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■19105 / inTopicNo.13)  Re[18]:  (;´・ω・)
  
□投稿者/ おくたがわ -(2021/11/19(Fri) 11:48:16)
    2021/11/19(Fri) 11:49:14 編集(投稿者)

    No19098に返信(うましかさんの記事)
    うましかさん、pipitさん、おはようございます。
    以下うましかさんの疑問についてトンチンカンな投稿になっていたらすみません。
    .    、、
    天野:思惟することができなければならぬ。
        、、、
    石川:考えることはできなければならない
            、、、、
    中村と原は「思考する」

    これは、我々が「物自体」について考える(=カントの考え)のと同じ「考える」と単純に解釈してはダメ?

    『〜そうでないとすれば(=物自体として考えることができないとすれば)、現象となる元がないのに現象があるという不合理な命題が帰結してしまうからである』(石川)

    現象があるならば、感性を触発してその現象を生じさせる「何か」(もの自体)があるはずだ、と考えることとか。

    ただ、
    『同一の対象を物自体として考える』といった表現が引っかかる気はします。うましかさんが気になるのも、その辺ですか?

    ***
    以下、うましかさんの疑問を離れて
    pipitさんも書いてるように、ここにも因果性と自由が両立する根拠が書かれてますね。
    純粋悟性概念が適用されて因果性に束縛される(従って自由がなく道徳の前提が否定される)のは我々のうちにある現象であって、物自体の側には因果性はないゆえに自由がありうる。
550×512

23_20_1.png
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引用返信/返信 削除キー/
■19098 / inTopicNo.14)  pipitさんへ (;´・ω・)
□投稿者/ うましか -(2021/11/19(Fri) 06:43:02)
    2021/11/19(Fri) 08:05:07 編集(投稿者)

    pipitさん、おはようございます沼ー

    >第二版序文の該当文章前後を読んでみました。
    >カント的には『自由』につなげたいんですかねー?

    → No.19095

    >中山先生の第3巻、p294あたりからの、中山先生独自段落でいえば、369 370 371 あたりを、よかったら読んでみてもらえたら、関連すこしはあるかも

    → No.19075

    *******

    pipitさん、貴重な助言をありがとうございますm(__)m

    中山元訳第3巻の中山による段落番号369〜371、目を通してみましたが、私がまだ感性論でうだうだしているレベルなので、内容が細かすぎて???です。ただもう少し遡ってみると、中山段落番号348(p.260)あたりからライプニッツについて論じているのでおもしろそうだとおもいました(;´・ω・)

    ところで、私が 

    >… それにもかかわらず、十分に注意されなければならないことであるが、私たちがまさにこの同一の諸対象を諸物自体そのものとしても、たとえ認識する≠アとはできないにせよ、それでも少なくとも思考する≠アとはできるにちがいないということは、やはりそのさい常に保留されている。なぜなら、さもなければ、現象はそこで現象する或るものなしで存在するという不合理な命題が、そこから生ずるであろうからである。<

    → 原佑訳上巻、p.57

    で気になっているのはなぜかというと、もしカントが上で「対象は物自体として思考はできる」と考えているとすれば、カント認識論?の関心とはズレるかもしれませんが、カントの「認識するerkennen」と「思考するdenken」の区別、「認識する」に対する「思考する」の位置づけはどのようなものなんだろう?とおもうからなのでした(´;ω;`)ウッ…

    物自体は認識はできないが思考はできる、、、とすれば、物自体について、私自身、不可能だと考え過ぎていたかもしれないのかな?、と。


    朝から沼〜(/・ω・)/

    【追記】

    いま、Wikipediaの「ヌーメノン」をみていたら、語源的なギリシャ語の「ヌース」に由来する、「考えられたもの」という意味があるとありました。カントのいう「物自体は思考できる」の「思考」は、これと関連するのかな…?(;´・ω・)

