概略を、竹田青嗣先生の『カント『純粋理性批判』』p109〜126で理解を試みます。

    その原理
    経験は知覚の必然的結合の表象によってのみ可能である。

    竹田先生の解説
    (一つの経験的認識が成立するには、必ず個々の知覚をある"必然的な関係"として結びつける表象が必要である。)

    経験的認識とは、対象や事象が"どのようなものであるか"についての認識。
    つまり、知覚によって客観を規定するような認識。
    多様な知覚がある仕方で綜合されて、その対象の客観的な認識が可能となる。
    この知覚の綜合の必然性は、知覚そのものには属していない。

    多様な知覚の結びつの原理は、知覚ではなく、思考(悟性=概念の働き)にある、とカントは主張する。
    多様な知覚を時間的に「必然的なものとして」結びつける働きが、ここでは「経験の類推」と呼ばれる。

    時間の基本の様態(modus)の三つの枠組み
    ※常住不変性(持続)(変わらず持続するものとして)
    ※継起(ある状態から別の状態が現れてるという(時間的な)原因結果として)
    ※同時存在(互いに同時に別々に存在しているものとして)

    《pipitの私見》↓
    一刹那の知覚だけじゃ、時間は成立しない。
    ただ、一知覚が《在る》だけ。
    知覚の連続により、主体にとって、時間は生じる。
    時間という枠組み内で、主体が対象を捉える時、
    その対象を、
    変わらずあるもの
    変化しながらあるもの
    同時にあるもの
    の三枠の何かを使って捉える、ということかな。

    あっという間に14:10!

    おつかれさまです
    用事がんばろ♪

    私の大好きな養老孟司先生曰く
    二宮金次郎は、本読んでるんじゃねえんだよ、マキ運んでんだよ

    先生、本音言っていいすか、
    遊んで暮らしたいよぉ〜


引用返信/返信 削除キー/
■1932 / inTopicNo.74)  原則の分析論・経験の類推 B第二類推!
□投稿者/ pipit -(2019/10/08(Tue) 21:55:53)
    今ちょうど読書籠り部屋にて勉強している、第二類推のことについて述べられてた文章をネットで見つけました。
    ありがたや〜、です !


    h
    ttp://philosophy-japan.org/wpdata/wp-content/uploads/2016/05/b0c506bdaa5854a7f66c074cbfee5018.pdf

    客観的世界を経験するとはどういうことか
    ー『純粋理性批判』第二類推についての考察ー

    岩井拓朗さん

引用返信/返信 削除キー/
■1926 / inTopicNo.75)  Re[13]: 意識一般
□投稿者/ pipit -(2019/10/06(Sun) 23:09:29)
    >>1925

    >また機会があったら、一般意識についても調べてみたいな(^ ^)<

    あ、違う違う

    カント先生は、意識一般、でした m(_ _)m
    (原語調べてないですけど。。。)


    (´-`).。oO(パクリじゃないもーん)

引用返信/返信 削除キー/
■1925 / inTopicNo.76)  意識一般
□投稿者/ pipit -(2019/10/06(Sun) 23:04:16)
    今、カントの、原則の分析論・経験の類推の箇所を勉強しようとしてるのですけど、その過程で、

    意識一般

    というカントによる概念用語を初めて意識しました。(目は通してたけど頭にちゃんとは入ってきてませんでした)

    御子柴善之先生の文章の引用↓
    『(略)、私たちがすでに検討したように、知覚判断と経験判断がある。知覚判断は主観的であり、諸知覚を結合するものであり、認識主観の状態を判断するものに過ぎない。この判断が客観の経験に届くことはない。では経験判断は、何ができたときに成立するのだろうか。それをカントは「私が知覚を意識一般において結合するとき(Ak300、中公81、岩波103)と記している。結合されるものが知覚であっても、〈私の主観的意識〉ではなく「意識一般」においてそれが結合されるとき、経験が成立するというのである。意識一般とは、〈私の意識〉や〈君の意識〉を概念的に包み超えた意識である。そんな意識がどこかにあるだろうか。あるのは〈私の意識〉や〈君の意識〉だけなのではないか。いや、それでは自然科学が成立するはずはない。権利上、〈私の意識〉や〈君の意識〉に通底する「意識一般」の可能性が想定され、そこで諸知覚が結合されるとき、経験判断が成立するのである。こうして、カントは経験一般の分析を通して「意識一般」というキーワードを取りだした。』
    (『カント哲学の核心』御子柴善之先生、p128.129より引用)


    なにこれーーー

    意識一般、って、おもしろそうなキーワードじゃないですか〜!(◎_◎;)

    カント先生、そんなこと述べてられましたの〜?

