□投稿者/ pipit -(2021/11/18(Thu) 23:35:06)
| ■No19074に返信(うましかさんの記事) > 2021/11/18(Thu) 20:15:07 編集(投稿者) > > pipitさん、こんばんは沼ー > > 私うましかは、これまで『純理』第一版序論から本文へと読んでいますが、それ以外の箇所で以前から気になっているところがあります。 > > 第二版序文のこれです。 > > >… それにもかかわらず、十分に注意されなければならないことであるが、私たちがまさにこの同一の諸対象を諸物自体そのものとしても、たとえ認識する≠アとはできないにせよ、それでも少なくとも思考する≠アとはできるにちがいないということは、やはりそのさい常に保留されている。なぜなら、さもなければ、現象はそこで現象する或るものなしで存在するという不合理な命題が、そこから生ずるであろうからである。< > > → 原佑訳上巻、p.57 > > カントはここで、私たちは対象を物自体として認識することはできないが、思考することはできると言っているように、私には読めますー(;´・ω・) > > > > カントのおっちゃん、対象は物自体として思考はできるんですね!? (;゚Д゚) > > > > 沼あり危険(/・ω・)/
こんばんは! 第二版序文の該当文章前後を読んでみました。
カント的には『自由』につなげたいんですかねー? うましかさんは、100分de名著の『純粋理性批判』の西研先生によるテキストはお持ちでしょうか?
p104前後とか関連してくる気がするけど(西先生の解説おもしろく思いました)、勘違いだったらすみません。
あー沼迷路ーーー
おやすみなさーい _(┐「ε:)_ ☆彡
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