    暇になったらもうちょっと調べてみよっと(/・ω・)/


    https://de.wikipedia.org/wiki/Noumenon (゚Д゚; ) うわぁぁ!! ← 謎の叫び


引用返信/返信 削除キー/
■19095 / inTopicNo.15)  うましかさんへ
□投稿者/ pipit -(2021/11/18(Thu) 23:35:06)
    No19074に返信(うましかさんの記事)
    > 2021/11/18(Thu) 20:15:07 編集(投稿者)
    >
    > pipitさん、こんばんは沼ー
    >
    > 私うましかは、これまで『純理』第一版序論から本文へと読んでいますが、それ以外の箇所で以前から気になっているところがあります。
    >
    > 第二版序文のこれです。
    >
    > >… それにもかかわらず、十分に注意されなければならないことであるが、私たちがまさにこの同一の諸対象を諸物自体そのものとしても、たとえ認識する≠アとはできないにせよ、それでも少なくとも思考する≠アとはできるにちがいないということは、やはりそのさい常に保留されている。なぜなら、さもなければ、現象はそこで現象する或るものなしで存在するという不合理な命題が、そこから生ずるであろうからである。<
    >
    > → 原佑訳上巻、p.57
    >
    > カントはここで、私たちは対象を物自体として認識することはできないが、思考することはできると言っているように、私には読めますー(;´・ω・)
    >
    >
    >
    > カントのおっちゃん、対象は物自体として思考はできるんですね!? (;゚Д゚)
    >
    >
    >
    > 沼あり危険(/・ω・)/

    こんばんは!
    第二版序文の該当文章前後を読んでみました。

    カント的には『自由』につなげたいんですかねー?
    うましかさんは、100分de名著の『純粋理性批判』の西研先生によるテキストはお持ちでしょうか?

    p104前後とか関連してくる気がするけど(西先生の解説おもしろく思いました)、勘違いだったらすみません。

    あー沼迷路ーーー

    おやすみなさーい _(┐「ε:)_ ☆彡
引用返信/返信 削除キー/
■19092 / inTopicNo.16)  引用2
□投稿者/ pipit -(2021/11/18(Thu) 23:05:04)
    みなさまこんばんは ☆彡

    No18965
    > (略)
    > 上記引用カント文章の中山元先生訳も読みたいと、ふらふらと探しているのですが、お目当ての文章はまだ見つけられてないのですが、<

    根性ーーー(=゚ω゚)ノ

    見つけましたので引用します。
    『純粋理性批判5』カント、中山元先生訳、p171より引用、B522あたり。

    ※後で再引用する篠田英雄先生訳との対比がしやすいように、pipitが勝手に番号つけちゃいますm(_ _)m


    (カントの文章)

    @感性的な直観の能力は、ほんらいは受容性にすぎず、
    ある方法で像によって触発されることのできる能力である。

    Aそしてさまざまな像のあいだの関係が、空間と時間という純粋な直観であり、これはわたしたちの感性の純粋な形式である。

    Bこれらの像は、空間と時間との関係において、経験の統一の法則にしたがって結合して規定できるものである場合には、それを対象と呼ぶことができる。

    Cこのような像が感覚能力によらずに発生するとしても、その原因はわたしたちにはまったく知られておらず、わたしたちはこのような像を〈客体〉として直観することはできない。

    Dこうした対象は空間のうちにも、時間のうちにも(空間も時間も、感覚能力によって像が可能となるための形式的な条件である)、思い浮かべることができないのであり、このような条件なしではわたしたちは、直観というものを考えることができないからである。

     Eしかしわたしたちは、現象一般のたんなる叡智的な原因というものを考えることができるのであり、それを〈超越論的な客体〉と呼ぶことができる。

    Fしかしそれは、わたしたちが受容性としての感性に対応する〈何か〉を考えるためにすぎない。

    Gこの超越論的な客体には、わたしたちに可能なかぎりでのあらゆる範囲と関連の知覚を結びつけて考えることができる。
    またこのような超越論的な客体というものは、それ自体であらゆる経験に先立って与えられていると言うこともできる。

    Hしかしこうした超越論的な客体の現象は、それ自体において与えられるのではなく、ただ経験のうちで与えられるにすぎない。

    この現象はたんなる像であり、像というものは知覚として、現実の対象を意味するものだからであり、この知覚は、経験の統一の規則にしたがって、他の知覚と関係しているからである。』
    引用終了


    ==================
    (参考・同箇所篠田英雄先生訳)
    No18965
    > (※以下、篠田英雄先生訳のカント文の引用となります。↓)

    @> 感性的直観能力は本来、受容性にほかならない。
    換言すれば、表象によってある仕方で触発される能力である。<

    A> そして、これらの表象の間の相互関係がすなわち空間および時間という純粋直観(われわれの感性の純粋形式)なのである。

    B> また、これらの表象は、それがかかる関係(空間および時間の)において経験統一の法則にしたがって結合され規定されるかぎりでは、対象と名づけられる。

    C> こうした表象を生み出す非感性的原因は、われわれにはまったく知られていない。

    D> このような対象(自体)は、空間においても時間においても表象されえないだろう。
    しかし、われわれはかかる感性的条件なしには、直観というものをまったく考えることができない。