    ルソーの一般意志のパクリ(×)
    、、、触発されて閃いたのかなぁ
    違うかなぁ?

    また機会があったら、一般意識についても調べてみたいな(^ ^)


引用返信/返信 削除キー/
■1918 / inTopicNo.77)  wikiの引用
□投稿者/ pipit -(2019/10/03(Thu) 23:32:21)
    カントおたく以外には、あんまし参考になるのかならないのかわからないけど、一応関連しそうなwikiの文章も引用します。(^^;;
    いつもありがとうございます!ちゃんとわからなくてすみませんm(_ _)m

    先験的感性論
    時間および空間(以下時空)は直観の先天的形式である。外的現象に適用される空間は、外的印象を並列的に受け取る外的直観の先天的形式である。これに対し一切の現象に適用される時間は、内的状態を継時的に受け取る内的直観の先天的形式である。ここでいう時空は概念でなく直観である。すなわち個々の時空と唯一の時空とは、個別者と概念との関係でなく部分と全体との関係をもつ。時空の制約は物自体(それ自身は現象しない)には適用されない(先験的観念性(transzendentale idealitat) )。時空はそれによってのみ現象が可能となる主観的制約(経験的実在性 (empirische kealitat) )である。そのため、見出されるはずの一切の対象に妥当すると言いうる。
引用返信/返信 削除キー/
■1917 / inTopicNo.78)  おくったがわさんへ
□投稿者/ pipit -(2019/10/03(Thu) 23:27:55)
    おくったがわさん、こんばんは!
    読み取れてなくてすみませんでしたm(_ _)m



    > ■No1893に返信(pipitさんの記事)
    > >>ミョウバンの三角が同じシステムから作られるというのは、ミョウバンの結晶に触発されて、それを三角形と認識するとき、同じシステムによっているということですか?<
    >>
    >>私見書きます。間違えてたらすみません。
    >>
    >>三角形と認識しても、三角形と認識しなくても、
    >>『ミョウバンの結晶』からして《物自体ではなくて現象》とするのが、
    >>カントの認識論だと今の私は思っています。
    >
    > まあそこは、ミョウバンの結晶という認識(同時に現象)の生起を触発した「何か」に触発されて認識した△ という意味に読んでください。言葉足らずのため、お手数をおかけしてすみませんでした。<


    > 追記
    > でも考えてみると
    > ミョウバンの側面に△という図形を認識する場合、物自体に触発されてなのか、現象(対象)として生起したミョウバンからなのか・・ケースバイケースなのか…<

    自信なしですが、今の時点での私見では、
    、、、うーん、難しい。
    私としては、現象として生じてるミョウバンから、空間の特性を考えてみようと、空間に改めて自分の意志で△を新たに構成してる、かなぁ
    受動と能動かなあ
    感性は受動だとカントは言ってるのですけど、
    ミョウバンは物自体から受動的に生じて
    そこに△を見るときは、能動的に感性の形式である空間に△を書き込みしてるかんじかなぁ。
    難しくてはっきりわからなくてすみません!

    とりあえず、このコメントを書く前に書いた文章を下に貼ります。



    私見書きます。

    正確な例ではありませんが、例えてみます。
    もし私たちがバーチャルリアリティの世界の住人だとします。
    バーチャルではない実在世界には三次元空間はありません。
    バーチャル世界は三次元設定ゆえに、バーチャル世界の中では三角形も作図できます。
    バーチャルリアリティを作り出す純粋直観としての空間という仕掛けがあるから、バーチャルリアリティの住人は三次元で現象を知る。
    その仕掛けである空間を使って、純粋な概念を描く、ということは、つまり、仕掛けとしての空間の特性を描き出していることでもあると思います。
    経験、は、空間の特性に従って現れる。
    その特性に則して純粋数学の概念も構成される。
    経験も仕掛けの特性に則して現れたもの。
    数学の概念も仕掛けの特性に則して作られたも
    の。
    同じ、純粋直観としての空間の特性に則して在るもの、という考え方を今のところしています。



