| こんばんは
アプリオリなものは分析判断でしか真になれない。 これは、今の私の心、と、腑に、しっかりと、落とされましたよ。 ありがとうございますm(_ _)m
思い浮かぶのは、解説本で読んだパーリ経典『赤馬経』(しゃくめきょう・増支部経典)の一節です。
釈尊の言葉として、 『友よ、私は、生まれることのない、死ぬことのない、没することのない、再生することのない世界の終わりを、歩行によって、知る、あるいは見る、あるいは極めることができる、とは説きません。 私は、世界の終わりを極めないまま、苦(輪転苦)の終わりを作ることを説きません。 友よ、私は、想があり意があるわずか一尋のこの身体における、世界(苦諦)と世界の生起と世界の滅尽と世界の滅尽にいたる行道とを説くのみです。
世界の終わりは歩行によって 決して極められ得ない 世界の終わりを極めなければ 苦からは解放され得ない それゆえ世界を知る賢者 梵行を修めた世界の達人 寂者は世界の終わりを知って この世あの世を願い求めず 』
(『パーリ仏典入門』片山一良先生、p231.232)
少なくとも、数学では、アプリオリなものは、すでに備わってるものの中でしか、真になれない、と言われている。
真理は、自己に揃ってる。 そんな気持ちになります。
本当の本当にありがとうございます。
でも、カントの勉強は続けますよお〜(^O^)/
|