    E>にもかかわらず、われわれは、現象一般の可想的原因を超越論的対象と名づけてさしつかえない。

    F> しかし、それは、われわれがかかる対象(物自体)によって、受容性としての感性に対応する何か或るものをもつためにすぎない。

    G> われわれは、われわれの可能的知覚の範囲と連関を、すべてこの超越論的対象に帰し、かかる超越論的対象をいっさいの経験に先だってそれ自体与えられている、といってさしつかえない。 

    H>ところが、この超越論的対象に対応するところの現象は、それ自体与えられるのではなく、経験においてのみ与えられるのである。
    > (『純粋理性批判』岩波文庫、篠田英雄訳、中、一七一頁)
    > (※カントの文章の引用終了↑)


引用返信/返信 削除キー/
■19075 / inTopicNo.17)  うましかさんへ
□投稿者/ pipit -(2021/11/18(Thu) 20:15:40)
    No19074に返信(うましかさんの記事)
    > pipitさん、こんばんは沼ー
    >
    > 私うましかは、これまで『純理』第一版序論から本文へと読んでいますが、それ以外の箇所で以前から気になっているところがあります。
    >
    > 第二版序文のこれです。
    >
    > >… それにもかかわらず、十分に注意されなければならないことであるが、私たちがまさにこの同一の諸対象を諸物自体そのものとしても、たとえ認識する≠アとはできないにせよ、それでも少なくとも思考する≠アとはできるにちがいないということは、やはりそのさい常に保留されている。なぜなら、さもなければ、現象はそこで現象する或るものなしで存在するという不合理な命題が、そこから生ずるであろうからである。<
    >
    > → 原佑訳上巻、p.57
    >
    > カントはここで、私たちは対象を物自体として認識することはできないが、思考することはできると言っているように読めますー(;´・ω・)
    >
    >
    >
    > カントのおっちゃん、対象は物自体として思考できるんですね!? (;゚Д゚)
    >
    >
    >
    > 沼あり危険(/・ω・)/<

    うましかさん、こんばんは!

    実は、今しがた、ええ文章やなーとカントの引用を入力してたのですが、
    力尽きて、途中までで、ここまででいいか、と、投稿したのですが、

    中山先生の第3巻、p294あたりからの、
    中山先生独自段落でいえば、
    369
    370
    371
    あたりを、よかったら読んでみてもらえたら、関連すこしはあるかも、と、思いました。

    それから、今から、中山先生本第五巻のp171
    中山先生独自段落
    576
    を引用しようと思うのですが(疲れたのでまた後で入力します)
    ここも、関連してるのではないかなーと。

    シンクロしてます?

    それとも勘違いかな?

    おつかれさま!



引用返信/返信 削除キー/
■19074 / inTopicNo.18)  沼まみれ沼日記(/・ω・)/ア―レ―
□投稿者/ うましか -(2021/11/18(Thu) 20:08:33)
    2021/11/18(Thu) 20:15:07 編集(投稿者)

    pipitさん、こんばんは沼ー

    私うましかは、これまで『純理』第一版序論から本文へと読んでいますが、それ以外の箇所で以前から気になっているところがあります。

    第二版序文のこれです。

    >… それにもかかわらず、十分に注意されなければならないことであるが、私たちがまさにこの同一の諸対象を諸物自体そのものとしても、たとえ認識する≠アとはできないにせよ、それでも少なくとも思考する≠アとはできるにちがいないということは、やはりそのさい常に保留されている。なぜなら、さもなければ、現象はそこで現象する或るものなしで存在するという不合理な命題が、そこから生ずるであろうからである。<

    → 原佑訳上巻、p.57

    カントはここで、私たちは対象を物自体として認識することはできないが、思考することはできると言っているように、私には読めますー(;´・ω・)



    カントのおっちゃん、対象は物自体として思考はできるんですね!? (;゚Д゚)



    沼あり危険(/・ω・)/







引用返信/返信 削除キー/
■19073 / inTopicNo.19)  引用
□投稿者/ pipit -(2021/11/18(Thu) 20:05:41)
    2021/11/18(Thu) 20:08:38 編集(投稿者)

    みなさま、こんばんは。

    No18965
    > (略)
    > 上記引用カント文章の中山元先生訳も読みたいと、ふらふらと探しているのですが、お目当ての文章はまだ見つけられてないのですが、
    > 話題に関連する別箇所を見つけたので、そちらを先に引用するつもりしてます。
    > (中山元先生訳本、3巻p298)
    > 中山先生独自の小見出しとしては、
    > 『370 〈超越論的な対象〉の位置』<