    カントの著作『プロレゴーメナ』よりカントの文章の引用をします。

    【純粋数学が、同時に確然的かつ必然的なものとして現れる、みずからのすべての認識や判断の根拠にする直観は、空間と時間である。】(Ak283、中公52、岩波70)(『カント哲学の核心』御子柴善之先生著、p87.88)

    【したがって、空間と時間は純粋直観なのである。この純粋直観はあのもの〔経験的直観〕に対してア・プリオリに根拠として存するので、それ自身は決して取り去られ得ない。(略)ただし、諸対象がどのように私たちに現象するかが認識されるに過ぎないことは、もちろんのことである。】(Ak283、中公53、岩波71)(同本p89)

    【こうして本章の課題は解決された。純粋数学は、ア・プリオリな総合認識としては、感官の単なる対象以外の何ものにもかかわらないことによってのみ可能である。この感官の経験的直観には、(空間と時間という)純粋直観が、それもア・プリオリに根拠としてあり、また、純粋直観が対象の現実的現象に先行する感性のたんなる形式であることで、根拠としてあり得るのである。】(Ak283-284、中公53-54、岩波71-72)(同本p94)

    【両者〔空間と時間〕は物それ自体に付着する諸規定では決してない。両者は、感性に対する物それ自体のたんなる関係だけに付着する規定である。】(Ak284、中公54、岩波72)(同本p95)






引用返信/返信 削除キー/
■1916 / inTopicNo.79)  Re[9]: pipitさんへ (ミョウバン
□投稿者/ おくったがわ -(2019/10/03(Thu) 14:17:28)
    2019/10/03(Thu) 19:38:49 編集(投稿者)

    No1893に返信(pipitさんの記事)
    >>ミョウバンの三角が同じシステムから作られるというのは、ミョウバンの結晶に触発されて、それを三角形と認識するとき、同じシステムによっているということですか?<
    >
    > 私見書きます。間違えてたらすみません。
    >
    > 三角形と認識しても、三角形と認識しなくても、
    > 『ミョウバンの結晶』からして《物自体ではなくて現象》とするのが、
    > カントの認識論だと今の私は思っています。

    まあそこは、ミョウバンの結晶という認識(同時に現象)の生起を触発した「何か」に触発されて認識した△ という意味に読んでください。言葉足らずのため、お手数をおかけしてすみませんでした。

    追記
    でも考えてみると
    ミョウバンの側面に△という図形を認識する場合、物自体に触発されてなのか、現象(対象)として生起したミョウバンからなのか・・ケースバイケースなのか…
引用返信/返信 削除キー/
■1915 / inTopicNo.80)  読書籠り部屋G
□投稿者/ pipit -(2019/10/02(Wed) 23:05:59)
    目標 二行

    p274〜

    『すべての変化は原因と結合の法則に従って生起する』という原則を、カントは次のように証明しようとする。

    わたしたちは、対象のある状態と別の状態が続いて現れることを、さまざまな仕方で知覚する。

    以上二行!

    とりあえず、私の実感としての実例あげてみます。

    スマホの画面なんか、わかりやすいですね。

    タッチパネルでスクロールしながら画面を見てる時など、
    1秒ごとに、スマホに映る映像も違ってくるでしょう?
    でも、対象としてのスマホは同じように感じてるでしょう?

    つまりaという画面が映ってるスマホの次に、bという画面が映ってるスマホが続いて現れてるようにわたしたちは思ってますよね?

