■19098 / ) |
pipitさんへ (;´・ω・)
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□投稿者/ うましか -(2021/11/19(Fri) 06:43:02)
| 2021/11/19(Fri) 08:05:07 編集(投稿者)
pipitさん、おはようございます沼ー
>第二版序文の該当文章前後を読んでみました。 >カント的には『自由』につなげたいんですかねー?
→ No.19095
>中山先生の第3巻、p294あたりからの、中山先生独自段落でいえば、369 370 371 あたりを、よかったら読んでみてもらえたら、関連すこしはあるかも
→ No.19075
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pipitさん、貴重な助言をありがとうございますm(__)m
中山元訳第3巻の中山による段落番号369〜371、目を通してみましたが、私がまだ感性論でうだうだしているレベルなので、内容が細かすぎて???です。ただもう少し遡ってみると、中山段落番号348(p.260)あたりからライプニッツについて論じているのでおもしろそうだとおもいました(;´・ω・)
ところで、私が
>… それにもかかわらず、十分に注意されなければならないことであるが、私たちがまさにこの同一の諸対象を諸物自体そのものとしても、たとえ認識する≠アとはできないにせよ、それでも少なくとも思考する≠アとはできるにちがいないということは、やはりそのさい常に保留されている。なぜなら、さもなければ、現象はそこで現象する或るものなしで存在するという不合理な命題が、そこから生ずるであろうからである。<
→ 原佑訳上巻、p.57
で気になっているのはなぜかというと、もしカントが上で「対象は物自体として思考はできる」と考えているとすれば、カント認識論?の関心とはズレるかもしれませんが、カントの「認識するerkennen」と「思考するdenken」の区別、「認識する」に対する「思考する」の位置づけはどのようなものなんだろう?とおもうからなのでした(´;ω;`)ウッ…
物自体は認識はできないが思考はできる、、、とすれば、物自体について、私自身、不可能だと考え過ぎていたかもしれないのかな?、と。
朝から沼〜(/・ω・)/
【追記】
いま、Wikipediaの「ヌーメノン」をみていたら、語源的なギリシャ語の「ヌース」に由来する、「考えられたもの」という意味があるとありました。カントのいう「物自体は思考できる」の「思考」は、これと関連するのかな…?(;´・ω・)
暇になったらもうちょっと調べてみよっと(/・ω・)/
https://de.wikipedia.org/wiki/Noumenon (゚Д゚; ) うわぁぁ!! ← 謎の叫び
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