    まず370を引用します。

    370(『純粋理性批判3』カント、中山元先生訳、p298.299より引用。B345あたり)
    (カントの文章)
    『要するに超越論的な客体というものが
    わたしたちの内部に存在するものなのか、
    わたしたちの外部に姿をみせるべきものなのか、
    わたしたちから感性が失われると同時に失われるものなのか、
    感性を消去したあとでも存在しつづけているものなのか、
    わたしたちにはまったく知ることができないのである。
    この超越論的な客体が非感性的なものであるという理由で、この客体を〈叡智的な存在〉と呼ぶのは、わたしたちの自由である。
    しかしわたしたちは知性の概念をこの客体に適用することはできないため、この観念はわたしたちにとってまったく空虚なままなのである。
    この超越論的な客体は、人間の感性による認識の限界を定め、可能的な経験によっても、純粋な知性によっても満たすことのできない場所を残しておくことにしか役立たないのである。』
    引用終了

    ※ここで補足説明です。
    カントは、人間の感性的直観能力以外の直観能力で捉えられる世界の領域の可能性のことも考えているようです。以下、369より引用します。
    369(同上本p295.2967。B343あたり) 
    (カントの文章)
    『すなわち、わたしたちの直観の方法は、すべての物に向けられたものではなく、わたしたちの感覚能力の対象だけに向けられたものであり、
    この直観の方法の客観的な妥当性には制限があること、
    そしてわたしたちの直観とは異なる種類の直観のための場所と、
    こうした直観の客体となる物の場所をのこしておく必要があるということだ。
     しかしその場合には、〈叡智的な存在〉という概念は不確定なものとなる。
    この概念は、わたしたちがそれが可能であるのか、不可能であるのかを判別することができないものについての観念だということになる。
    わたしたちは、感性的な直観とは異なる種類の直観を知らないし、わたしたちのカテゴリーとは異なる種類の概念を知らないのである。
    しかもこのどちらも、非感性的な対象にはふさわしくないものなのだ。』
    引用終了。

引用返信/返信 削除キー/
■19042 / inTopicNo.20)  田秋さんへ
□投稿者/ pipit -(2021/11/17(Wed) 22:37:00)
    No19031に返信(田秋さんの記事)
    > こんばんは、pipitさん
    >
    > Deeplという翻訳ソフト使ったことはありますか。無料版と有料版がありますが、下のURLは無料版です。
    > https://www.deepl.com/ja/translator
    >
    > 放送大学の先生で、これはいいよと仰ってた先生がいらっしゃいました。一度お試しあれ。<

    田秋さん、こんばんは!
    ご紹介ありがとうございます、さっそく無料版をダウンロードしてみました。
    また使わせていただきますね(^_^)

    そういえばザビビのふくろうさんも使われていました。
    No18502

    田秋さん、書き込みありがとうございます!
引用返信/返信 削除キー/
■19031 / inTopicNo.21)  翻訳ソフト
□投稿者/ 田秋 -(2021/11/17(Wed) 21:52:59)
    こんばんは、pipitさん

    Deeplという翻訳ソフト使ったことはありますか。無料版と有料版がありますが、下のURLは無料版です。
    https://www.deepl.com/ja/translator

    放送大学の先生で、これはいいよと仰ってた先生がいらっしゃいました。一度お試しあれ。
引用返信/返信 削除キー/
■19019 / inTopicNo.22)  Re[5]: 月日記
□投稿者/ pipit -(2021/11/17(Wed) 20:48:52)
    > カント先生が見てた月と地続きなんかなーって。<

    わたしが見てる月、とね。
引用返信/返信 削除キー/
■19018 / inTopicNo.23)  Re[4]: 月日記
□投稿者/ pipit -(2021/11/17(Wed) 20:47:41)
    たまたまさっき、次男とワンくんの散歩いったん。

    月、きれいでさ。

    わたしが、ワンくんに月はあるんやろか?って言ったら

    どうやろなーって。

    次男、ネットのゲーム友達が香港にいるんやって。

    前に、月綺麗やな的な話(チャット?通話?)してたみたいで、

    同じ月みてるんかな、不思議やなーと思ったんやって。

    私が思ったのは、

    カント先生が見てた月と地続きなんかなーって。

    どうなんかなー

    わたし、客観、って、けっこう好きやわー(今は)
引用返信/返信 削除キー/
■19005 / inTopicNo.24)  Re[3]: 月
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/11/17(Wed) 19:00:17)
    ■18998、pipitさま、

    >おなじ つき ?<
    うん、ちがう月ね。
    同じ月、っていう人は、月を客観的に見てる人。

    でもね、 ”今日の月はきれいだね”、っていうのは、おなじつき。
引用返信/返信 削除キー/

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