| 『カントの時間論』中島義道先生 p5〜7より抜粋引用
『(略) すなわち、なぜ因果性のカテゴリーが時間にうまく適用されるのか、という問いに対するカントの答えは、時間がその内に因果的構造を内包するからなのである。 (略) 「感性論」から「原則論」まででは、時間が外的・内的世界を秩序づける能力をもつこと、すなわち経験的実在性をもつことが論証されている。 だが、こうした外的・内的世界の秩序能力を有する時間が、それ自体としては存在せずに自我による構成によるかぎりで存在するという時間の超越論的観念性については「感性論」から「原則論」に至るまで主観的には考察されてはいない。カントは「弁証論」の「アンチノミー(二律背反)論」ではじめてこの問題を扱っている。 カントは「第一アンチノミー」で、時間とは自我によって構成されるかぎりで存在することを、世界=時間の始まりに関するアンチノミーを通じて確認している。この論証はやや抽象的であり、あまり説得力が強いとは言えない、だが、カントはさらに具体的に「第三アンチノミー」で時間と自由との関係を問うている。物理学を可能にし、私の「こころ」をも位置づけることができる客観的時間でさえ、私の自由な行為をそのうちに位置づけることはできない。そのかぎり、それは観念的なのである。この結論は、つまるところ私の自由な行為こそが実在的(レアール)であることを語っている。
すなわち、カントの時間論のすべてを支えるのは、私の自由な行為こそが実在的であるという前提である。いかに物理学を基礎づけ外的・内的世界を秩序づける能力をもとうとも(時間の経験的実在性)、時間は、実在的な私の自由な行為を秩序づけることができないゆえに、観念的であるにすぎない(時間の超越論的観念性)。』
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