□投稿者/ pipit -(2019/10/06(Sun) 23:04:16)
| 今、カントの、原則の分析論・経験の類推の箇所を勉強しようとしてるのですけど、その過程で、
意識一般
というカントによる概念用語を初めて意識しました。(目は通してたけど頭にちゃんとは入ってきてませんでした)
御子柴善之先生の文章の引用↓ 『(略)、私たちがすでに検討したように、知覚判断と経験判断がある。知覚判断は主観的であり、諸知覚を結合するものであり、認識主観の状態を判断するものに過ぎない。この判断が客観の経験に届くことはない。では経験判断は、何ができたときに成立するのだろうか。それをカントは「私が知覚を意識一般において結合するとき(Ak300、中公81、岩波103)と記している。結合されるものが知覚であっても、〈私の主観的意識〉ではなく「意識一般」においてそれが結合されるとき、経験が成立するというのである。意識一般とは、〈私の意識〉や〈君の意識〉を概念的に包み超えた意識である。そんな意識がどこかにあるだろうか。あるのは〈私の意識〉や〈君の意識〉だけなのではないか。いや、それでは自然科学が成立するはずはない。権利上、〈私の意識〉や〈君の意識〉に通底する「意識一般」の可能性が想定され、そこで諸知覚が結合されるとき、経験判断が成立するのである。こうして、カントは経験一般の分析を通して「意識一般」というキーワードを取りだした。』 (『カント哲学の核心』御子柴善之先生、p128.129より引用)
なにこれーーー
意識一般、って、おもしろそうなキーワードじゃないですか〜!(◎_◎;)
カント先生、そんなこと述べてられましたの〜?
ルソーの一般意志のパクリ(×) 、、、触発されて閃いたのかなぁ 違うかなぁ?
また機会があったら、一般意識についても調べてみたいな(^ ^)
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