    そのような現象の状態を、
    【わたしたちは、対象のある状態と別の状態が続いて現れることを、さまざまな仕方で知覚する。】と冨田先生は表現してるのかな?と思いました。

    で、3行目も見てみると、、、

    なるほど、知覚、かぁ。

    3行目は、
    【けれども、私たちが知覚する多様な状態の継起は、ものごとの客観的先後関係を示すとは限りません。】

    私が挙げたスマホの画面の例の場合、時系列に沿って起きた対象の状態と私の知覚の先後関係が対応したものとなってるけど、
    いつも知覚と客観的先後関係が対応するとは限らない、ということですね。

    例えば、私が、家という対象を見るとき、先にドアを見て、次に屋根を見て、
    だと、知覚の先後関係と、家の対象の状態の先後関係は、ぴったり対応してるとは言えないですね。
    状態としては一応同一な対象と考えた時、私は先に屋根をみることも可能ですし、
    ということで、

    カントは、
    (´-`).。oO【継起する諸現象の客観的関係は、単なる知覚によっては定まらない。(B233.234)】
    と述べてるとのこと。

    。。。でも、仏教で刹那滅という現象の捉え方があるんだけど、その捉え方だと、対象の変化と知覚の先後関係は対応してると言えるかもですね。
    とりあえずは、カントの考え方を知りたいので、カント先生が何を言うのか、耳を澄ましてみたいです

    んー、結構進みましたよ、20行くらい進んだかな?

    次はp275の最後の行から!

    知覚の継起と対象の客観的なあり方に関係あり、と、カント先生が考えてる例(上流の船が下流へと移りいく映像の知覚)からですね。

    今日もおつかれさまなのです
    それぞれの在り方で、心と体がすこしでもゆっくり休めますように

    今日もおやすみなさい

引用返信/返信 削除キー/
■1914 / inTopicNo.81)  とりあえずは、
□投稿者/ pipit -(2019/10/02(Wed) 22:35:25)
    目の前の課題だ〜(>_<)

    目の前の課題からして(わたしには)高すぎるぞっ

    は、はやく、倫理パートに〜

    遠い〜

    って、勉強するのいやだなーって

    。。。読んでる途中の本の続きの二行くらい読んでみよ

    がんばるんだわたす〜
引用返信/返信 削除キー/
■1913 / inTopicNo.82)  カッシーラーさんの『カントの生涯と学説』
□投稿者/ pipit -(2019/10/02(Wed) 22:31:31)
    今はまだ難しすぎると思うけど、いつか、読んでみたいなー


    『カントの生涯と学説』


    エルンスト・カッシーラー

    説明
    内容紹介
    カッシーラーの『カントの生涯と学説』は、
    初版(1918)以来数十年をへた現在もなお、
    最良のカント書のひとつである。
    カントの哲学思想とその生涯の全体がひとつに溶けあった
    その内容と文体は、
    明晰で深い洞察をしめしている。
    名匠の手によるこのカント把握によって、
    読者はカントの哲学および人間の理解へと導かれるであろう。
    本書の最大の魅力は、論述の対象であるカント哲学の偉大さと、
    著者であるカッシーラーの思想とが見事な一致を示している点にある。
    本書執筆当時、カッシーラーの思想は転換期にあった。
    ひとつには第一次大戦に直面して、
    理性にもとづく現実認識の一面性を確信した彼は、
    それまでの新カント派的な発想をこえて、
    世界了解の前提となる想像力・感情・意志等々
    人間の豊かな精神の全体の学をめざしながら、
    カントの把え直しに向かっていたのである。
    〈全体が問題になっている〉カントとカッシーラーの親和力は、
    カントの雄大な体系的思索の頂点である
    『判断力批判』をめぐる本書の考察に、
    その結実をみることになる。
    『判断力批判』を人間の精神形態の十全な表現ととらえる著者の分析は、
    〈象徴形式〉へとつらなるであろう。
    ふたりの巨匠の出会いから成った
    第一級の古典的著作といえよう。
引用返信/返信 削除キー/
■1911 / inTopicNo.83)  読書籠り部屋F
□投稿者/ pipit -(2019/09/29(Sun) 22:44:57)
    p273〜

    (´-`).。oO【なぜなら、その原則は、可能的経験(可能的経験の対象としてのなにか)が前提される場合には、もちろん明証必然的に確かであるが、しかしそれ自体では(直接)アプリオリにはまったく認識されえないからである。】

    形のない原則は、原則に則った現実として現れることで認識できるが、原則自体では認識できない。

    (´-`).。oO【したがって、これらの与えられた概念からだけでは、「生起するものはみなその原因をもつ」という命題を、誰も徹底的に洞察することができない。】

    生じるものには原因がある、という概念を普通私たちは持っているけど、
    (例・赤ちゃんが生まれたなら、母胎から生まれた、という原因要素を、赤ちゃんの存在に内包させて、赤ちゃんというものを認識する。)
    この結果があるとき原因がある、の空疎な枠組み単体だけでは、この概念が必然的明証的であるか否かの判別はできない。

    (´-`).。oO【この命題は、自らの証明根拠すなわち経験を、自らはじめて可能にするとともに、この経験において常に前提されなければならないという、特殊な性質を持つ。】

    この原則が必然的明証的である証拠・根拠は、経験である。
    が、この原則があることで経験が可能となる類いのものであり、
    常に経験の前提とならなければいけない、という特殊な性格を持つ。

    ・・・

    生じるものには原因がある、は総合判断だが、
    生じるものには原因がある、という概念があることで、経験が成り立ち、
    経験の前提にはこの概念が関わっている。

    概念があるとき経験が成り立ち
    概念がないとき経験は成り立たない。

    概念だけでは、その概念の客観的妥当性の証拠にはならない。
    経験、が、概念の証明根拠となる。

    あー、概念が直観に適用されて、経験が成り立ち、
    その経験が成り立ったときにはじめて、その概念は客観的妥当性を持つ
    と言ってるのかな?

    ・・・なんか、今のところ、ご都合主義的な言い分に思えますよ。

    ここのところを、もう少し詳しく見ていくみたい。

    次は、p274の「第二の類推における証明」から、です。
    『「すべての変化は原因と結果の結合の法則に従って生起する」という原則を、カントは次のように証明しようとします。』by 冨田恭彦先生
    ということだそうで、
    どんな風に証明しようとするのかな〜???

    今日はもう寝ます。

    休みが終わるー(u_u)

    おやすみなさい (^ ^) ☆彡

引用返信/返信 削除キー/
■1910 / inTopicNo.84)  読書籠り部屋E
□投稿者/ pipit -(2019/09/29(Sun) 19:05:08)
    p272から。

    アプリオリな総合判断がどのように純粋知性概念から引き出されるというのか。

    冨田先生の訳によるカントの文章を少しずつ、読んでいきます。
    超越論的方法論・B764〜765、の箇所です。

    (´-`).。oO【単なる思弁的な使用における全純粋理性は、概念からの直接的に総合的な判断を一つも含まない。
    というのも、われわれが示したように、純粋理性は、客観的妥当性を有する総合判断を、理念によって得ることができないからである。】

    この文章は、理性による二律背反を検証したあとの、『方法論』での文章なので、直観を伴わない単なる理性が作り出した概念(その時点では経験を伴わない概念)からの総合判断は無理だ、って言っていると私は思っています。

    では、どのように、総合判断を引き出すというのか。なにから引き出すというのか?

    (´-`).。oO【しかし、純粋理性は、知性概念によって確実な原則を立てる。けれども、概念から直接にではなく、常にただ間接的に、その概念がまったく偶然的ななにか、つまり、可能的経験に対して持つ関係によって、そうするのである。】

    知性概念は、理性概念(理念)と違うものだと思います。
    知性はインテリジェンス、知性、理解能力、だと思いますが、
    カントは人間のインテリジェンス能力には、アプリオリな概念が備わっており、そのアプリオリな概念のことを、純粋知性概念(カテゴリー)と呼んでると思っています。

    純粋理性は、そのアプリオリな知性概念によって原則を立てる。

    が、知性概念から直接に原則を立てるのではなく、

    常にただ間接的に、、、

    偶然的ななにか、
    それは、アポステリオリな出会い、
    アポステリオリな体験、に対して、知性概念が持つ《関係》において、純粋理性は、確実な原則を立てる。

    間接的にとは、関係において、原則を立てるから。

    関係がないとき、原則もない。

    ここまでの復習。

    純粋理性は、概念のみからの直接的な、客観的妥当性を有する総合判断を一つも持てない。
    だが、
    純粋理性は、知性概念がアポステリオリな知に何らかの関係を持つ時、その関係において、確実な原則を打ち立てる。
引用返信/返信 削除キー/

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